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 回天慰霊祭に参列して 軍神久住 宏を想う

          山田 穣

  世界最初の回天搭載実験

昭和十九年の夏、潜水学校を卒業していよいよ第一線の潜水艦乗組みがきまった。小生が乗組みを命ぜられたのはイ五三潜で、着任の場は佐世保であった。希望に胸を膨らませて佐世保軍港に着任した時、そこにまっていたのは、ア号作戦から帰投したばかりの、外見がぼろぼろのイ五十三潜で、丁度入渠修理中であった。

修理が完了し、内海に回航になり、訓練にはげみつつ、つぎの出撃を待っていたのだが、丁度そのころ、ある特殊な実験を行なうという第六艦隊の命をうけて、特殊潜航艇(ハワイ攻撃に使用された甲標的)の基地であるP基地に回航して、その実験なるものを行なったのである。もちろん、その以前にその実験に使用する装置を呉軍港の造船部でとりつけたのであるが、それを見て何かをその装置の上にのせるのだな?という想像はしていたが、それが何であるかはわからなかった。

 さて、P基地でいよいよ実験というときに内火鍵で到着してきたのが、頭髪が七、八分にのびた異様な風体の若い中尉と、他の一人は普通の風貌の大尉であった。前者は七一期の仁科中尉で、後者は七十期コレスの機関科の黒木大尉で、共に回天の創始者であるということは、その後の紹介で始めて知った。

私は、ときにイ五三潜乗組みの砲術長少尉であった。

 さっそく実験ということになり、呉から大型のクレーンが到着し、多数の関係高官が到来して、やがて現われたのが、ものすごい魚雷型のもので、それが回天たる特殊兵器であるということは、その段階で初めて知ったものである。その実験は、回天の潜水艦搭載という、わが国、いや世界で始めての実験で、回天とわたしの最初の縁であった。

 

  捷号作戦開始

 母潜として回天を搭載して、イ五三潜が潜航実験をやったかどうかはいま記憶がない。しかし、いよいよ、戦局もここまできたのだという非常な切迫感、緊張感をもったことは、いまだに想い出すことができる。ともあれ、最初の搭載実検艦ということで、こんご回天搭載の本格的訓練を行なう予定で艦長以下全乗組員が張り切っていたところ、突如として、捷号作戦が発令されたのである。レイテの攻防をかけて聯合艦隊も全投入のどえらい戦斗であることだけは、われわれ若い中尉にも何かひしひしとわかるものがあった。

 もちろん、第六艦隊も全力投入ということで、準備の完了した艦からどんどん出睾させた。巡潜イ号で編成された主力の潜水部隊は第十五潜水隊で、イ五六潜がまず第一に出撃し、イ五三潜も回天の実験はそのままにしてレイテヘ向って出撃したのである。この戦斗は本文のテーマではないので省略するが、イ五六潜は戦局の初期にレイテ沖に到着したため、大戦果をあげ魚雷をうちつくして帰投、わたしのイ五三潜以外、イ号口号を含めて十五隻以上の潜水部隊の主力は、みな帰らぬものとなった。青木、吉、土井その他クラスの戦死もこのときである。

 

 菊水隊による第−次回天攻撃

 わがイ五三港がレイテ沖で索敵中、回天搭載の実験と若干の訓練にやった回天部隊は、イ四七潜、イ三七潜(ともにレイテ作戦には準備が間に合わなかった)の二艦に四台ずつ搭載して、菊水隊を編成し、コッソル水道とバラオ・ウルシー環礁をめざして出撃したのである。これが回天による攻撃の最初でイ四七潜には仁科中尉(出撃までに彼の頭髪はもののみごとにザソバラとのびていたが、出撃の直前、きれいに散髪していったという)、イ三七潜は七十期の上別府大尉であった。

 この両艦の出撃結果は、イ四七はウルシーで大戦果をあげたのであるが、イ三七は出撃来音信不明、コッソル水道にも到着することなく、おそらくバラオ本島の近海で敵に遭遇して撃沈されたものと考えられている。

 わがイ五三潜はレイテから帰呉後、艦の整備を終るや否や、回天の搭載設備を完了し、イ三七潜のあとがまになったのである。

 

  回天搭載きまる

 ときに昭和十九年十二月中旬、一切の出撃準備を終ったイ五三潜は回天基地大津島へ回航した。当時大津島は回天基地として出来上ったばかりで、まだすべてが整っている状態ではなかったように記憶する。乗組の気持としては、前にイ三七港が失敗していることだけに何か嫌な気持がしたものであった。

 このときの回天搭乗員四名の隊長が久住である。

 

 久住 宏の想い出

話は前にもどるが、わたしが兵学校の体格検査を東京の商船学校で始めて受験したとき久住のあのヌーボーたる風貌がまず第一に目に映った。たしか、彼は府立九中の制服をき

ていたであろう。もちろん話をしたわけではない。しかし、これが今世における久住との最初の出会いであった。

 つぎに久住に会ったのは、江田島で、橋本クラブであった。そして、何としたことか、わたしと彼とは同じ第十三分隊であったわけである。彼は入校前の再検査で、例の吊網に片手でブラ下がる試験でスッテンと落っこち、すんでのところで問題になるところだったのも、いまにしてわたしの記憶にある。そして、兵学校の四号、三号の時代を一緒に過ごし、再び縁によって潜水学校学生が同じであった。

 彼がどうして回天に行ったか?それはわたしにはわからない。われわれの潜校学生時代に、回天の話は全然なかったし、またその募集などもあるわけがなかった。しかし、第一線の潜水艦の要員として、しばし待機の任務中に(われわれがイ五三潜で最初の実験をした頃と推察されるが)彼は望んで、この回天の業実現への途を選んだのであろうと推察している。

 

  イ五三潜の出撃

いろいろの出撃の行事があり、六艦隊長官以下各幕僚がそろう中で、回天特別攻撃隊金剛隊が編成された。久住隊長以下三人が乗り込んで、いざ出撃という前の晩、もちろん、大津島の回天隊だけの送別会もあったのだが、イ五三の士官以上と回天搭乗員との送別の宴が徳山のレスで行なわれた。そして十二月もおしせまった三十日、艦は大津島を後にバラオ・コッソルへと向ったのである。

 昭和二十年の元旦はバラオに向う太平洋上ならざる太平洋中で迎えた。おそらく、元旦のささやかな雑煮のお祝いを海の中でした人間は、戦後二十年いま何人もこの世にいないであろう! そして、この雑煮が、久住ら四人の若い回天搭乗員のこの世の最後のものでもあったわけだ。

 

  搭乗員と死

 ぉよそ人間死を避けることはできない。しかし、いつお前は死ぬのだといわれたとき、人間たるもの泰然としておられるだろうか? 回天の搭乗員は、昭和二十生二月十二日朝四時というこまかい時間をくぎつて、彼等の生命の終焉をいいわたされているのである。

 この厳たる申し渡し、いうならば死刑執行をいいわたされた者が、あの狭い潜水艦の中で、出撃以来一日一日と〃その日〃の迫る毎日毎日を送る姿。ともかく、最後の最後まで見とどけたわたしに、嘘もかくしもないその実際の姿をご紹介する責任があるとも思うのである。

 実際、前のレイテ沖の作戦のとき、ものすごい爆雷の攻撃をうけたとき、わたしは、怖くて怖くて仕方がなかった。とくに反撃の術がない被爆雷攻撃は、潜水艦乗りにとって、最も怖いものなのである。しかし、責任と任務という大義のため、しかも、俺は江田島出身の士官だという名誉のため、いかにも平然と粧う姿は、情けないと思うと同時に、艦長以下ほとんど全員の実際の姿であり、心の内であった。

 こうした体験から、久住の日常をみているとき、かくされた心の内は必ずある種の矛盾を現わし、粧いは必ずや粧いであるとしてわかるものであるが、彼は全く死という冷厳たる事実を一つも感じていない、われわれ乗組士官にも全く了解できないほどの崇高な態度で、部下の隊員と図上演習をし、余暇に遊ぶという整然とした毎日を送っていた。

 彼のこうした人間最高峯の態度は、とても筆舌に表しうるものではない。それは決して、戦場の一時における人間の異常心理でもなければ、心の内をかくした粧いでもないのである。

 

  バラオ・コッスル水道へ

 さて、われわれは、こうした軍神を乗せて予定どおりバラオヘと向って行く。一度パラオ本島の東100浬に到着し、針路を西に向けてバラオ本島へと接近した。

 昭和二十年一月十一日の夜半、メインタンク半分注水のまま半分浮上して、最後の充電を行なう。ときにすでに占領されていたベリリユウー島の米軍からは、四方に向ってサーチライトで哨戒している。その光芒がイ五三潜のすぐ上をサーとかすめていく。

 かくして充電を終り、二名の搭乗員を回天に搭乗させ(その当時は、母潜から回天へ通じるハッチは2つしか無く、他の2つは艦外から乗員を入れたのである。)

潜航のままパラオに接近すること10浬、針路を北に向けて、コッスル水道の入り口へと隠密航行を行ったのである。

もとより総員配置。翌朝十二日午前三時、久住他二名の搭乗員も、いよいよ艦長以下に最後の挨拶をして、ハッチから回天へと搭乗して行った。この最後のときにおいて久住が何とわたしに言ったか、いま覚えてはいない。しかし、逆上して完全に動揺していたのはわたしで、全ぐ泰然としていたのは彼であったことだけは、いまでもわたしが忘れることのできないことである。

 さて、搭載していた回天は、母港出港以来十数日、完全に毎日水潰しの状態のため、充電のため浮上したとき、整備員は念入りに手入れを行っていたわけで、最後の晩は、ことさら念入りに整備を行なったのである。おそらく久住の胸の中のどこかに、若干の不安でもあったとしたら、それは回天の整備が完全であり、最後のときに、充分疾走に耐えられるものであってほしいという気持だけであったろう。

 

  久住の最後

 十二日午前三時半、イ五三潜はコッソル水道の南西十浬の地点に到達した、回天との電話連絡は、司令塔の砲術長の配置であり、すなわち、わたしであった。

一号艇久住中尉に対して最後の情況説明があり、いよいよ回天起動の直前、最後の言葉として」わたしが久住の声を電話で聞いたわけであるが、戦後二十星霜、さだかにその言葉を記憶していないのであるが、私的なことは一切なく、ただ「天皇陛下万歳!」といって艦長の「用意!‥テー!‥」の号令を瞬間待ったわけである。

 これは、ほんの瞬間である。このテ!‥瞬間こそ、昭和十五年の夏、越中島の高等商船学校で、この世で初めて出会った二人が、五年後の本日、彼の両親兄弟の誰よりも、彼の最後の最後に声をかわしていくという劇的な縁とともに、おそらく彼として最高の本望を達すべきときであったと思われるのだが?・

 天運幸ならず。彼の回天は、整備員の努力のかいもなく、気筒爆破を起した。潜望鏡をのぞいていた艦長によれは、潜望鏡一杯が火になったという。しかも、コッソル水道の入口である。(気筒爆破とは推進機関の気筒が始動後間もなく、破裂する事故で、基地訓練中も時折発生した。回天の火薬の爆発ではない)

 五分間隔で出す回天を、三十秒間隔で発射し、久家少尉(悪性ガスのため気絶して人事不省)を収容すべく、敵前で浮上したときには、目の前に敵の駆潜艇がいた。この間の様子も、いろいろ記述紹介したいとは思うが、本文の主旨に反するので省略しよう。

爆雷の雨をくぐり、やっと安全圏へのがれ出たとき、イ五三から六艦隊長官にあてた報告電が、簡にして明、よく久住の最後をいいあらわしている。これは、当時十一潜戦司令部で木村貞春が傍受保存していてくれたものである。

(バイパス8号参照)

 

 宛GF6F長官 発伊五三潜水艦長

一、十二日〇三五三、三号艇、四号艇発進、〇五二〇爆発音二、聴取ス

二、一号艇発進時、気筒爆発、浮上ノ後大爆発ヲ起シ、約五分後沈没ス

三、二号艇筒内に悪ガス発生、搭乗員失心発進ヲ取り止ム

四、不慮ノ事故ヲ生起シ、攻撃力半減誠二申シ訳ナシ、特ニ一号艇久住中尉ノ尽忠ヲ察スレバ断腸ノ思アリ

五、十九日一八〇〇、地点へホモ○○ノ予定

 

  む す ぴ

 戦終って二十一年の年が流れた。そして、過日、クラス主催の慰霊祭があり、つづいて十一月二十日、小灘他の世話で回天の慰霊祭が靖国神社で行なわれた。わたしの他に、田中宏謨、加藤、村山(機)がクラス代表で参列したが、わたしとしては、その後の回天戦で散った回天勇士とともに、久住宏のかっての英姿を回想しながら、過し二十有年前の想い出を浮べ、靖国の霊にわが今日あるを謝し、戦友の志を受けつぐことを誓いつつ、英霊の冥福を心からお祈りしたのであった。

 

 久住君の遺書より抜粋(回天会発行回天より)

私は心中一点の曇なく征きたるなれは、何卒幸福なる子と思し召され度、祖母上様と共に愈々御建かに御暮し下さる様祈り上げ侯・・・・・・

万ヶ一この度の挙が公にされ、私の事が表に出る如き事ある時は、努めて固辞して、決して世人の日に触れしめず、騒がるる事なき様葬儀其の他の行事も努めて内輪にさるる様、右固くお願い申上侯、又訪問者あるも進んで私の事に就いて話さるる様なる事の決して無き様、願はくは君が代守る無名の防人として、南溟の海深く安らかに眠り度く存じ居り侯。

  昭和十九年十二月               宏

    御両親様

 

 もろもろのまどひは断たん君がため

   南溟ふかく涛分くる身は

 命よりなほ断ちがたきますらをの

   名をも水泡と いまはすてゆく


(バイパスニュース第号  昭和年月掲載)

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