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平成22年4月28日 校正すみ

和夫ノ自決ヲ知り記ス

 故畠中賢一郎

昭和20年9月2日18時安芸町役場ヨリ和夫ノ遺骨本夕19時安芸駅ニ帰ル、トノ急報アリタリ。

之ヨリ先弟卓也満洲ヨリ帰リタレバ土居ニ在リシ母・姉来芸シ、父母姉弟4人恰モ夕餉ヲ終ヘテ歓談ニ時ヲ移シ「卓也帰リタレバ兄和夫モ今宵ハ帰ラヌモノカ」等語ラヒツツアリヌ。

噫和夫!遺骨トナリテ帰レルトハ、戦ヒ終リシ今、公報モ無ク突如遺骨到着スルトハ、

4人等シク其ノ最後ノ模様ヲ私カニ胸ニ感ジ粛然トシテ衿ヲ正シヌ、和夫生前土居ノ家ヲ好ミシヲ以テ土居ニ迎フルニ議決シ即チ駅頭ニ迎フ。親族、知己、近隣亦来り迎フ。

20時、海軍少佐吉田房一、海軍大尉吉本信夫両友ニ抱レテ、雄魂茲ニ帰ル。

吉田少佐ハ和夫ノ隊長ニシテ、吉本大尉ハ機関学校ノ同期ニテ和夫卜頗ル良シ、両将校労ヲ厭ハズ土居ニ至リ交々語リテ深更ニ及ベリ

即チ、其ノ語ルヲ記シテ左ニ伝フ。

          

昭和19年9月和夫潜水学校ニ入校スルヲ止メ、蚊竜隊員トナリヌ。蚊竜トハ布哇攻撃ニ偉勲ヲ奏セル特殊潜航艇ヲ更ニ改良発達セシメタルモノノ謂ニシテ必死必殺ノ特攻兵器ナリ、敵ノ反攻逐年熾烈ノ度ヲ加へ、戦局亦、日ニ非ナル我海軍ノ必勝兵器トシテ全将士望ヲ之ニ擢シアリキ。

和夫蚊竜隊員タルヤ瀬戸内ニ太平洋ニ訓練至ラザルナク、家郷ヲ夢ミズ帝郷ヲ夢ミルノ心ハ、宿毛、須崎ヲモ亦基地卜数へタルニモ拘ラズ、隊員タリシヨリ電話1、書信2ヲ寄コセシノミ。

而モ其ノ努力ヲ以テシテ尚天日ヲ既墜ニ回シ得ズ、遂ニ8月15日ノ大詔降下トハナリキ。1億ノ臣子斉シク哭ク、別ケテ皇国ノ必勝ヲ確信シテ一死報国ノ期至ルヲ待チツツ戦技ヲ練り居リシ和夫ノ胸中如何ゾ。

之ヨリ先和夫等ハ九州佐伯湾ニ在り、隊長吉田少佐蚊竜ノ多数集結スルヲ懼レ和夫ヲ先任艇長トシ数隻ノ隊長タラシメ隣湾ニ在ラシム。15日吉田少佐該地ヲ訪レ諭ス所アリタリ。16日和夫徒歩ニテ主力ノ在ル湾ニ至ル。抑モ隊長ノ任タル極メテ重ク濫リニ其ノ地ヲ離ルベカラズ、然レ共、今此処ニ至ルハ連絡ノ為カト思ヒ格別怪シマズシテ迎フ。今ヨリスレバ訣別ノ意ナラン、平常ノ如ク寡黙ナレドモ機嫌ヨク終始ニコニコシアリキト。

明ケテ17日和夫艇付ニ対シ水、燃料等ノ満載ヲ命ズ。同地ニ在リシ潜水隊長訝リシニ

「訓練ニ行キマス」トノ答へテ多クヲ語ラズ、他艇ノ出動ヲ禁ジ1隻ノミ出港ス。吉田少佐等之ヲ望見シ、該地ニ赴キ右ノ事情卜更ニ海図上ニ沖縄方面へ線ヲ描キアリキト聞キ憂慮ス

吉本大尉、和夫卜意気頗ル投合ス。和夫ノ従卒荷物中ヨリ同大尉宛ノ書簡ヲ発見ス。

 (後記)

茲ニ一同、其ノ企図ヲ知り、大物ヲ屠ルヲ希求スルノ情ト、果サズシテ帰レト祈ル心卜相錯綜シテ只管待チヌ。

和夫等出撃後大隅半島沖ニ至リ偶々時化ニ遭フ、時ニ和夫司令塔上潜望鏡ニヨリ在リシニ、狂浪塔上ヨリ艇内ニ入り枢機タル転輪ニ掛リ該部ニ故障ヲ生ズ、「艇長転輪故障」ノ艇付ノ声ヲ耳ニセル和夫ハ停止ヲ命ジ、艇付ニ拳銃ヲ持チ来レト命ズ。艇付概ネ其ノ意ヲ察シテ従ハズ、和夫怒色アリ。1名ヲ伴ヒテ自ラ探リ再ビ搭上ニ上リ艇付4名ヲ甲板上ニ集ム。時18日8時50分大隅半島佐多岬沖合ナリキ。

和夫己ノ企図ヲ明ラカニシ事茲ニ至リシ経緯ヲ説キ、自決ノ意ヲ陳ブ。艇付一同挙ツテ従ハンコトヲ乞フ。和夫許サズ。厳然トシテ之ヲ留メ「自決ハ俺一人デヨイ」ト言へリ。

時ニ艇ハ半速ヲ以テ鹿児島方面ニ向ヒツツアリ。「鹿児島へ入港セヨ。鹿児島ハ此ノ方向ダ」ト右手ヲ高ク挙ゲテ1発該方向ニ発射シ(注 試射ヲ兼ネシナラン)返ス手ヲ直チニ右顳鬘ャ(こめかみ)ニ当テ発射自決ス、弾丸ハ右顳鬘ャ左ヨリ右後頭部ヲ貫ケリ。

時18日8時50分頃ナリキ。死骸ハ海ニ拾テヨト言ヒアリシモ艇付之ヲ行フニ忍ビズ、三角巾ヲ以テ傷口ヲ縫帯シ軍艦旗モテ顔ヲ覆ヒ電池室ニ安置セリ。

鹿児島ニ入港セヨト残セルモ艇付ハ故障セル艇ヲ繰リ苦心惨憺佐伯基地ニ男泣キシツツ帰投セリ。吉田少佐、吉本大尉等亦泪卜共ニ迎フ。

屍体ハ自決後2時間後迄微ニ呼吸シアリ且基地ニ帰投セルハ24時間ヲ経過セルニモ拘ラズ尚顔色些モ変ゼス稍歯ヲ喰ヒシバリテ安ラカニ死シアリキ。即チ同期生敢テ骨捨ヒノ労ヲ執り、司令青田、吉本両将校ヲシテ来リ告ゲシム。

 

  

宿命的ナル建以別ノ血潮ハ遂ニ余ヲシテコノ挙ニ出デシメタリ。仮令狂ト呼バレシモ愚ト罵ラレシモ、将又敢テ軍紀ヲ犯ストモ降伏ハ断ジテ余ノ肯ゼザル所ナリ。而モ吾微力如何ニシテ落陽を既墜ニ回サン乎。

唯余ハ愛スル部下4名を率イテ鮫鰐ノ渕ヲ探リ八ツ裂キニストモ飽キ足ラズ驕虜ニ対シ些カ一矢ヲ酬インコトヲ期ス。

萬人之ヲ非トスルモ或ハ一人ノ諒トスル者アランカ一筆残シ候。貴官希クハ自重以テ皇国護持ノ大任ヲ盡サレヨ。

悲ナシイ哉 昭和20年8月15日は抑モ如何ナル日ゾ

(原文のまま・これは吉本信夫宛のもので、わら半紙に鉛筆書きのものであった。
   文中 建以別(タテヨリワケ)とは土佐の古い名称のこと)

(なにわ会ニュース19号38頁 昭和45年2月掲載)

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