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橋口 寛大尉 自決す

小灘 利春

平成 9年10月

T ひととなり

故・橋口寛大尉は大津島基地で一時期を共に過ごした同期生であるが、私は日頃「神に近い存在」と心の中で思っていた。透き通ったように純粋で無私無欲、しかも職務の一つひとつに最高度の真剣さをもって臨んでいた。彼の「第一特別基地隊付発令」は昭和19年8月20日である。重巡洋艦「摩耶」を降りて、9月4日前後に一特基に着任し、倉橋島の大迫基地で予備学生出身および第13期甲種飛行予科練習生出身の搭乗員多数と一緒に待機していた。ある記録によれば1030日、羽田育三少尉、岡山 至少尉、那知 勧少尉と共に大迫を出て犬津島に向かっている。

回天隊創設当時の19年9月初めから我々兵学校72期とそのコレス機関学校53期の合わせて14名が既に訓棟に入っていたが、少し遅れたこの大津島着任は私の記憶する時期に合致する。

急造のバラックのような本部の二階に、士官搭乗員の部屋があって、一緒に勤務し生活したが、普段の彼は無口で物静かであった。苦しい気分のときでさえこコニコと微笑を湛え、一緒にいると救われる思いがする、人に暖かい好青年であった。それでいて、彼の回天操縦は緻密かつ勇猛果敢であり、特攻出撃にかける熱意はまた凄まじいものであった。

19年11月8日に菊水隊出撃、次いで、12月末の金剛隊のあと、千早隊が20年2月20日に硫黄島に向かった。その伊号第368潜水艦、伊号第44潜水艦の先任搭乗員は川崎順二、土井秀夫で共に同期生である。しかし、後の一隻伊号第370潜水艦の先任搭乗員が機関学校54期の岡山 至少尉に決まったとき、彼は猛烈に怒った。

「後輩のくせに、俺より先に出撃する!」と顔を真っ赤にして叫ぶのである。

横で聞いていて、「上の者から出るのが自然だが出撃隊員を次々と組合わせてゆく都合があろうから、一人ぐらい後輩が間に入ってきても艮いではないか」と思ったので、私は同調しなかったが、彼の薩摩隼人らしい烈々たる気迫には全く感心した。本部二階の海寄りの部屋に、同期の搭乗員たちが出撃前夜には遅くまで遺書を書いていた事務机が並んでいる。

 

彼はその机の上で、自分の左小指を切って鮮血を湯呑み茶碗一杯に満たし、太い筆に含ませて

 

「早く出撃させてほしい」旨の嘆願書を何枚も書くのである。それを横目で見ながら「俺は彼よりも先に着任しているから、痛い思いをしなくても俺の方が先に出撃できるのだ」と今思えば奇妙な「安心感」に浸っていた自分を思い出す。

191125日に新しい訓練基地「光」が開隊、その前に彼は光に移った。何か用事があると我々は回天追跡用の魚雷艇とか高速内火艇に乗って大津島から光を訪ねたが、彼は光の特攻隊長三谷与司夫大尉(兵71期)に次ぐ搭乗員として、数多い予備士官、予科練出身搭乗員の指導的立場にいた。或る時、光で訓練中の搭乗員の一人について「どんな具合か?」と尋ねた。すると彼はたちどころに「その人間の優れた点はこう……。問題がある点はこう……。

従って搭乗員としての適性は《Bの上》と俺は判定する」と極めて詳細かつ明快な評価が返ってきた。光基地にいる搭乗員は特に人数が多いのに、ここまでにも的確に、ひとりひとりを観察して性格、能力を見抜いているとは驚きであった。生来の指導者としての資質に終わらず、超人的な努力を指導に注ぐ情熱は、到底私などは足元にも寄れない程であった。出撃が後回しになったのは大津島に着任した順序の所為もあろうが、彼の場合回天隊全体の戦力アップの必要から後輩搭乗員の指導のために残されたものと、多くが信じている。

一方、私のほうは「分隊長の仕事を真面目にやっていると、指導官適任と見られて出撃から外されるのではないか」と真剣に考えて、分隊員の指導から故意に手を抜いていた。それが不心得であったと彼の奮闘ぶりを見て反省するとともに、一層高まった尊敬の思いが今も消えない。

平生基地が次ぎに新設されて20年4月17日、訓練が開始された。

3月始め光から再び移った彼は、特攻隊長兼搭乗員分隊長として一層烈しく精進し、多くの人々に強い印象を残している。

「敵艦に水中接近し、最大速力30ノットで水面浮上突撃」という新機軸の襲撃法を開発する等、彼は「回天兵器の限られた性能の最大限活用を目指したと聞くが、自身が先頭に立っての操縦技術の向上にとどまらず、回天の戦力発揮のために技術面、精神面のリーダーとして渾身の努力を傾注していたようである.

彼は昭和19年の初めには、回天と略同じ構造の人間魚雷を計画し、しばしば上司に具申していたという。その話を本人から聞いたことはなかったが、一特基附の発令が彼だけ単独の日付でなされ、且つその日付が一般隊員より早かったのはその為と頷ける。戦局を見越す先見性と、なにをなすべきかを突き詰めて考える使命感から人間魚雷の構想に到達し、自ら実現して先頭に立とうとした。当時の青年士官として最も立派な人物のひとりと言えるであろう。

U 自決の日付

橋口寛大尉は平生基地で伊号第36潜水艦で出撃する直前に終戦を迎え、自決した。その日付は、或る回天関係の著作物が8月16日と記載し、これが次々と引用されて定説となっていたが、改めて当時の関係者に照会した結果、次のような状況が得られた。

@ 終戦の翌日、平生基地を出撃、その後 命により引き返した神州隊伊号第159潜水艦の先任回天搭乗員 斎藤 正中尉によれば、出撃当日の8月16日朝、橋口大尉を含めての総員見送りを受けており、自決がその日の早朝という事は全く考えられない。18日午後に平生に帰投して部屋に戻ると根本克大尉(兵7T期)が飛んで来られて、後追いを危惧し.「早まった事はするな」とかなり高ぶった調子で言われた。. この事は自決直後だったためと思はれる。

従って橋口大尉の自決は18日未明が妥当と思われる、との事である。

A また、大津島分遣隊で回天十型搭乗員の分隊長であった足立喜次大尉の追想によれば、同じ山口県内の平生基地に転勤の予定であったが、8月15日正午の玉音放送を大津島士官宿舎の二階広間のラジオで聞き、戦争が終わったのなら.もう転勤する必要はないのではないかと疑問を覚えた。しかし指揮官板倉光馬少佐から予定通り移るよう指示があり8月17日朝大津島を退隊した。平生に着任して、出撃直前であった同期橋口 寛大尉に会った。6月1日に大尉に進級しているのに、肩章、襟章は中尉の儘であり、呉に行くと言うので. 足立大尉は自分の桜のマークを分けてやった。17日の夜を過ぎ18日未明、橋口大尉は、その貰ったマークで大尉の肩章に直した軍服を身に着けて自決した。

B 伊号第58潜水艦航海長田中宏謨大尉の手記を見ると「8月17日多聞隊作戦から平生に帰着して基地に上陸、ささやかな招宴ののち橋口大尉の部屋でウイスキーを出してもらい懇談したあと潜水艦に帰ったが、別れるとき、橋口大尉は『明日、俺も呉に行かねばならない用事があるから、貴様の艦に一緒に乗せていって貰いたい』と言った。明けて18日、最終 帰投地呉に向けて平生出港の朝、出港時刻になっても橋口大尉が乗艦して来ない。あの几帳面な橋口が定刻に遅刻するなど事は考えられないと思いながら待っていたところ、しばらくして基地から一隻の艇が来て、橋口大尉の死を告げた」と記してある。

C 一緒に出撃する予定の回天に壕艇搭乗員中川荘治氏(平生基地、上飛曹)の回想記には「8月17日の自分の日記に『巡検後イ36潜組(橋口、藤田、今藤、小森、中川、青木の6名)は思い出の丘(阿多田山)で橋口大尉が皆を集めて諭された』とある。(遺訓、それは我々の永遠に果たす事の難しい宿題だった。6名の者共に泣き、共に語った。

戦いに敗れて神州はない、降伏に条件はない。と等々)

「数時間後の18日未明、午前4時、起こされる。少し前の午前3時20分に橋口大尉自刃された、と」

これからも自決は8月18日であり、時刻は未明であったことは疑いない。

16日」は、単に『終戦直後』の言葉から想像したに過ぎないようである。なお、公報は18日になっていた。

V 自決の場所・方法

自決の場所などの状況についてもまた、諸説が混在しているが、事実は次の記録から確定できると考えられる。

@ 前記斎藤 正氏からの書状によれば「回天の艇内で、拳銃により胸部を撃った」 とのことである。

A 中川荘治氏の追想記では「早速今藤を起こして駆け付ける。出撃魚雷の中でピストル自殺をされていた。ピストルは二発、発射されていたとか、胸を十字に撃ち抜かれて。またまた呆然たる面持ちである」

「穏やかな死に顔だったと今思い出す。隊内での葬儀にも参列した。

先任者を失い、その後どうしたのか、確たる記憶さ らに無し」

B 平生突撃隊橋口百治少佐の書信からは、「8月180215頃、当直士官の報告により、現場を検視、 遺体は回天調整場にある回天の間に、これと並行して安置されていた。服装は白の第二種軍装であった」という。

すなわち「回天の前に正座して」或いは「跨がって」ではなく「艇内の操縦席」であった。

「日本刀で自刃」ではなく「拳銃」であり、それも「頚部」てはなく「胸」「心臓」だったのである。しかも確実を期しての弾丸二発であった。回天乗りの自決としては最も相応しい形の最後と言えよう。

なお、平生基地の仲谷幸郎中尉によれば、橋口大尉は自決の前夜に床屋を呼んで身綺麗にしていたとのこと。

W 何故自決の道を選んだのか

私が復員後に橋口 寛大尉の自決を聞いたとき、驚きと同時に「彼なればこそ」と共感を覚えるものがあった。私とて自決を思ったが、八丈島の臨戦態勢が終戦後も長く続いた為きっかけを失った。思いは似ていても彼の場合遥かに明確、強烈であった。死にたくて死んだ特攻隊員は一人もいないであろう。同様に、彼の場合「死にたくなって死ぬ自殺」とはまったく異質の「純粋な思いを貰徹する自決」と考える。「人生に絶望した」 「世を儚んだ」たぐいの自殺と混同できるものではない。

人間魚雷採用を請願した文書、御両親に宛てた手紙、自啓録に残る所見や遺書から彼の考え、心境は充分に汲み取る事が出来るのであるが、自決に至る彼の判断を敢えて要約すれば、次の二点と言えるのではないかと思う。

@ 純忠報国の信念

終戦を迎え、至純至高の愛図心の凝縮である彼の心を占めたのは. 「吾人の努め足らざりしが故に神州は国体を擁護し得なかった。その責を執らざるべからず」 とした責任感であろう。

特攻長橋口百治少佐の述懐によれば、

「故大尉の自決後、その部屋の整理の際日記を発見、その凡帳面さにびっくりした記憶がある。 その日記の最後に、即ち自決直前に、『臣道を尽くし得ざるを恨む』と大書してあったことを覚えている」と。

A 同期生とともに

彼は回天の道をともに進んだ同期生への切々たる思いを自啓録に残しているが、更に遺書の最後に「さきがけし期友に申し訳なし。神州遂に護持し得ず」と記し、

おくれても 亦おくれても 卿達に 

誓いしことば われ 忘れめや

の遺詠で結び、続けて回天で戦没した同期生の名前を列記している。

「石川、川久保、吉本、久住、小灘、河合、柿崎、中島、福島、土井」

 同期の兵学校72期は回天隊開隊当時の9名、あと着任した橋口たち3名、合わせて12名のうち10名が出撃し或いは殉職を遂げて、残るのは橋口 寛と三宅(渡辺)収一の二人だけになっていた。

(私の名前が入っているのは基地では戦死したことになっていたため)

任務にはまっしぐらの彼は、一緒にいれば溶け込んで目立たない程の艮き仲間であった。それだけ同期生の連帯意識、一体感は強かったと今にして思う。

X 伊三六潜は反転した

この5月、私は倉橋島と東能美島の間の狭い水路「早瀬の瀬戸」を改めて訪れた。終戦直前の8月11日、今は両島を結ぶ高架橋がかかるこの狭水道に、橋口隊を乗せるぺく呉軍港を出て差しかかった回天特別攻撃隊神州隊伊号第36潜水艦は、ここで、米軍戦闘機の銃撃に遭った。駆逐艦以下の小艦艇しか通れない、狭く潮流の速い水道なので潜没できない。変針、回避も出来ない。艦長菅昌徹昭少佐は乗員を艦内に退避させてハッチ閉鎖を命じ、艦長と航海長松下太郎大尉の二人だけが艦橋に残って操艦し、何回となく繰り返される機銃掃射の中ひたすらに通峡を続けた。艦長・航海長ともに負傷。損傷を受けた同艦はやむなく呉工廠に引き返した。修理は終戦に間に合わず、橋口大尉が待ち望んだ出撃は遂に叶わぬ事となったのである。

戦争中の人生は偶然によって切り分けられる。この運命の狭水道で敵機との遭遇がなければ、橋口隊は勇躍出撃したであろう。それぞれの搭乗員は今とは別な人生になったかも知れないが、仮に戦場で潜水艦から発進していれば、橋口隊は能力を最大限に発揮して意のままに散華を逃げ、大きな戦果を挙げたのではあるまいか。その成果は日本民族の誇りを支え、必ずや戦後うちひしがれた国民精神のより速やかな回復に貢献したであろう。ともあれ、彼の人格、品性、行動力は今後の日本の若人にとっても模範とする価値があり、

後世に伝えたいものである。
追記
                                  平成11年11月

光基地を大津島から訪れたとき、橋口中尉(当時)に、私(小灘)が知っている何人かの搭乗員の状況を聞こうと思い「どんな具合か」と、先ず或る一人について尋ねたとき、彼はその人物の優れた点、問題がある点について、極めて詳細に「立て板に水を流すような」との形容どおり、一気に述べて呉れた。その貝体的な内容は大体のことしか覚えていないが、そのなかで今も鮮やかな印象が残る言葉は、

「その搭乗員の人間性については申し分がないが、遺憾ながら決断が遅い。自分の《事》を決定する場合に考えるべき要素が幾つかある。しかし決断に不可欠な要素となると、そんなに多くはない。回天を操縦する際、特に敵艦めがけ突入する最後の浮上観測では、一瞬の躊躇も許されない。しかるに、彼は無視してよい事柄まで、あれこれと考えるので迷いを生ずる。その結果、最善のチャンスを失うことが、性格的にある様に思う。従って、回天搭乗員の適性としての評価は、此の点だけをもって、かなり下げざるを得ない。彼の適性は(Bの上)と俺は判定する」

 光基地の特に人数の多い搭乗員の一人に過ぎない温厚なその人物は、まだ搭乗訓練には入っていない時期であったと思われるのに、橋口はその能力、性格を的確に見通していた。私は橋口の言葉に衝撃を受けた。私たち搭乗員はそれぞれが自分の技術を磨きたい一心ばかりで、毎日の研究会はあったが周囲の技術向上を指導するための、お互いの接触、観察は二の次であった。「俺が、俺が」といった心理状態であったことは否めない。しかるに彼は、自分自身の腕を上げるばかりでなく、先頭に立って回天隊全般の戦力向上のために心血をそそいでいた。その有様を、彼の詳細な評言から十分に察知することが出来た。ただただ圧倒される思いであった。あとの人間については尋ねる気が失せて、会話を打ち切ってしまった。

(なにわ会ニュース77号21頁 平成9年9月掲載)

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