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平成22年4月29日 校正すみ

かくも厳しいものか

64潜航海長古川次男大尉の令兄

田島 明郎

古川 次男

  大竹潜水学校の沖で、昭和二十年四月十二日に米軍の機雷に触れて爆沈した潜水艦の慰霊祭が四十六年ぶりに行われるというニュースが入った。

 『六号潜水艇』以外に、大竹近辺で沈んだ潜水艦があったという事はおぼろに聞いた事はあったがすっかり忘れていた。

テレビ・ラジオともに取材の準備を始めたが、あまりにも資料が無い。千葉の泉五郎様にSOSの電話を入れる。

『クラスが一人死んでいるよ・・・・暫く待て』

待つ程もなく『ゴノジヤ』のマーク入りでファックスが入電、必要充分な資料を拝受でき、『呂六四』の乗組士官の名前、L4型のフネであることも解った。

 泉様の資料を基に取材クルーにレクチェアーをし終えて慰霊船に同乗する。

慰霊船は、宮島の南、可部島沖約〇・五マイルの遭難現場で汽笛を秦鳴、遭難者の遺体を揚陸、火葬した阿多田島の海岸に接岸、上陸して、沈没してから初めての現地慰霊祭を行った。

内地で爆沈しながら今迄一度も現地慰霊祭が行われなかった理由は左記による。

触雷当時「呂六四」は大竹潜水学校の練習艦であり、電報符のある士官は三人しか乗り組んでいなかった。

 艦長は、潜水艦乗りではある種の『名士』であった安久栄太郎大佐(五十期)が、第三三潜水隊司令のまま兼務。機関科の武藤慶吾中佐。(機四二期)、次いで七二期の古川次男中尉。つまり、古川中尉が先任将校・航海長の配置にあった。

 しかも潜水学校の練習生を乗せ、L型潜水艦の定員のほぼ倍、百十五人が全員戦死した。 生存者と呼べるのは、たまたま呉に暗号書を受領に行っていた二水と『艦のツリムが取りにくいから降りていろ』と言われて助かった数名だけ。しかも舞鶴籍のフネだから、生き残りの人々も東北地方で小じんまりとした慰霊祭を行い、『一度現地で慰霊祭を』と言いながら四十六年目にやっと実現したのが今回の阿多田島での現地慰霊祭だった。

新潟に世話人がいるこの『呂六四』の会のメンバーは、士官が一人もいないのに加えて、ほとんど山形・福井・宮城・新潟地方に散らばっており、折角阿多田島で慰霊祭を行うに当って充分な案内が行われず、徳島の古川家に案内は無かった。

 少々『呂六四潜』触雷時の情況を述べたい。

大竹潜水学校の沖は、米軍が投下した機雷の危険海面になっていた。潜水学校は、訓練に当って、前記可部島と潜水学校の見張所を結んだ線から南に出ないよう『見張艦』を配置していた。

 触雷当日は『伊一二一潜』がこの見張に当り、連管長以下数名が眼鏡につき『呂六四』を監視していた。

連管長の上曹の話によると、「呂六四が危険海面に入りかけたので水中信号を送り『呂六四』は了解符を発して、反転するとほぼ同時に爆沈した」とのこと。

 この連管長の目撃談、遭難現場で花束を投下する船の上、阿多田島にあがってからの慰霊祭、生存者の話等を折り混ぜて、慰霊祭の翌々日六月五日に放送したテープを、報告を兼ねて泉様にお送りした。

 泉様は、『古川の家はお母さんとお兄さんがおられるが、遭難当時のことも慰霊祭のことも全然解っていないらしい。このテープを送ろう』ということで、泉様にお送りしたのとは別に、私からテープを1本、古川次男様の御令兄・古川護様にお送りした。

それに対する御返事が、後に掲げる御令兄様からのお便りである。この御返事を拝読して、士官の家族は、ここまで、この時期になってまで、責任というものを考えておられたのかと、暫く呆然とした次第。

 先に述べた混成乗員で身動きも不自由であったろう潜水訓練。水深は三十メーターもない。航海長といえども、このような状態で数十メーターの精度で位置が出せるはずはなし。何よりも、充分な安全を見込んで見張艦から信号すべきだったと思うし、あるいは安全と思われていた海底に機雷がはみ出していたのかも知れない。

 古川家に慰霊祭の連絡がなかったのは世話人が言っていたように『充分遺族の方に連絡が取れなかったのです』の言葉を添えて、古川護様に御返事はしたが、古川中尉の追悼記事は『なにわ会誌』で見かけたことがないこともあり、平成三年になって、瀬戸内のニュースになった最初で最後になると思われる。

『呂六四潜』現地慰霊祭の願末を御報告する次第。

(筆者は72期の特別四号生徒、略して特4号。沢本倫生の従弟、広島の中国放送制作部長)

       

 前略

先月十五日に『呂六四潜』慰霊祭レポートを拝受いたしながら、御礼状もさしあげませず遷延してまこと申し訳ございません。

 テープが到着いたしました日は、月こそ違え、弟次男の祥月命日でもありましたので、さっそく母と家内を呼び、霊前で家族三人がほんとうに固唾をのんで拝聴いたしました。八十五歳の母は涙ぐんでおりましたようでざいます。

 そして、私は、かねがねそうではなかろうと思っていたことが、正にそうだったこといっそう胸うたれました。

 弟が戦死いたしましたとき、私は満州の奉天で、三十一歳のロートル幹部候補生として若い出陣学徒とともに高射砲学校在学中で、昭和二十年五月千葉高射砲学校に転属、七月卒業して神戸の村上隊に配属、終戦を迎え、八月未帰宅してはじめてそのことを知らさましたが、戦死公報は、「内海西部方面において敵の磁気機雷に触れ戦死す。」とありました。それより先、私がまだ奉天在学中に、弟は二十年一月潜水学校を卒業し、二月頃潜水艦「呂六四号」の先任将校として乗組んだことを、家内からの便りで承知しておりましたので、触雷が先任将校としての航行ミスでなければよいがと念じていましたところ、このテープを拝聴いたし、御尊翰その他添付の文書を拝誦して、ハッキリとその全責任が先任将校(航海長)にあったことを知り、鉄鎚を受けたる思いでございました。潜航練習中に危険水域に出て、注意され、帰航せんとして触雷したとあっては、素人の私にも、その責を負うべき者の誰なるかおのずから判ります。殊には、艦長様が指図がましきことを言われずに、「いいよ、いいよ」を口癖とされる大度量達観の安久司令殿であり、また乗組員がみんな練習生徒なりし由、承って私は胸つぶれる思いで暫く立ちあがれませんでした。このたびの慰霊祭を計画された方々が、私どもをお呼び下さらなかったのも当然で、とても忍びない御気持からだったことと存じます(母にはこのことは申してございません)。

 しかしながら、どうか誤解なさらないで下さい。このたび慰霊祭レポートのテープやその他の記録を御意送賜りましたおかげで、ほんとのことを知り得まして、心からたいへん感謝申上げております。

 さて、私どもは何をしたらよいのか、あれこれ考えましたが、この慰霊祭はこれが最後のようですし、たとえ再び執行されることがありましても、私ども三名は既に老齢で、とても呉まで参上できませんし、代参させるべき子供もございません。

 ただ毎年四月十三日には、自宅で命日祭を営んでおりますので、霊前で、このテープを拝聴し、安久艦長様はじめ乗組員の方々の御冥福をひたすら御祈り申上げるのみながら、事情御諒承賜りたく御願い申上げます。

 先は延引の御詫びかねて、郷土産の粗品相添え御礼のご挨拶まで。

平成三年七月六日

     古川 護

 

 拝復 御懇書ありがたく、もったいなく拝涌いたしました。

 泉様からも、先日長距離電話で懇々とおさそいいただきましたので御礼申上げて、今後は弟の命日祭に併せて、安久艦長様以下乗組員の方々の御冥福をお祈り申上げることを御誓い申しました。

 ただ私は、伊勢の神宮皇学館を昭和十一年(二・二六事件の三月)卒業以来、橿原神宮、大鳥神社と奉仕して、郷里阿波の一ノ宮大麻比古神社で終戦を迎えるまで、皇軍の武運長久を祈りつづけ、その間に昭和十八年十月には三十一歳で応召、すぐに幹部候補生を志願し、見習士官で終戦後いわゆるポツダム少尉となり、今では郷里の鎮守神社に父祖伝来の奉仕をいたしつつ、この村の遺族会長をもつとめておりますが、自分のこの経歴が、弟の航海長としての責任を深く思いすぎることになったのかもしれません。

 しかしながら〜弟とは九歳の年齢差があり、一度もケンカしたことなく、いつも弟はすなおに私の言うことを聴いてくれて私もまた、そんな弟がつねに頼もしく、お互いに信頼し合った仲だけに、いかなる情況下であれ、あの弟が「呂六四』の先任将校として、「俺には責任はないんだ」と死んでいったとは思えないのでございます。

 考えてみますと、私は戦後(実にオーバーな、そしてキザな申し方とは存じますが)自分自身の戦争責任をみつめ、その中に幾分かは弟の責任も併せて背負いたいと、我武者羅に生きぬいて来たようにも思います。しかも、その結果はただ試行錯誤の連続で、何の貢献もできていない自分の一生を、いま静かに(?)振返っている現況と申すべきでしょうか。

 くだらぬことをクダクダ申し述べましたが、そんなわけで、このたび思いもかけぬ貴重なテープを御恵与賜り、その上に、当時の情況下における航海長の責任について懇々とおさとしいただきましたことは、何よりありがたいことでございまして、慰霊祭に参列できなかったことや、弟の遺骨が還らなかったことや、また遺品を引取りに行けなかったことなどについても、いささかも憾みがましい気持はなく、むしろ、みんなありがたいなりゆきのように思えてなりません。

 今後は、毎年四月十三日の命日祭(私宅で神式により執行)に、安久艦長様以下乗組員の方々の御冥福を併せて御祈り申上げることをお誓いいたし、それにて御海容いただきたいという気持でいっぱいでございます。ほんとに色々とありがとうございました。

 この上ともに御健勝のほどを御祈り申しあげます。

 先ずは乱文意を尽くしませんが、取りあえず御礼の御挨拶まで。

 平成三年七月十五日

    徳島県板野郡藍住町東中富

                古川 護

(なにわ会ニュース65号37頁 平成3年9月掲載)

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