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平成22年4月24日 校正すみ

佐世保海軍航空隊で殉職した兄を思う

 

岡野 武弘 (旧姓・井尻)

 

昭和20年、私は府立第八中学校の二年生だった。級友たちと軍需工場に動員され、大日本帝国のために「勤労奉仕」という授業を受けていた。食べ物はもちろん.すへて物不足で、小学生の当選標語「欲しがりません、勝つまでは」の時代だった。工場では昼休みに出されるにきり飯一個が.喉から手が出るほど欲しい物になっていた。時々工場内で英語の授業をして下さった先生がおられたか、その勇気を心配しながらも久し振りの本当の授業か嬉しかった。英語は敵国語だったから見つかれば大変である。

2月13日、兄死亡の公報が入った。兄井尻文彦は佐世保海軍航空隊の中尉で、飛行士という職務についていた。

「天皇に捧げた命は名誉なこと」と、母・緑は悲しみを見せなかった。父・武彦と私はカーキ色の国民服とゲートル巻きの姿で、航空隊の葬儀に参列した。兄は訓練中の事故で殉職という事であった。搭乗機は「ゼロ水偵」と呼ばれた「零式三座水上偵察機」で、時速367キロ、航続距離2000キロの性能を持ち、近海まで出没していた敵アメリカ潜水艦に爆雷を没下して攻撃する任務であった。

この日、兄は急降下爆撃の訓練中で、上昇しようとしたら、片方の主翼が飛び散り、機首から海中に突入したそうである。しばらくして、兄の飛行靴だけが浮いて出てきたという。

大格納庫内での葬儀は.水兵の弔砲で始まった。大尉に昇進した兄は、他の二人の兵員たちと大きな写真と位牌になって、式壇の中央に飾られていた。

兄は海軍兵学校第72期卒業生だったので、同期生一人が台湾高雄から零式戦闘機で駆けつけ、弔詞を捧げて下さった。

荘厳な式に心の中は涙でぐしょぬれになりながらも、顔は緊張し感動に震えていた。

中学2年生14歳、寒さも厳しい冬だった。遺品の整理など、親切に対応して下さったのは、兄の2期先輩の日比野昇大尉(後に、古仁屋付近で戦死)で、兄によく似ていた。飛行靴の片方が入っている遺骨箱と遺影を大切に抱いて、空襲を受けるたびに汽車を乗り継いでやっと東京に帰った。母と弟は町会、国防婦人会の人たちと駅に出迎えていた。私が抱く遺骨箱にすっと寄った母か、落ちついた様子で「文彦、ご苦労さんでした。お帰りなさい」と、澄んだ低い声で言って最敬礼した。その母が2、3日後には、私が二階に居るのを知らず、一階の仏間で、「文彦ぉ―。どうして死んでしまつたのぉ」と、身もだえし畳を叩いて号泣しているのだった。「軍国の母」と称えられても、これが本当の母親の姿なのだった。

兄の死後、2カ月たった4日14日.京浜地区は大空襲を受けた。B-29 429機の来襲による被害は大きかった。焼夷弾、機銃掃射、そしてガソリンのにおいのする大火災の中を、何度も死を覚悟しながら、家族四人が逃げられたのは、兄が天国から助けてくれたからだと確信した。この日が、生きていれば22歳となる兄の誕生日だったから。

戦後50年、私は自分史を書いている。兄を調べるため、防衛庁図書館に行き、佐世保航空隊の「戦闘行動調書」を見た。1枚しか無かったが、その中に兄の名かあった。潜水艦攻撃に17機が出撃し、「撃沈の効果確実」という報告であった。九州近海や沖縄の海域までも、日夜出撃した兄の活躍の一端を見る思いがして嬉しかった。兄は「天皇」のために死んだのではなく、「日本と家族の将来の平和」のために死んでいったと思う。

私は今も、兄の22歳の年齢を越えられない。あの明朗で、美男の野球投手の、格好の良かった兄が脳裏にあって、何時になっても兄は兄で、兄弟の愛は変わらないのだ。

(なにわ会ニュース85号25頁 平成13年9月掲載)  

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