TOPへ    戦没者目次

平成22年4月26日 校正すみ

柄澤節夫、末岡信彦の御霊に祈る

岩松 重裕

柄澤 節夫 末岡 信彦   航空母艦 千歳

福岡は久留米の水天宮に軍艦千歳の慰霊碑がある。そこで去る1025日千歳の慰霊祭が行われた。 柄澤、末岡の両兄は昭和19年の同月同日、空母千歳で戦没され、ここに祀られている。千歳川は筑後川のこの辺りの名で空母の祭神であった。

千歳は比島沖海戦で撃沈された。場所はルソン島の最北端エンガノ岬から東へ245マイル、緯度線をひいた付近である。柄澤、末岡両兄の遺体はその海底に眠っておられる。72期の乗組みは両兄だけであったので、その最後を記されたものはないと思う。 私は艦長付として艦を離れず、艦と共に沈みその渦に巻かれた。如何したことか、私は浮かび上がり、軽巡五十鈴に救助された。慰霊祭に参列、何とも言いがたい感慨に心沈むなか、両兄の最後を出来る限り思い出して書き残しておこうと考えた次第である。

両兄に兵学校を出て再会したのは、昭和19年3月末か4月早々であった。松山沖に仮泊中の千歳に便乗中の大和から内火艇で移乗、1メートル余の波の中、縄梯子に飛び移り昇ったことを記憶している。そのとき來島 照彦兄もおられ、72期は3名であった。以来ガンルームで共に生活し、その間、瀬戸内海における航空機の発着艦訓練、19年6月のマリアナ沖海戦、再び伊予灘、周防灘での発着艦訓練、別府上陸等々を思い出す。

72期に約2年いたのでクラスの名前も73期よりも72期のほうをよく知っており、柄澤、末岡両兄は上級者ではあったが親しく話すことが多かった。昭和191020日別府湾に集結中の小沢機動部隊は豊後水道を通過、南下した。捷一号作戦の囮艦隊として瑞鶴を旗艦とし瑞鳳、千代田、千歳の4空母を主力とした部隊であった。比島沖海戦の詳しいことは多くの戦記に譲るとして、千歳沈没時の柄澤、末岡両兄の状況を記しておきたい.

末岡中尉は通信士であった 通信室は飛行甲板のすぐ下で、艦橋の背後にあった。 戦闘中、私は艦長付として常に飛行甲板前方右舷に張り出された指揮所に艦長と共にいたので末岡中尉と顔を会わす事はなかった。艦が左に傾き、ほとんど航行不能になった時、艦長は「総員上へ」を令せられたから、機関室と違い飛行甲板へ出るには困難はなかったと思う。しかし柊原通信長も末岡通信士も艦と運命を共にされた。暗号書の処分に時間がかかったのであろうか。

柄澤中尉は甲板士官であった。したがって戦闘中は応急班の指揮官補佐であったか、記憶は定かでない、私が千歳の渦から逃れて漂流一時間余、五十鈴に助け上げられ、ガンルームに入ると柄澤中尉がおられた。目と目を合わせ無言の中、生存を確認した。

五十鈴は沈没した艦の将兵の救助と、第2波第3波の敵機襲撃に応戦を繰り返していた。 その中、五十鈴艦長の指示があり救助された者は戦闘員補充の令がない限り艦内に待機せよとのことであった。

 

柄澤中尉は何か考えがあったのであろう、何回目かの対空戦開始の時、上甲板へ上がって行かれた。日が暮れてようやく空襲はなくなった。しかし、柄澤中尉はガンルームに戻って来られなかった。五十鈴の士官から柄澤中尉は対空機銃のそばで敵機の銃弾をうけ戦死されたとの報告があった。なんともいえぬ気持ちでそれを聞いた。翌朝であったか、後甲板から彼の遺体は水葬された。水面にむかって敬礼した手はなかなか下ろせなかった。

五十鈴は戦場を離脱、北進し沖縄中城湾を経て奄美大島に入った。我々千歳乗組みは戦艦伊勢であったか日向であったかに転乗、呉に帰投、大竹海兵団に収容された。その間末岡中尉をさがし、また、最後を確認しようとしたができなかった。千歳の乗員は戦闘詳報によれば962名、戦死468名、生存494名であった。

あらためて両兄の冥福を祈るとともに、出来れば再び九州久留米の慰霊碑に詣でたいと考えている。

(なにわ会ニュース88号15頁 平成15年3月掲載)

TOPへ     戦没者目次