TOPへ     戦没記録

平成22年4月24日 校正すみ

兄池田 秀親のこと

池田 逹エ

(1)

私は海軍兵学校の77期(大原分校)で、短期間、海軍の端くれであったが、私の兄池田秀親は72期で、昭和20年2月16日、筑波海軍航空隊において零戦に搭乗し戦死している。私が海軍兵学校へ入校したときは、すでに戦死していたのであるが知るよしもなかった。大正14年1月3日の生れであるから、満20年と1ケ月の生涯であった。あれから兄の人生の2倍の歳月がながれた。

戦後、私たちの家族は岡山から、祖父母の地である熊本の片田舎へ移った。父はリアリストであったが、現実に不満で懐古的な母はよく「秀親が生きていてくれたなら・・」とこぼしていた。生き残った私たち兄弟は、思いおもいの生活に入り、田舎には両親だけが残っていた。私は戦後の学生時代を、左翼周辺をうろつくことで過していた。世の中がやや落ちつき、兄の年金が入るようになり、両親にとって、兄はいつまでも一番の孝行息子であった。

その両親も、昭和44年の秋に相前後して亡くなった。晩年には老人医療制度などもできて、「有難い時世になって・・」と嬉んでいたが、決して私たち息子の厄介になろうとはしなかった。私は当時、福岡で大学病院に勤務していたが、大学は紛争の真最中であった。私は、教官の中でもタカ派であった。

昭和56年の秋、私たち兄弟は郷里の寺に集り、両親の13回忌に併せて兄の37回忌の法要を営み、そのあと墓参をした。嘗て親たちがすんだ家は、住む人もなく荒れ果てていた。父母が生前に建てた家族の墓碑には、兄のことが「昭和20年2月16日茨城上空に於て戦死 正七位勲六等海軍大尉・・」と刻まれていた。

昭和58年の夏、海軍兵学校77期の総会が江田島で開催されることになり、私はこの種の集りに、娘を連れて初めて参加した。思い出の地大原は、かって建ち並んだ生徒館は跡かたもなく、海上自衛隊の小さな訓練基地があるだけで、広い野原であった。その片隅で大原分校記念碑の除幕式がおこなわれた。

かつての江田島本校大食堂で昼食後、校庭で軍歌演習がおこなわれた。建物と校庭には見覚えがあったが、私は、どうしても、軍歌集を片手に高く揚げて声を張りあげる円陣の中には加われなかった。同日私は、教育参考館2階の戦死者名を刻んだ壁の中に、兄の名前を見つけていた。

昭和59年の秋、私は東京へ出たついでに防衛研修所図書館を訪れ、そこで「筑波海軍航空隊戦闘詳報 昭和1911月〜昭和20年6月」を見ることができた。これは戦後大分経ってから米国より返還されたもので、ザラ紙に謄写版刷りの紙も黄ばんでおり、右期間中のいくつかの戦闘報告書が、まとめて製本されたものであった。私はその中の表題「筑波海軍航空隊戦闘詳報(第3号)自昭和20年2月16日至昭和20年2月17日敵機動部隊飛行機邀撃戦」の中に、はじめて兄の名前を見付けることができた。兄の戦死をはじめて実感するような、血が凍えるのを覚えた。

今年の春、私は「宮崎県三校会名簿」の中に、72期の名前を見つけ、延岡市在住の竹森 潔氏に電話した。竹森氏も飛行学生で、兄のことを記憶しておられ、「戦闘機乗りでしょう」と即座に答えられた。

「岡山県出身じゃないですか」 

「はあ、戦後熊本へ移りました」 「ええ、体はがっちりして、顔が角ぼった・・」などの会話があって、私は一度竹森氏を訪ねてみようという気持になっていた。やがて竹森氏は、「私は偵察だから・・」とおっしゃる通り、自宅への道のりを綿密な地図に描いて送って下さった。

竹森氏は、長年勤められた旭化成を退職され、現在は、老齢者の雇用問題にとり組まれている。私は、竹森氏より「なにわ会ニュース」の存在を知らされ、その折に、集められるだけの分を拝借して帰った。この時におしえられたのだが、72期の卒業式において、ランチで阿多田へ向う41期飛行学生たちの写真で、一番写りのよい位置で帽子を振る凛凛しい竹森氏の姿がある。しかし、私の目の前の竹森氏は眼鏡をつけたおだやかな初老の人であった。

初期の「バイパスニュース」をみると、期友たちが遺族の消息を知ろうと懸命の努力をなされたあとが窺える。しかし、私たちの両親と連絡がとれたのは、昭和43年に入ってからのようである。同年2月の「バイパスニュース」に、両親のどちらが書いたのか、「ご遺族のお便りと遺墨」の欄に、「目下5人の子供は外におり、老人2人で淋しく暮しています。」の短文が載せられている。8月にでた「なにわ会名簿」には、住所とともに両親の名前も載っている。ごく最近、姉よりこの名簿が送られてきた。両親のうちとくに母は、この名簿を何度も繰り返し眺めたのであろう。所所に折目がついたり、人名の前に赤丸がつけられたりしていた。

同年11月の「バイパスニュース」には、父が書いたと思われる手紙がつぎのように載っている。

「在りし日の盟友の皆々様方の熱意をこめて製作されたおみごとなる香盆を霊前にご送付賜わり、まことにありがたく、さっそく仏前に供えましたが、亡息の喜びは如何ならんと存じ、新たに涙を覚えました。・・」もうこの頃は、両親ともに衰弱してきており、死期も間近に迫っていた。

 

(2)

この兄と私とは4歳違いである。長兄は祖父母のもとで育ち、高等学校・大学と他所におり、次兄は天折しているので、岡山の家では私にとって、この兄が長兄のようなものであった。兄は明朗闊達で友人も多かったが、私は体も弱く、臆病で泣き虫であった。兄と共に学校へ通ったのは、小学2年生までであったが、兄はよく喧嘩に負けて泣く私の庇護者であった。対校リレー競走で、兄がいつもアンカーをつとめて優勝するのを、私は誇らしく眺めていたが、私も小学6年生となり、兄と同じように対校リレーに出るようになっても、優勝することは少なかった。

私は海軍に在籍したが、戦争が早く終りすぎたせいで、いまだに泳ぎができないでいる。

兄が近所の悪童どもと近くの入江で泳ぐのを、私は眺めるばかりであった。私は体操の中でも、跳び箱や鉄棒は苦手であったが、兄は万能選手のようにそれらをよくした。

昭和16年の開戦の年に、私は兄と同じ中学校へ入ったが、その時、兄はすでに海軍兵学校へ入校していた。私の家には蓄音機があって、父が謡曲や浪花節のレコードを聴いていたが、兄が中学時代に買い求めた洋楽のレコードが数10枚家に残されていた。その中に、トスカニーニ指揮の「椿姫・前奏曲」やワルター指揮の「未完成交響楽」シャリアピンの「(のみ)の唄」などがあった。私も兄の真似をして、戦時中にレコード屋を巡った。兄はつまり、当時のハイカラであったように思う。

海軍兵学校へ入校して、待望の一号生徒になった頃であろうか。兄は親に無心して二眼レフのカメラを買って貰っている。当時の二眼レフは、大学出の初任給の3ケ月分位の値段だったと思うが、兄は何とか、それを手にいれ、カメラに凝りはじめている。二眼レフは6×6版であるが、それに35ミリ用のマガジンをつけ、航空隊に入ってからは、写真銃用フィルムを失敬して写真を撮っているようである。それらの写真でアルバムがつくられた。

 

(3)

兄の遺品のアルバムの1冊は冒頭に長い文章がかかれているが、その終りの部分はつぎのようになっている。(原文のまま)

「・・7月29日吾々は神池航空隊に別れを告げた。その際司令福田中佐の訓辞は今尚彷彿(ほうふつ)とする。霞ケ浦の卒業式も終った。祝宴も終った。予定の時刻が来て卒業の飛行将校、若き士官達は夫々「バス」に分乗し夫々の思いを乗せて土浦駅に向った。後に残った者は、この付近に残る教官のみであった。斯くして思い出多き輩は、桜の散る如く或は前線、内地部隊に散って仕舞った。もう生涯、二度と斯く集る事はない、絶対にないのである。不可能である。その別れがこんなもの、であった。あの時話しておけばよかったと思う事が多々ある。しかしあとの祭りである。今これ等の者の希望を乗せた列車が東京を中心にして次第にその距離を開きつつある事であろう。気心のあった霞空以来の4人組とも、この生涯二度と逢える事もあろうか。測らずも筑波海軍航空隊附教官を命ぜられ、影の如く何事をするにも寄添って一心同体の如く行動した輩とも今や目に見えぬ運命の糸により左右に引き離され、遂に再び逢える事のないのをひそかに憂えている。これが運命であり、軍人の否、軍人と限らず人間の歩む道かも知れない。

筑波空飛行作業第1日、然かも第1番目の着陸にて、精神状態か、飛行場の為か、機材の為か、飛行場2/3位置にて機転覆、肩部に負傷を負い病床の身となる。又二度と学生時代の如き暇な時あるまじと覚悟せし身に再び無聊と焦燥の時を得。ああこれ亦運命なるか独り悶々の情を抑え動かぬ右腕を無理して、この神空以後の写真帖の完成に思い至る。一には楽しかりし神空懐古の意味もあり、この記を終るに当り吾が輩の多幸を祈るや切なり。

19、8、3 筑波航空隊病室にて)」

 

昭和4410月の「なにわ会ニュース」に、筑波空の故神 正也からの神ノ池空の故水谷 潤にあてたハガヰが掲載されているが、その中につぎの部分がある。

「・・申し遅れましたが、第1日目の最初の着陸で池田が着陸直前、失速胸を打ちましたが今日(12日)から乗るのだと言って張り切っています。新少尉着任以来(新庄、川越、桑野、吉田、池田など)筑波も日に日に軍紀厳正になりつつあります。今に日本一の航空隊にしてみせましょう。」

兄のアルバムには、ここにあがった名前の何名かが、あるいはにこやかに、あるいは雄々しく写されている。

 

(4)

「筑波海軍航空隊戦闘詳報」の綴りは完全なものではない。「筑空機密第26号」の.ゴム印のあとに、その1、6、111213242520という具合に製本されている。それらの中で、兄の名前が載っているのは12の戦闘詳報(第3号)、昭和20年2月16日の記事においてのみである。

戦闘詳報は、当時の彼我の形勢をつぎのように述べている。

1、形勢

(イ) 発動前ニ於ル敵兵力ノ行動、企図

(1) 「ルソン」島方面戦闘ハ「マニラ」ヲ中心トシ目下彼我激戦中ナリ
(2) 「マリアナ」基地ヨリスルB29ノ本土来襲ハ漸次時隔ヲ短縮シツツ主トシテ重要航空機製作所機関破壊ニ向ケラレツツアリ

(3) 2月15日午前「トラック」島西方180浬附近ニ発見セラレタル敵艦船群(空母ノ在否不明)ハ針路320度付近ニテ北上16日以後小笠原諸島、本土附近共ニ厳戒ヲ要スル情況ニ在り

(ロ)発動前ニ於ケル我ガ兵力ノ配備、行動等

(1) 2月15日、戦闘可能零戦ヲ極力整備スルト共ニ零戦(五二型)13機ヲ急速小泉ヨリ空輸実動兵力約24機ニ達セシメタリ

(2) 2月16日以後練戦ノ大部ハ戦況ニ応ジ郡山空又ハ松島空ニ退避可能ノ如ク準備ス

(3) 被害局限対策ノ徹底ヲ図り14日中ニ略之ガ目的ヲ完成セリ

2、計画

(イ) 任務、企図

(1) 現教育中ノ第42期飛行学生ノ教育ハ作戦参加以外ノ零戦練戦ヲ以テ極力続行。練成員及特修学生ノ教育ハ一時中止セリ

(2) 教官教員ヲ以テ邀撃戦闘機隊4ケ中隊(約32組)ヲ編成ス
(3) 敵KDB飛行機来襲ニ際シテハ邀撃戦闘機ヲ以テ強靭ニ戦闘ヲ続行スルト共ニ被教育要員竝ニ訓練機材其ノ他重要物資ノ温存ニ留意セリ
(4) 新設中ノ戦斗指揮所ヲ急速ニ整備シ飛行場ニ於ケル指揮ヲ適切ナラシムルト共ニ部署ノ一部ヲ変更邀撃戦斗遂行ニ遺憾無キヲ期シタリ

(ロ) 作戦準備

(1) 兵装完備機 

       昭和20年2月16日   紫電4機 零戦24

       昭和20年2月17日   零戦21機・・

戦闘の模様は「経過(イ)自隊及友軍戦闘経過」の中に述べられている。

2月160800に紫電4機と零戦24機が第1次発進をして0940までに24機が帰着した。第1次発進では零戦4機が自爆した。0913より紫電4機と零戦9機が第2次発進をして、1100までに帰着したが、零戦3機の被害があった。1020紫電3機、零戦7機が第3次発進、1205までに帰着したのは8機で、零戦1機と紫電1機が自爆した。ついで、1300零戦8機が第4次発進、帰着は4機で、1機は不時着、3機は自爆であった。この日の戦闘はこれで終っている。

2月16日の「編制」表の零戦隊の中に、兄の名前が第1次から第3次までの発進編制でみられる。「戦果及被害」の「(イ)戦果」のところには、兄の名前はない。

「(ロ)被害」の項目のところに、第3次第1中隊第2小隊3番機の記号の下に「池田秀親中尉機空戦ニ依リ自爆」とある。2月16日と翌17日の戦闘における「総合戦果」は、撃墜9機(含不確実1機)撃破7機とあり、「総合被害」は自爆15機、戦死18名、不時着2機、被弾5機、重軽傷4名と記されている。

この両日の戦闘に参加した72期の搭乗員は、紫電隊に岸 雪雄、零戦隊に吉田克平、伊藤 叡、秋山武男、池田秀親、斉藤敏郎、福島俊一の7名で、このうち岸、秋山、池田、斉藤、福島の5名が戦死している。

私の目にした戦闘詳報の綴りに、兄の名前は、この昭和20年2月16日の邀撃戦にみられるだけであった。おそらく兄にとって、実戦は初めての経験ではなかったろうか。第3次発進を最後に名前が消えた。

しかし、この遊撃戦に生き残った吉田克平と伊藤 叡の名前は、同じ戦闘詳報綴りの終りの部分にある「筑波・谷田部海軍航空隊出水基地戦闘機隊戦闘詳報第1号 自昭和20年3月30日至昭和20年4月20日 南西諸島作戦」の中に、それを見出すのである。

 

(5)

私が兄の戦死を知ったのは、戦争が終り、江田島から岡山の家へ帰ってからである。昭和20年の、おそらく8月20日の早朝であったと思う。軍服、下着、毛布などをシーツにくるんで背負い、カッターで宇品に曳航され、広島から夜行の無蓋貨車で岡山に夜の明けぬうちに着き、宇野線に乗った。暑い朝であった。父は造船所の技師であったが、私がたどり着いた家では、あちこちの部屋に男たちがごろ寝をしており、二日酔いの呈であった。父は前の晩、部下たちを集めて「敗戦残念会」を開いたのである。私は家に入りその光景を見たとき、すでに泣いていたように思う。やがて母から、兄がすでに2月16日に戦死していたことを知らされた。悲しいという気持は少なかった。遠い話を聞くようであった。しかし、涙がつぎつぎにあふれた。

私の手もとに、筑波海軍航空隊司令の父宛の書簡がある。達筆である。つぎのように読みとられる。

「拝啓

陳者貴殿御子息秀親君筑波海軍航空隊に着任以来中堅幹部として日夜軍務に精励され居り処 去る二月十六日敵機動部隊来襲せし際邀撃戦に於て壮烈なる戦死を遂げられ候

右直ちに御通知申上可所なれ共戦死者に対する通知公表は中央当局にて行う事に定められおり本意ならずも御通知もせず打過ぎ候処当局より未だ発表されざる模様なるに付小官より此度の御通知申上ぐる次第に候

此の日敵艦上機来襲の報に接し秀親君も勇躍愛機を駆って発進当地上空にて数倍に及ぶ敵機と交戦勇敢奮闘さるるも遂に被弾護国の華と散られ候 戦局益々急を告ぐる時君の如き有能の士を失ひしは誠に痛恨の極に御座候

夫れ一死以って悠久の大儀に殉ずるは武人の予て期する処にて秀親君も莞爾として逝かれたる事と存候へど御近親の御心中察するに余ある事と存候

茲に謹みて哀悼の意を表し候

尚遺品は当隊に保管しおり近日中御宅に発送可致候間ご承知被下度候

直接拝眉の上種々状況を申し上げるのが本来なるも事不可にて書面にて乍失礼御通知如右御座候

             筑波海軍航空隊 司令

海軍大佐 中野 忠二郎

池田 一親 殿

 

父の名は一親である。姉の話によると、この戦死の通知は6月上旬頃にあったと言う。兄の遺品は、トランク1個と2個の柳行李で送られたようである。その行李の1個が行方不明であった。秋になって、高知駅より行李1個保管しているとの連絡があった。私は高知駅に赴き、それを持ち帰った。その荷の中に圧しひしゃげたフルートが入っていた。

昨年、祖父母が生涯をおくり、両親が晩年を過した熊本の廃屋も解体されてしまった。

私は、その取り壊しには立ち会っていない。両親の想い出の品々は失われた。そして、母がつねに身辺においた兄にまつわる品の数々も失われた。その中の一部が、兄(鎌倉)と姉(熊本)のところに引きとられた。今年の春、私は鎌倉の兄からアルバムを譲りうけたのである。

(昭和60年7月記)

(なにわ会ニュース53号7頁 昭和60年9月掲載)

TOPへ     戦没記録