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平成22年4月29日 校正すみ

焼津のセミクラス会と田辺の墓参記

          旭 輝雄

          旭 輝雄

 108日の「なにわ会旅行」で「貴様との約束今度は実行したい」と樋口より申し渡される。「日取りに関しては貴様に任す。当日はゴルフをしてから焼津に行きたい。起伏が激しくないゴルフ場を頼む。」とのことであった。約束とは昭和43年、)樋口 直と加藤孝二に「焼津に」来い、旨い魚を食わせるから」「行くよ」とのことである。20年来の念願であり、一時は、「スッポカサレタ」感なきにしも非ずと思っていたのであった。

 たまたま、加藤のKAの親友(浜松在住)が田辺の妹さんと友人で、妹さんから「母は健在です.一度お出で下さい」との連絡がありこれに託つけて、田辺と4号同分隊で戦闘機仲間の恒川の車で、加藤、山田良彦の4名で行くとの事、今度は確実と思った。処がゴルフ場は平日にも拘らず、何処も満員、気違いじみたブームと天を仰いで嘆息、最後に74期の川辺君(ヤマハ楽器の取扱店でも静岡一で神奈川県にも進出している会社「すみや」の専務)に頼み込み、漸く〇八〇六静岡CC島田コースを予約、さて今度は天気である。時化でも来たら魚が手に入らない。折角来焼して呉れるのに美味い魚が無くては・・・・と神に祈るだけであった。田辺の家は浜松インターより近いと聞いて浜松の大槻に連絡「事前に調査し、出来れば田辺家を訪問しておく」との返事、持つべきものはクラスメートと大船に乗った気持で16日を待った。

 当日天候雨、寒気あるも四人共、平気平気で一安心、残念ながら私は大腸ポリープの手術後でプレー出来ず、終了迄事務所待機。一五〇〇合流、「お魚センター」に案内、買物の手伝い、ホテルのチェックインを済ませてレスに案内、残念ながら大槻は所用、川辺君は風邪で不参、五人で乾盃、二時間余り懇談、雨も止んで、ゴルフ場の評価も高く、一安心、遠慮する事もなく心おきなく話が出来るなんて何年振りか? クラスの有難さを痛感した一夕でもあったし、湘南のクラスの連中は幸せだなと感一入であった。私の様なズベ公が何と昭和42年に73期以下、78期の下級生に何かと面倒になって公私にわたり応援を受け、公職団体職については無事任務を全うし、本年5月退任出来たもの彼等の御陰であり、私が昭和27年に事業を始める時に応援してくれたのも川辺君であった。身体に関しては75期の福田君(クラスの福田英の弟)77期の近藤悟君、亡くなったが吉野君等本当にお世話になり、早期発見、早期手術で健康を保っている次第である。毎年2回の総会、月1回の会食で親睦を深めている。出席の帝望があれば5月初め迄に私に連絡×ネカ×。

 本筋に外れた。元に戻そう。懇談後ホテルに帰り、明日の事もあるし、今朝の早起きドライブ、ゴルフと疲れを取って貰う様にと自宅へ帰った。何と湘南組は23時迄、麻雀とか、恐れ入った次第であった。

 翌17日の0900浜松インターで大槻と合流、彼の先導で田辺家に向う。お母さん、妹さん、お嫁さんが出迎えて下さった。早速仏壇にお参りし、お母さんを中心に話が弾んだ。俳句ゲートボール、フォークダンス、旅行等々、カレンダーの予定表一杯、自転車で走り回り何でも食べ、くよくよしない元気なお母さんに全員脱帽した。

 「以前は6月の慰霊祭に出席させていただきましたが、其の節、光男の話もきけず、特に声をかけて下さる方も居られなかったので、その後は遠慮させていただいて居ります」とのお話を伺い、誠に申し訳なく思った次第、

我々生存者として御遺族と席を共にする折の心得として大いに反省させられた。

 田辺が戦死した1015日は、母堂の御誕生日と伺い、何とも申し上げ様もなかった。田辺が音楽好きで、飛行学生時代よくアコーデオンを弾いていたとか、攻撃隊の直援戦闘機の戦闘について恒川が説明申し上げた。御三方と共に写真撮影したり、歩いて5分の墓参、(地区の戦死者の墓は一ケ所にまとめて建立され、その墓石は全部同一のものであった)をして辞去したが、大変に喜ばれた事を報告しておく。

 大槻から名物の次郎柿を貰って浜松インターで別れ、御前崎に寄り私は焼津インターで別れた。

 焼津のセミクラス会、田辺の墓参の概要を記したのであるが、私にとって千言万句を費やしても語れぬ喜びにしたったことを追記し、樋口、加藤、恒川、山田、大槻の諸兄に改めて感謝する次第である。幸い、身体も元に復し、再び仕事に就いている。

 美味な魚を食べたいと思うものは歓迎する。

 静岡県出身なにわ会戦死者氏名

大村謙次、片山 努、佐藤 宏、杉山克彦、鈴木健次、田辺光男、深見茂雄、村松義隆、石間正次郎、小山 力、寛応 隆、富田育雄、佐野 寛

(加藤付記)

 20年前の約束をやっと果たした。何しろ一時は「貴様、軍人は信義を重んずべし」を忘れたか。」 「もう此の件は言わん」等とクラス会の度に旭から言われて閉口した。ところが、4人で行ったら大歓迎を受け、大槻敏直、旭 輝雄に感謝すべき我々が感謝された。どうもおかしな話だ。身の置き処に苦しんでいる。

 これも田辺の縁につながるお導きか・・・。‥

レスでの話はアルコールと共にモーローとしているが、昔変らぬ大槻の真面目さに敬服、旭が「出雲」の甲板士官から「五十鈴」に転勤退艦の折、特別短艇が岩国沖から、宮島の桟橋迄送ってくれたとの話、旭中尉のなれの果ての眼は輝いていた。

(なにわ会ニュース62号18頁 平成2年3月掲載)

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