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平成22年4月26日 校正すみ

何時までも御元気で

矢田次夫

私は昨年、期友の御仏前にぬかずく機会を得ることができ、併せてご母堂様にお会いすることができました。そこで、ご母堂様のお元気なお姿を、紙上を借りて諸兄に報告したいと思って筆をとることにしました。

柄澤 節夫  航空母艦 千歳

 初めに、昨年二月十日、長野県須坂市の防衛協会の行事にお邪魔をした折、翌11日、長野市出身の故柄沢節夫君のお宅にお伺いました。節夫君の戦死の模様は、旭輝雄君から委細聞いていたので当時の様子を回顧した次第です。

即ち、彼は軍艦千歳のフイリッピン沖激戦で沈没となり、旭君(31戦隊旗艦・軽巡五十鈴)に救われたが、律義な彼のこと、艦内で待機せよと勧められながら、敢えて甲板上に出て交戦の役にたとうとして敵の機銃掃射の犠牲になったのでした。
 
ご母堂美与様は九十一歳というご高齢ながら極めてご元気で、博美様ご夫妻に囲まれてお幸せに暮しておられます。その節には、わざわざ私の為に「お焼き」という土地の味覚をお作りになってお待ち頂きました。恐らく節夫君の面影と、パクパク御馳走になっている私と重なって目に映ったことであろうと偲んでおりました。「お焼き」というのは、長野生まれの人にとっては、郷土を踏めば必ず口にしなければ帰郷にならないと聞きました。かって、同じ長野市の故飯島晃君のご母堂てう様の「草餅のお母さん」という追憶記事を思い出して、この「お焼き」も材料に色々と御苦労があったのでは? などと案じたりしました。承ればこれは、メリケン粉と色々の野菜の取り合せで、中に「あんこ」などを持たせてあります。不思議な御縁と言えば「軍艦千歳」の慰霊碑は福岡県久留米市にある水天宮境内に、高さ二間にも及ぶ威容を整えておりますが、この碑文は、当時佐世保の地方総監であった私の手で筆を走らせております。ここに皆様のお元気なお姿を一葉の写真に託し、何時までもお元気でお過ごしの程心から念じております。(写真略)

次に、昨年四月二十五日、大槻敏直君のロータリーに関連して浜松にお邪魔しました。

その節に、福島弘君の御案内を頂いて豊橋市の故伴弘次宅にお伺いしました。そして、同じくご母堂にお会いすることが出来ました。ご母堂すず様も九十一歳のご高齢、しかも今尚、市の老人クラブの現役の会長をお引き受けになっており、ご自分でどんどんお出向きの御様子、まことに恐れ入りました。

長男は陸軍で戦死、次男弘次君は海軍で戦死、誠に沈痛の極みのことであったと思いますが、今日三男辰三様が素晴らしい会社TBR(「より紐」を製造の会社、(なにわ会ニュース6247ページ参照)を育成発展され、将来性の大きい夢が約束されております。去る十一月三日、海上自衛隊で観艦式が相模湾で取り行われましたが、豊橋からわざわざ横浜までお運びになり、約一日間船の上で勇壮な海上パレードを御覧になりましたが、この意欲、このお元気、これまた恐れ入りました。その上、御母堂様のエスコ−トに「娘夫妻が当たってくれます」と言われますので、よくよく承りますと、何とまあ、その「娘」とおっしゃる方は、私の自宅(海老名市)から数軒先にお住いの伊藤幸子様でした。驚くことの多い出会いでした。どうか、皆様もまた何時までもお元気にお過しの程お祈りしております。                                                             
 
四月二十五日、伴様訪問のあと、浜松で、大槻君のアレンジで旭君、福島君、伴社長様各位と一夕語りあいました。最高に幸せな一時でした。各位に深謝して終りとします。 

(なにわ会ニュース62号21頁 平成2年3月掲載)

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