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平成22年4月29日 校正すみ

同分隊で亡くなった方の想い出

村上 義長


 私が機関学校で四号から一号まで同分隊で生活した人は二十一名、その内亡くなった人は十二名、生存者は九名である。

 卒業してからの連絡は一部を除いて殆どなかったので、生徒生活時代の思い出を主として述べてみたい。

一号時代十六分隊 池沢幹夫君、

二号時代十三分隊 梅本和夫君、近藤寿男君、服部健三君、吉盛一己君、石井勝信君、

三号時代九分隊 合志秀夫君、重森光明君、佃次郎君、増井吾郎君、

四号時代     山脇美代次君、大垣浩一郎君の十二名の諸君である。

池沢幹夫

亀なくや どん亀に乗る どん亀よ

眼のぎらり 光る弟の土佐鰹

 私が乗艦実習を終って最初に乗艦したのは巡洋艦木曽であり、舞鶴のドックに入り修理中であった。この間我々の一号時代三号であった連中が木曽を訪ねて来て呉れた。色々話している中に分隊で貴も怖かったのは池沢生徒であったと云うことになった。眼をぎらぎら輝かせてあまり文句を云わずに思い切り殴るのは何とも気味悪く怖かったに違いない。

我々一号は温習時間を利用してよく暗室に行き現像焼付をやってさぼったりしたが、彼は、遂に.一度も行ったことがなかった。一号になってもさぼるようなことはせず眞面目であったに違いない。

私が木曽乗組の勤務を終って十九年八月転勤したのは日向であった。池沢は十九年三月頃まで日向乗組であったが潜水学生を命ぜられ、私の乗組んだ時は、既に退艦済であったので卒業後の彼を知るよしもないが二十年五月イ四四潜で名誉の戦死を遂げた。代表的な土佐っ子と云うべき男であった。

 

梅本和夫

梅白しなかにスマイルとらへたり

蝶愛し蝶捕る漢なりしかど

 私と分隊を共にした人の中で戦後亡くなったのはこの人だけである。二号十三分隊で一緒であったが、二号ともなると余裕ができて会話の機会が多く、彼が話しをしている間中、スマイルを絶やさなかった。従って彼と話しをしているとこちらまで爽やかな気分となり楽しかった。自衛隊退官後、蝶の採集を始めたが素人の域を脱したものであり、学術的にも貴重なものであったらしい。彼をこうゆう趣味に走らせたのは、彼のスマイルと何か係わりがあったような気がしてならない。

 

近藤寿男

レイテ秋 神風突込む近藤機

行く秋や神風ならず散りにけり

 彼は珍しく夜学出身の苦学力行の士で、確か我々より一つ年上であったように記憶する。彼の眞面目さ凡帳面さは同分隊の吉本信夫君(パッキン)以上であったかもしれない。然し我々と話す時は笑顔を絶やさず爽やかであった。昭和十七年度夏、由良の移動訓育の時は食卓番でにこにこしながら活躍したのが印象に残っている。

その彼も昭和十九年十月二十七日、神風特攻で比島レイテ湾に散華した。あの几帳面の中にも笑顔が浮かんでくる。

 

服部健三 

別記「故服部健三君を偲んで」参照

 

吉盛一己

大男 心 雛菊のやうなりし

大男 総身に知恵が雪割草

 図体のわりに神経の細やかなソフトの感じのする男である。我々と話しをする時、口の所に手を当て低い声で話すことがあった。棒倒しではいつも味方の棒の心になっていたが、大男で他に使い道がないから仕方がないよと云ってあきらめていた。棒倒しでは如何に攻撃精神に燃えても棒の支えになっている者は敵陣にのりこめないし、先陣争いにも加われない。それがラクピーになると彼はフォワードでスクラムを組んでいたが、敵陣近くでスクラムトライができるので、棒倒しのように忍の一字、縁の下の力持ち的な所がなくラクビーの方を好んでいた。彼は「俺は鉄棒が駄目だから体操は駄目だ」と云って無印の白帽を冠っていささか照れていることもあったが、運動神経は別で、機校では数少ない飛行学生に選抜された。

昭和二十年二月二十七日、台中上空で戦闘機に乗り名誉の戦死を遂げた。

 

石井勝信

 

爽やかや紅顔のまま君逝けり

裸でもやわ肌しごき少なかり

 やはり二号の十三分隊の仲間である。前述の四君と同じく明朗でいつも笑顔を絶やさない爽やかな少年であった。少年と云うのもおかしいが卒業時迄少年らしい童顔であった。彼は剣道に優れていたが面を取って正座している時は、女流剣士の容貌と間違えられる程であった。そして試合になった時の掛声は大きく響くものがあった。風呂で一緒になった時彼の肌は女の肌程白く少し赤みをさしていた。二号ともなると一号からの鉄拳制裁も余りなくなるが、彼の場合マークされて制裁を受けることなく、他の者より鉄拳の数は少ないようであった。

これも容貌と紅顔のためかと考えるのはひがみか。

昭和拾九年一月十一日ぺナン沖で巡洋艦球磨と運命を共にした。五十三期の戦死者の中、最も早く戦死した。未だ少尉候補生の時で童顔のまま、童貞のままの戦死であった。石井の場合生きていればどうなったろうと考えても、卒業時の紅顔の美少年の顔しか浮ばない。

 

合志秀夫

 

詑濃き合志の声や 春の野に

 三号時代九分隊の仲間である。三号時代は自分のことで精一杯で、仲間を見つめる余裕がなかったので強烈な印象しか語れない。

 彼は熊本の有名な済々黌出身であるが、自己申告の時出身校を「しえいしえい校」と口をとがらせて訛りをむき出しにしていた。校内にいる時は少し抑えているらしく、外出等で校外に出た時は全部訛り入り熊本弁を使うので意味が分からない時もあった位である。気持ちも非常にさっぱりした彼であったが、昭和二十年三月十七日硫黄島で名誉の戟死を遂げた。

 

重森光明

短艇の櫂あげ後に 血の滲む

 やはり三号時代九分隊の仲間である。短艇競技前の特訓の頃である。彼は小柄なので確かバウの漕ぎ手であった。早暁の訓練を終え艇長の櫂あげの号令で、後にいた私は彼の作業ズボンが血まみれになっているのが眼に入った。誰もが競技前の訓練での血の滲むのは驚かないが、彼の様に大きく滲むのは目立った。就寝前のベッドでの櫂さばきの練習でも彼の背部の血の滲みは大きかった

昭和十九年十月二十三日、比島沖で巡洋艦愛宕と運命を共にした。

 

佃 次郎

閑かさに少し淋しき佃かな

三号時代九分隊の仲間である。日曜の外出の時成田クラブで学校から支給されたパンをぱくついたことを憶えている。今では考えられないが、当時としては量もたっぷり味もまあまあのパンを二人で食べたことを思い出す。何故彼だけを思い出すか分からない。彼は爽やかで明朗であったがどうかすると一寸淋しさを感ずることがあった。

昭和十九年十一月二十九日、艤装終了の信濃で回航中敵潜の雷撃に合い戦死を遂げた。

 

増井吉郎

    花好み 褌きたなし 芸術家

 三号時代九分隊の仲間である。クラシック音楽に詳しく、作曲者曲名等かなり広く知っていた。私も海軍に入る前もっと音楽に興味を持っていればよかったと思った程であった。就寝起床時、着替えのため褌一枚になることがある。敏捷な動作が必要なので余裕はない筈だか、彼の褌が他の者のそれよりよごれているのが目に入った。高尚な音楽に精通している者にしては自分の身につけているものに無関心なのは納得できない。然し外観の服装関係は一寸の隙もない程きまっている。或いは芸術家肌の片鱗であったかも知れない。

昭和二十年四月二十四日比島で名誉の戟死を遂げた。

 

山脇美代次

    社会鍋 さげたる主は 山脇か

 四号時代十分隊の仲間である。四号時代と云っても入校間もない頃である。服装点検の時帽子のかぶり方がいつも曲っているのである。一号生徒に注意された時はよいが、また次の時は曲っている。曲がってあみだになっているのである。丁度救世軍士官が社会鍋をさげているような恰好である。直されても納得できない表情でいる彼の姿が今でも忘れられない。

昭和十九年十一月二十日 イ五四潜で名誉の戦死を遂げた。

 

大塩清一郎

夏休み 母校へ帰り 勧誘を

 やはり四号時代十分隊の仲間である。三島由紀夫の小説に「金閣寺」と云うのがある。冒頭に小説の主人公が、東舞鶴中学で同校出身の機関学校生徒に入校を勧められている場面がある。小説ではこの機校生徒を次のように描写している。

 彼はよく日にやけ、目深にかぶった制帽の庇から秀でた鼻梁をのぞかせ、頭から爪先まで若い英雄そのものであった。後輩たちを前にしてつらい規律ずくめの生活を語った。しかもそのみじめな者の生活を、豪奢な贅沢ずくめの生活を語るような口調で語ったのである。

 大垣と二谷が舞鶴中学で前述の東舞鶴中学と若干食い違う点があるが時期的なものも両君のどちらかと思われる。大垣がよく母校に行っていたので大垣君のような気がする。

 然し三島由紀夫も大垣、二谷の両君も今は無き人で真実を究明するすべもない。そして、大垣君は昭和十九年十二月十九日、東支那海に於いて雲龍と運命を共にした。

(機関記念誌134頁)

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