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平成22年4月28日 校正すみ

父の悪戯(肝試し)

広瀬 晴雄(遼太郎の弟)

  遼太郎7歳、晴雄5歳、祖母の葬儀の時、当時は一同白装束で、頭に三角の布をつけていた。

88号で兄貴への恨み節を書いた償いに、この度は、彼が幼少の頃より如何に豪胆であったかのエピソードを綴ってみた。

それは冒頭の写真にあるとおり、私が5歳、兄が7歳の昭和5年頃の話である。当時の(ひな)びた農村には何の娯楽もなくて、ごくたまに移動映画の鑑賞会が村の小学校の講堂に催されるか、隣村の芝居好きの連中が村の鎮守様の境内で(むしろ)がけのにわかステージで「安達ケ原の鬼婆」の劇を演じるのがの山であった。私達の生家はせいぜい数町歩の田畑を保有する小地主であったが、近所に住む小作人の子女が行儀見習いを兼ねて花嫁修業に身をよせていたのであった。お給金などは到底支払われず、盆暮れに多少のお小遣いをあげる位の程度で、今から思うと誠に夢のような時代であったのである。私達の父は子供達には厳しい一面もあったが、反面大変ユーモラスなところもあったのである。その日は移動映画鑑賞会が村の小学校で開かれた晩のことであった。雪の越後の名のとおり、昼から降り始めた雪は止むことを知らず、しんしんと降り積もるのであった。母の止めるのもきかず、夏の白い浴衣を出させ、分厚いマントの上にそれを被り、雪の中を出てゆくのであった。母は父が映画帰りの子供達を怖がらせる意向だとは分かったが、幼い子供達には少々きついかなと案じていたそうである。講堂のステージに白いシーツをぶらさげて作ったスクリーンの映画がはねて帰途についた。

私はまだ5歳のいたいけなさで、何の映画だったか全く覚えていないし、手を引いて呉れた女中の顔も定かでない。深い雪道を着物の裾を引きずりながら家の近くまで来た時のことである。突然女中が「キャーッ」と凄い悲鳴を上げたかと思うと、やにわに私の手を強引に引っ張って走り出したのである。何が何だか分からない私は、女中の腰にへばりついて大小の雪だるまとなって通用口の玄関に転がりこんだのであった。「おっかさんっ!おっかない!幽霊が、幽霊がでました!」と女中は玄関にへたりこんだのでした。事情を知っていた母は、世にも気の毒そうな顔で、ニヤニヤする父の方を見ながら言いました。

「おお、そうかい、今頃幽霊なんか出る(はず)は無いのだが、怖かったろう、晴雄と一緒に炬燵にはいって温まりなさい」さて、小学校も1年生になった兄の遼太郎は一人前きどりでやがて帰って来るのだが、同じような恐怖を感じさせるのは忍びないと思いながら母は待つのでした。「ただ今ぁ」と雪を被って玄関の戸をあけてはいってきた兄は、雪だらけのマントを母に手わたしながらも落ち着いた声で「すぐそこの角で白いものが動いていたが、少し怖かったよ」と言ったと言う。まだ7歳と言う、歳もゆかぬのに、大人も肝を(つぶ)す幽霊まがいの姿に(おく)しなかった兄の豪胆さに母は我が子ながら天晴れと心の中で(つぶや)いたそうです。後年このエピソードを母から聞かされた私

栴檀(せんだん)双葉(ふたば)より(かんば)この兄には到底(かな)うべくもなかったのだと降参したのでした。もう72年も前の話です。

(平成15年3月記)

(なにわ会ニュース89号57頁 平成15年9月掲載)

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