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平成22年4月26日 校正すみ

川久保輝夫中尉の最期

折田 善次

川久保輝夫 折田 善次

(編者まえかき)

「艦長たちの太平洋戦争」という本が出版された。58年5月、光文社、1,200円。戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、海防艦などの艦長として、「34人の艦長が語った勇者の条件」(同書副題)である。72期の教官田中一郎少佐も椿駆逐艦長として、「戦場の錯誤」を語っておられるが、本稿では伊47潜水艦長の折田善次少佐の証言の中で、川久保輝夫に関する部分を抽出して掲載した。

折田氏は兵学校59期、昭和9年から終戦まで12隻の潜水艦に乗り、とくに伊47潜艦長として回天作戦を行なった。

なお、「注」は編者が折田少佐にお会いして、本人から直接伺ったものであり、また中見出しは編者がつけた。

(ここで言う編者とは故押本直正君である)

 

一 オジさんがご覧になったとおりをー・

私はね、介錯人ですよ。しかも12人ものね。

(注1)

12人も人間魚雷を出して、あなたたちは鬼のような艦長だとお思いになるでしょう。私がかわって出たいくらいでした、と言うのですけどね。どなたも非難がましいことは一言もいわないで、かえって礼を言われるだけなのです。彼ら搭乗員も立派だったけれど、ご遺族たちも立派な人たちばかりです。私はウラミの一言でも言ってもらったほうが、かえって気持が落ち着くのですけどねえ。

ホーランジアに行ったときは、川久保輝夫中尉、原郭郎中尉、村松実上曹、佐藤勝美二曹の4人が、「回天」搭乗員でね。そのうち、川久保輝夫中尉(72期、2階級特進で少佐)というのは私と同じ郷里の鹿児島で、しかも彼の兄というのが川久保尚忠少佐(注2)で、兵学校が私と同期なのですよ。彼は昭和13年にシナ事変で戦死しているのです。その4番目の弟が輝夫なのです。私が兵学校生徒のころ、よく彼の家に遊びに行っていたのですが、そのときの輝夫は、エプロンをしてヨチヨチと歩いていた子供だったのですよ。その子が、「回天」の搭乗員として私の艦にやってきたときはびっくりしました。「お前、大きくなったなあ。昔、遊びに行っていたときは、ものもよう喋れん子供だったのが、大それた人間魚雷の搭乗員になろうとは」と言ったら、「すみません」と言って笑っていましたけどね。

いよいよ出撃というとき、私は、「輝夫、お前のお父さんに、お前の最後の模様を話してやるから、何か言いたいことがあったら言え」といったら、「オジさんが、ご覧になったとおりのことを、親父に言って下さい」というのですよ。戦後、父親にありのままを報告したのですが、父親は、「お前であればこそ、お前のフネに乗せてやってくれたのだろう」とおっしゃっていましたけどね。(注3)

おそらく「回天」の指揮官が、事情を知っていて、ボクのところに輝夫をよこしたのかもしれませんけど、あいつは本当に、たいした奴ですよ。やはり神様ですよ 

 

二 玉砕島からの生還者

「伊47潜」には、もう一つ奇跡的なエピソードがある。ホーランジア攻撃に出撃した「伊47潜」が、191230日の黎明、グアム島の西方、約540キロの海域を南下しているときである。玉砕地グアム島から脱出した海軍陸戦隊の伊藤京平少尉以下8名の乗った筏を発見したのである。

グアムは、その年の8月10日、第29師団を主力とする約2万名の将兵が、死闘をくり返したすえ玉砕していた。生き残った将兵はジャングル深く潜入し、絶望的な逃避生活を送っていた。彼ら敗残兵たちは、なんとかこの地を脱出しようと、しばしば筏を組んで脱出をこころみたが、ほとんどが米軍に発見されるか、潮流に押しもどされて失敗していた。その中で、伊藤少尉らの筏だけが外海に出るのに成功したのである。

玉砕島から脱出に成功したのは、太平洋戦争の全期を通じて、このチームが唯一のものである。彼らはドラム缶と椰子の丸太を組んで六畳敷きほどの筏を組み、約1カ月間、漂流していた。飲料水は底をつき、食糧はなく、大洋の大波にもまれながら死に顔していた。筏の上で息もたえだえに横たわっていた彼らの眼前に、突如として「伊47潜」が出現した。黒い潜水艦を見て、彼らは恐怖におののいた。敵艦だと思ったのだ。伊藤少尉は、筏に突っ伏したまま「戦闘用意」と叫んだ。彼らは渾身の力をふりしぼって手榴弾をにぎった。

 

三 オジさん、助けてやってくれ

夜明け前でした。艦橋で哨戒していた重本航海長が、「まもなく潜るぞー」と言ったとき、見張員が、「大きな浮流物があります」と叫んだのです。そのころは浮流物が多かったのです。航空戦やら海上戦やらしょっちゅうですから、その戦場跡を抜けると、ずいぶん浮流物があるわけです。米軍など、艦内火災が起こると、手当たり次第に全部はぎとって落としてしまいますからね。そのたぐいだろうと思っとったのです。

ところが、「人が乗っているようです」というのですね。それなら日本本土を爆撃にいったB29が不時着して、救命筏に乗って漂流しているのだろうと思ったのです。それなら、米兵を捕虜にしてやろうと、艦を近づけさせたのです。見ると、ケンバスをかぶって動かないでいる。死んでいるのかと思って双眼鏡で見ていると、ケンバスから足がはみ出ていて、その足がピクビク動いているのが見えた。「オィ、生きているぞ」と言ってね。当然、私は、アメリカ兵だと思っていたものですから、先任将校の大堀正大尉(69期)を呼んだのです。彼はアメリカの中学を出て、広島二中にうつり、兵学校に入った人なので英語が堪能です。

米兵がピストルを撃ってくるといかんから、こっちも拳銃をもってかまえていた。てっきり大堀大尉は、へーイとかなんとか英語で呼びかけると思っていたら、オーイと呼んだのですよ。するとケンバスをはねのけて、ガバッと起き上がった。それを見ると、かぶっているのが海軍の略帽で、それも黒い筋が2本入ったのと1本入ったのが見えたのです。

「なんだ、あれは日本人だぞ」というわけでね、オーイ、オーイと呼びながら近づいて引き寄せたのです。行ってみると、なんと8人も乗っていた。そのとき、私はどうしようかと考えたのですよ。私たちは特別攻撃隊ですからね。これから死に行くわけです。生死のほどは保証できないわけです。みすみすここで助けても、結局、殺すことになるかもしれん。ここは一つ、食料と水をあたえて、いちばん近いフィリピンの方角を教えて突き放したほうがいいだろうと、先任将校と私とが相談していたのですよ。すると、「回天」搭乗員の川久保中尉がこう言うのです。「オジさん、頼むからあの8人は助けてやってくれ、われわれ4人はあと10幾日で確実に死ぬのだ、4人のかわりに8人の海軍がかわって生還するということはめでたいことです。着るものはわれわれのものをやってください」とね。輝夫のこの一言で、私は彼らを救出する決心がついたのです。

(注)

注1 折田氏のいう12人とは、(敬称略)

191120    菊水隊(ウルシー)

仁科関夫、福田 斉、佐藤 章、渡辺幸三

20・1・20    金剛隊(ホーランジィア)

川久保輝夫、原 敦郎、村松 実、佐藤勝美

20・5・20    天武隊(沖縄)

柿崎 実、古川七郎、山口重雄、前田 肇

 

なお、回天特攻については、昭和51年に発刊された「回天」(回天刊行発編、小灘利春が編集委員の1人) に詳しい。

 

注2 川久保兄弟のうち4人が兵学校に進み全員戦死した。文芸春秋40年4月号に末弟の秀夫氏が、「国のために戦死した4人の兄」と題して詳細を書いている。

尚忠(59期) 13・5・16

水上機母艦神威分隊長、二座水偵操縦員、厦門(あもい)島偵察攻撃中戦死、28

三郎(67期) 19・7・12

117潜水艦先任将校、トラック島北西沖で戦死、27

志朗(69期) 19・4・30

戦闘301分隊長、戦闘機搭乗員、トラック島から敵機動部隊攻撃中戦死、24

輝夫(72期) 20・1・12

回天特別攻撃隊金剛隊、ニューギニア、ホーランジア 攻撃戦死、23

いずれも鹿児島二中出身、三郎氏を除いて独身であった。

 

注3 川久保の一言によって救助された伊藤京平少尉以下8名の軍人軍属は現在でも健在で、伊47潜の会合には必ず出席する。また、川久保金剛隊の戦果について、戦後折田氏が米海軍の記録を調べたところ、

「朝早く輸送船1隻の横で大爆発が起った。その直後に、はるか離れたところでもう1回、大爆発が起ったが、それぞれ輸送船の船腹がへこんだだけで被害はなかった。

それは、あの巨大な戦争のなかでの、『ほんの一つの出来事(でしかなかった)』」との返事であったが、折田艦長はこれを全く信用していない。

これはすべての回天戦の戦果に共通することだが、米海軍では回天の攻撃による損害をトップ・シークレットとして伏せたままにしている疑いがある。日本の公刊戦史や戦史研究者は、米海軍の資料だけを頼りに書いているが、日本の相手は英・蘭・豪など連合軍であった。これらの国々の資料も調査研究する必要があると思う。

(なにわ会ニュース49号16頁 昭和58年9月掲載)

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