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平成22年4月26日 校正すみ

兄の想い出

清村 博一(克巳の弟

清村 克巳

  は じ め に

 昭和二十二年のある夏の日のことです。帰りの汽車が取消しになり途方に暮れていましたが、村へ帰る農協の車が駅前にいるのを発見し、数人で便乗して帰る途中のことです。荷台の縁に腰掛け、涼風を楽しんでいた所、急カーブで私だけ振り落されました。空中に浮いたまでは、はっきり覚えていますが、そのあと意識を失い、気がついた時は市内へ帰るトラックの荷台に寝かされ、病院へ運ばれる途中でした。同乗していた義兄が付添っていてくれましたが、不思議といいましょうか、私には奇跡としか思えません。衣服の汚れも殆んどなく、軽装なのにかすり傷ひとつありませんでした。空中に舞い上がった一瞬、宙に浮いた私を逞しい腕で抱きかかえてくれた感じでした。あの時私を助けてくれたのはきっと兄ではないかと思います。

  小・中学校時代

 兄の登校拒否が始まったのは、小学校へ入学した直後でした。登校前になると、きまって泣き出す兄を母が背負い、現在のような重装備と違い、殆んど教具の入っていない軽いランドセルは、二歳年下の私が喜んで肩にかけ、母に手を取って貰い学校へ急ぎました。授業が始まっている教室へ入ると、女先生がいつも私の頭を撫でてくれました。嫌がる兄を席につかせ、教室を出る時、ひときわ高い兄の泣き声が子供心にも心配でした。泣き虫、一年生の兄、これが私の一番古い想い出となっています。

 一寒村の村長を最後に辞職した父は、代書人の看板を掛けていました。その頃から酒の量も増し、いつしか酒も焼酎にかわっていました。量を制限するには毎朝母が定量を買って置くしかなく、養子でやや気弱な父は、不足分を自分で近くの店へ買いに行けず、わが子供に頼むしか方法はありません。恥かしさで姉や兄達は父の言いつけを聞かなくなり、その役目はすべて私が四歳頃から引受けました。兄の店嫌いはその頃から続き、中学五年まで近所の床屋と中学指定の本屋以外全く立寄らず、隣の菓子屋さえ覗くことはありませんでした。

 夏の水遊びは子供にとって楽しみの一つですが、兄の泳ぐ姿は一度も私の記憶にありません。中学では水泳訓練もありましたが、級長を毎年すれば、見学理由も疑われなく許可されました。カナズチとしか思えない兄が、兵学校の合格通知を手にした時、母以上に心配したのは本人ではなかったかと思います。水泳は兄が苦労したものの一つだったに違いありません。

 小学六年で父を亡くした兄は成績も良く、私は中学で教師から度々兄のことを持ち出され叱られました。然し兄は一度も私に注意したことはありません。毎年の保護者会には当然母が粗衣で出席した訳ですが、惨めな思いをさせなかった兄は、確かに十二人の子供の中で一番の親孝行者でした。村から初めての海軍兵学校合格を出してくれて、父が生きていてくれたらどんなに喜んだことかと思います。

 殆ど毎日勉強ばかりの兄の唯一の楽しみは、私と二人で時々する写真の現像と焼付けでした。裸電球に赤布を巻き、二階の戸を閉め切り、当時の母の苦労もわからず、肩を並べて時間のたつのも忘れて熱中しました。遊びといえばこれ以外は思い出せません。この遊びが兵学校で学科の実習で役に立ったと聞いた時、母の嬉しそうな表情は今でも忘れません。紫は失恋の色だと言い、祖母の手織りのあまり布で、羽二重の風呂敷をつくり、それで弁当箱を包んで持ち歩いていたことくらいが、精一杯のおしゃれでした。考えてみると本当に楽しみの少ない時代でした。

  兵学枚時代

 休暇で帰省しても余り話もしない兄が、ふと漏らした言葉がいまだに私の脳裏に残っています。それは四号生徒時代に毛筆で書いた軍人勅諭の謹写が、五人の中の一人に選ばれたということです。筆不精の兄がこの世に残してくれた唯一の物で、現在も大切に保存しています。小学生の時、硬筆練習に精を出し、中学一年生で向隣りから頼まれ、『はり・きゆう』 の看板を書いたこともあります。それから後一人剣道で勝ち抜けば五人抜きができ、胸につけるメダルが貰えたのにと、いかにも口惜しそうに語ったことがありました。

 然し一番大きく変ったのが一号生徒時代だと思います。外出嫌いの兄は、その頃から己の短命を予期したのか、ある日寺の住職を訪問しています。日頃よく兄を知っている母や私にとって驚くべきことでした。写真では、殆ど端の方に写っていますが、前列の真ん中に帽子をやや斜めにかぶり、腕組みした姿はツッパリ生徒のようにみえ、数少ない私の一番好きなポーズも一号生徒時代のものです。

何事も控え目で頭も固く融通のきかぬ兄と思っていましたが、正月のある日2人で市内へ出ました。その春卒業予定の私は、食堂にも入れず、あまり期待もせずついていきました。兄は当時市内に住んでいた長兄のところにより、これから映画を観に行くから私に長兄の衣服で変装しろと命じました。見つかれば、当然停学処分は覚悟せねばなりません。あと三ケ月辛抱すれば堂々と映画館に入れると思いましたが、結局強引に連れ出されました。少し長いオーバーの襟を立て、ソフトをかぶった姿は滑稽に見えましたが、一緒に市電に乗りました。年に一度位しか見ない中学校での十六ミリ、それもカットし尽くされた、雨降りの外国ものと大違い、長谷川一夫の「伊奈の勘太郎」にはアッと息を呑む程素晴らしく、鮮明で、巨大なスクリーンでした。正月興行で館内は満員に近い入りで、私たちは立ち見でしたが、短剣姿の兄から少しはなれた所で観る要心は忘れませんでした。兵学校在校生徒数は全国でも上位の熊本県でしたが、やはり目立ちすぎました。

(津村克己 熊本県御船中学

20312 イ171号 内南洋で戦死)

(なにわ会ニュース47号12頁 昭和57年9月掲載)

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