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平成22年4月24日 校正すみ

「兄と私」

故威太郎弟 井ノ山隆也

井ノ山威太郎 巡洋艦 熊野

一 幼い頃

兄 井ノ山威太郎は、私より3歳と1ケ月年長である。幼い頃の3歳という年齢の差は決定的なもので、当然の事ながら、知恵も体力もはるかに勝る兄は、私から見れば随分と大きい兄ちゃんだった。小学校に行くようになった兄達の遊びに加わろうとしても、「お前えは出来けへん、あっちで遊び」とていよく追い払らわれたし、魚釣りについて行こうとした時も、足手まといになるため、「あかん、危ないさかい来んとき」と私を置いて行ってしまうのである。兄達の仲間に入れて貰えるよう、何が何でもと兄を真似ることに私は一生懸命だった。

それでも雨の日などには、一緒に遊んでくれる時もあった。

兄は「魚屋さんごっこ」や「八百屋さんごっこ」が好きだった。

現在のように魚や野菜のおもちゃなど無い時代であったから、紙に魚や野菜の絵を画いて鋏で切り取り、それを机の上に並べ、これも紙で作ったお金で売ったり買ったりするのである。兄は野菜でも魚でも上手に手早く画いて並べるが、幼稚な私には真似が出来ない。「よし、そんならお前えはお客さんになりい。僕が売ったげるさかい」。兄は商売上手で、大きく新鮮そうに画けた魚は高く、小さく色の悪いものは「まけときまっせ」と安く売り、瞬く間に私や下の弟に配ったお金を集めてしまうのである。私は、こうした遊びを考え出し、絵も上手に画いて、楽しく遊んでくれる兄を、「凄いなぁー」と感心するばかりであった。

幼い私にとって、兄は常に身近な目標であった。

 

二、小学校

「門前の小僧、習わぬ経を読む」という諺があるように、兄の勉強の見様見真似をしている中に、私は小学校に行く前に字も読め、一寸した計算も出来るようになっていた。掛算の九九″も、兄が大声で言うのについて言っている中に、私も、何時の間にか暗唱出来るようになってしまった。今でいう、環境である。

ある日、何時もは兄が朝持って出る弁当をどういうわけか既に学校にいる兄に届けるよう母に言われた。末の弟が乳飲み子だった母の都合によるものだったかも知れない。学校への道筋、兄の教室、先生への断り方等母はくどくどと私に教えたが、私は兄の役に立つのだということと、学校に行けることで興奮し、ほとんど上の空で聞いて家を出た。

3年い組の教室を捜し当て、廊下の窓から背伸びして弁当を差出しながら「兄ちゃん弁当′」と大声で言った。丁度、4時間目の算術の時間だったらしく、何人かの生徒が黒板に並んで問題を解いている最中であったが、私の声に驚いて一斉にこちらを見て、わぁとと笑った。担任の先生もにこにこと笑いながら「誰の弟や?」と皆を見回した。兄がバツの悪そうな顔をして、「僕の弟です」と言いながら立ち上がって、私のそばに来ると「授業中やさかい大きな声だしたらあかん」と言って弁当を受取った。皆がまたどっと笑った。弁当を届ける責任が果せたので緊張から解放され、つられて私も笑った。そして、兄達が習っている教室の様子を興味深く眺めた。

「ちょっと這入りい」と先生はやさしく私を教室に入れてくれ、隅の空いた席に掛けさせてくれた。「 ぼんは勉強好きか?」

「うん」「学校はー」「4月になったら1年になるねん」。どの様な問題だったか忘れたが、それから先生は2、3の質問を私にしたらしい。簡単な算術の計算なら出来ることがわかり、色々と質問した。私がどう答えたか知らないが、授業はそっちのけになってしまい、その中、昼のサイレンが鳴り、授業終わりの時間となった。「ぼん、明日からここで勉強しても、ええで」と先生が言ってくれ、意気揚々と家に戻った。

その日、学校から帰った兄が「お前はほんまに偉い奴や」と褒めてくれた時には、何とも言えぬ嬉しさだった。

 

三、喧嘩コーチ

近所に意地の悪い兄弟がいた。私も腕白だったが、この兄弟は我侭で、一緒に遊ぶとすぐ喧嘩になるのである。弟の方は、泣いて噛んだり、石を投げたりする。それでも適わないと、こんどは兄の方が出てくる。この兄の方は私より2年上級で、私は勝てない。私も巳むを得ず兄に応援を求めることになるが、兄は正義感が強く年下相手の喧嘩は見向きもしない。それでも、私が彼等の卑劣さを訴えると「そんなら、お前が自分でやれや」と私の手をとって具体的に教えてくれた。明くる日 私は負けていなかった。兄から教わったとおり、彼の両手首を握り、思い切り強く足払いを掛けると見事に決まって彼は立たなかった。この時以来、彼は二度と向かって来なくなり私にとっての目の上のたん瘤は無くなったのである。私は、2歳年下の弟とはよく兄弟喧嘩もしたが、兄とは喧嘩にならなかったし、兄も私の頭を軽くコツンとやるぐらいで、喧嘩などした記憶が無かった。また、兄が他人と喧嘩したのを見たことも無かったが、この時、子供心につくづくと兄の強さを思った。

 

四、海軍機関学校

私の家は、もともと京都室町の襟問屋だったが、父の代になって、染料用の化学工場の経営や貿易に手を出して失敗し、家財を喰い潰し、借金に追われる窮乏状態となった。何度か転居し、結局、父は趣味で養った骨董の目利きの腕を頼りに京都桃山で骨董商を始めた。

父は芸術家肌の性格の上、骨董好きなため商売よりも自分の気に入った物を買い集め、それを売り惜しんで家計を預かる母を困らせた。母は客の誰が何を欲しがっているかをよく知っており、やりくりが苦しくなると、父に内緒で、その客と交渉して安値で売ってピンチを切抜けた。父は後で愛蔵の品が無いことに気がつき、母を(つめ)ると、母は私達を指差しながら、「もうとっくにこの子等のおなかの中に這入ってしもうてます」と、平然としていた。こうした親達の苦労があって、私達は何とか中学に通うことが出来たのであるが、更に上の学校に進学したいとは仲々親に言い辛らかったのである。父の後日談によれば、父は自分をリベラリストと認識していて、自分の長男がまさか軍人になろうなどとは夢にも考えていなかった。兄を自分と同じ京都二中に行かせ、未は三高、京大と進ませたいと考えていたようである。将来如何なる職業に就くかは本人の器量次第としながらも、両親の兄に対する期待は大きかった。しかし兄は、親から出してもらう学資に抵抗感があり、私を含め弟妹達の今後の教育のことも頭にあって、結局、官費で学び、将来も約束される海軍への道を選んだ。

勿論支那事変が拡大し、米英との仲が険悪化しつつある時であっただけに、人一倍正義感の強かった兄が、国家の将来を思ったに違いない。兵学校の試験を受けた時、最初の身体検査で目が0.8しか見えなかったため機関学校に志願表を出し直したのであるが、これが親の認識を変えるきっかけとなった。

戦前の習慣として、長男の権威や長男への期待は大変なもので、私の家でも兄は、全て特別待遇であった。それだけに商家の長男が軍人になることへの抵抗は大きく、兄は両親を説得するのに苦労した。しかし、現実に兄が入校するとなると、舞鶴は近くて親達には都合がよかった。入校式だ、面会だと祖母までが連れ立って頻繁に兄に逢いに行き、そのうちに家中が海軍ファンになってしまったのである。それより、なにより両親を驚かせたのは兄の成長であった。兄は、中学時代はごく普通の学生であったが、機関学校に這入り、規則正しい生活と厳しい訓練で鍛えられて、みるみるうちに変わった。肩・腕・脛には、いずれも盛り上がるような遥しい筋肉がつき、眼は鋭く、言語動作には節度があって見るからに凛々しく頼もしい威丈夫となっていったのである。僅か1〜2年で、これ程に人を変える海軍の教育の素晴らしさに両親は完全な海軍信者となり、私が兵学校を受験する時には、両手賛成に変わってしまっていたのである。

 

五、兄の期待

兄が機関学校に入校した翌年の昭和1612月8日、太平洋戦争が始まった。

緒戦の海軍の連戦連勝に、日本中が酔ったが、特に我が家は大変だった。朝夕ラジオから流される大本営発表を、父は地図を広げて感激したように聞き、私達に解説した。

年が明けて、兄が休暇で帰ってきた時など近所の人も兄に挨拶にきてくれたが、両親の息子自慢も相当なものだった。海軍生徒の制服に短剣姿の兄は、眩しく見えたし、一寸近付き難く思えたが、私は兄に「僕も海軍に行こうと思う。」と言って、返答を待った。「お前は兵学校へ行け。海軍は兵科出身でないと指揮官になれないし、大将にもなれないぞ」と厳しい顔で言った。

指揮官がどういうものか私は分らなかったが、真剣な兄の顔を見て、何となく事の深刻さが分った気がした。

18年の11月3日、私が兵学校合格の電報を手にした時には、兄は、卒業が繰上げられて、候補生として既に艦隊勤務に就いていた。父のところへ来た兄からの手紙には 「隆也も海軍に這入り、兄弟共に海軍軍人として国家に奉公出来ることは、我が家の名誉だと思う」と書かれていた。

私は兄との約束どおり兵学校に這入れた。19年の夏、日時は忘れたが、美しか7月だったと思う。或る日曜日、分隊監事に呼ばれて、兄の乗組んでいる重巡「熊野」が呉に入港していて、兄が逢いに来るよう私に言付けを寄越した旨を伝えられた。

江田島から呉に渡り、呉の上陸桟橋からランチに乗って沖のブイに係留された「熊野」に着いた時、兄は舷門で待っていてくれた。

早速、ガンルームにつれていき、食事を出してくれ、艦内を案内してくれた。久し振りに逢う兄であったが、殆ど口をきかなかったし、私も、何も言わなかった。しかし、お互いに心の中は充分過ぎる程分っていたと思う。最後に、艦内のラムネ製造機の側で冷えたラムネの栓を抜いて私に渡しながら、「貴様がいるから安心して行けるな。どんなにつらくても歯を食いしばって頑張れ、何も考えるな」と兄は改まって言った。何時の間にか私は「お前」から「貴様」に昇格していた。私は黙って領いた。

それから4ケ月後に兄は戦死するが、これが最期の言葉となるとは、この時はまだ露にも知らなかったのである。言葉の前半は分るが、後半は、私がなんとなく頼りなく見えたためか、三号生徒のつらさを察しての言葉だったか、などと考えたがその真意は未だに不明である。ただ、兄が私に託そうとした多くの期待だけは痛いように心に沁みた。

 

六、戦 死

兄は昭和191125日、艦と運命を共にして戦死した。後年、私は海上自衛隊での勤務を通じ、戦闘中の軍艦が被害を受け、機関科将校が上で行われている戦闘状況も詳しく分らないまま応急処置と全力発揮に努め、最期に艦と運命を共にするという事がどういう状況であるかを具体的に理解出来るようになるが、この時はまだ何も知らなかったのである。まして、「熊野」の沈没に至るまでの奮闘は戦史に残る凄しいもので、兄がどの様な死に方をしたかを、はっきり想像出来るようになったのは、ずっと後になってからのことである。

ともかく、兄戦死の報はずっと遅れてもたらされた。昭和20年8月終戦、9月に兄の遺骨が帰ってきたのである。京都府庁の一角に安置所が作られ、簡単な慰霊祭が行われて、遺族に一つ一つ遺骨が手渡された。大部分は陸軍の人達で、海軍は兄だけだったと思う。恐る恐る遺骨箱を開けて見たが、中には

「故海軍大尉 井ノ山 威太郎の霊」と書かれた紙片だけがあった。

敗戦後であったが、私は兵学校生徒の正装で兄の遺骨を受けとり、胸に抱いて家に帰った。あの逞しかった兄がこの軽い白木の箱になってしまったかと思うと、次々にこみ上げる悲しみをどうすることも出来なかった。

父母は、くる日も、くる日も泣いた。涙がかれるほど泣いて、なお生前の兄の思い出の品を整理するたびに、堰を切ったようにまた慟哭(どうこく)した。私は両親の悲しみに、親の愛を見たが、私自身は弟として、同じ志を持った海軍軍人として、兄の心残りというか、無念さを強く思うようになっていた。「貴様がいるから安心していけるな」と言ったあの日の兄の顔が忘れられなかったのである。

 

七、因 縁

昭和27年、海上警備隊が出来た時、私はこれに入隊しようと心に決めた。神戸で試験を受けたが、今度は父母が反対した。兄が戦死し、私が家の総領たるべき者となる身でありながら、再び危ない海に出るなど、とんでもない事、と言うのである。私は兄が海軍軍人として、自分のやりたいことの10分の1も出来ないまま、僅か21歳で戦死したこと、最後に逢った時の言葉にもあったように、私に後事を託し安心して出撃していった兄の海軍への思いに応えたいこと、等を話してやっと両親の納得を得た。

私の海上警備隊での最初の勤務は舞鶴となった。海軍の施設を使い、海軍の伝統をそのまま受け継いだ海上警備隊の勤務を通じ、「私のうしろには兄が居る」という感じはこの頃から次第に強くなった。昭和28年、舞鶴育ちの今の家内と結婚したが、人生第2の出発を思い、結婚式は、兄の誕生日に因んで1212日に挙げたのである。

兄は、大正1212月12日に生れた。数が並ぶのは縁起が良いのだと、兄は自慢していたが、今や1212日は、私達夫婦の結婚記念日として忘れられない日となった。

昭和33年に胃切除の手術を受け、術後の血清肝炎で半年近く入院したが、退院する日は先生に頼んで1212日にしてもらった。昭和46年、初めて家を買い、その新居へ移転する日も1212日に決めた。

海上警備隊は、海上自衛隊となって次第に海軍らしく発展した。私の職域には、CICつまり、情報・通信関係があったが、私の頭には、もう一つ常に機関科のことがあった。艦艇乗組みの時には、なぜか機関科の者と親しく、エンジンルームによく出入りした。艦長の時も、司令の時も、人一倍機関科への関心が深く、主機・補機・電機・ジャイロと徹底して見て回った。

「兄の分まで」という潜在的な気持ちが、自然と私をそうさせたに違いない。

私は小さい時から兄とはあまり似ていないと言われてきた。

しかし、機関学校の兄の先輩、特に同期の53期の方々や1期下の54期の方々からは、兄の弟として、また面影がよく似ているとして、非常に親しくして頂き、指導もして頂いた。

また55期の方々には、三号の時、一号の兄からよく殴られたという関係から、私には1期先輩にもかかわらず、特別の敬意というか、親しみをもって接して頂いた。こうした兄の恩恵に預りながら、兄を身近に感じる程、益々私はうしろに兄がいる感じを深くした。

昭和57年、私は舞鶴地方総監を命じられた。兄の学んだ旧機関学校を総監部庁舎とし、大講堂で儀式を挙行し、兄の名も刻まれている慰霊塔を日々目の前にして勤務出来る立場となった時には、「とうとう兄に引張られてここまできた′」と思わざるを得なかった。

昭和5912月、私は統幕事務局長を最後に、制服を脱いだ。退官の日、防衛庁を帽振れで送られたその足で、靖国神社に参り兄の霊に深々とあたまを下げた。「海上自衛隊は遂に海軍になり切れなかったし、あの時の約束も、十分果たし得たとは言えないが、ともかく私の務めはこれで終わった。長い間有り難う。安らかに眠り給え。」と心で祈った時、長い間心にあった重荷の様なものが一気に下りた気がして、言い知れぬ安らぎを覚えた。

私は64歳になる。兄との因縁はもうとっくに終わったと思っていたが、最近また一寸したひっかかりが出来た。私は現在、「NHKアイテック」というNHKに関連する会社のお世話になっている。仕事上未来のテレビと言われるハイビジョンに係わっているが、「ハイビジョンの日」というのが、1125日なのである。これは、ハイビジョンの走査線の数が1,125本であることに因るが、この1125日こそ兄の命日である。海に関係していた間、私は、私自身の人生の節目を兄の誕生日とダブらせてきたが、制服を脱ぐと、今度は兄の命日に因縁が出来た。なにか兄が笑いながら、私を見ているように思えるのである。

(兵75期・元海将)

(機関記念誌 34頁)

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