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平成22年4月29日 校正すみ

真鍋良弥大尉のこと

吉川 泰(機54期)

眞鍋 良弥

 配属後、機体整備の任についた私は、その後、ジャバ、スマトラに転進し、S301381空の下に編成替えされると、再び沼南に近いマレー半島ジョホール基地に移動した。

 当時、沼南に於いて一番若手の学校出の士官は、飛行機乗りや、艦船勤務者を除いては兵器整備の72期出身、兵器2期学生であった真鍋良彌さんと、私のみであった。この二人に内地転勤の話が起きた。昭和二十年五月のことである。当時の南西航空艦隊司令部の宇都宮航空参謀に呼ばれた私達は、二人が同時に内地に帰ると、学校出が誰も居なくなってしまうので、「どちらかが残れ、吉川お前残れ」と、私の転勤辞令はその場で取り消されてしまった。一方、内地転勤の決まった真鍋大尉は、五月三十日ジョホール基地から内地に向かう第十輸送機隊の一式陸故に乗り込んだ。

 出発前、真鍋大尉は私に、「悪いな、お前だけ置いて。お前は内地の土が踏めんかもしれんぞ。」と云い残したのが、彼と言葉を交わした最後であった。大尉の乗機は、翌五月三十一日にサイゴンを出発後、行方不明となってしまった。恐らく、どこか比島の北西の海面で戦死されたことと思うが、この知らせは、どこにも伝わらなかった。(中略)

 話は昭和二十二年の春にさかのぼる。私は、突然上品な御婦人の訪問を受けた。御婦人は『私の息子は真鍋良彌といい、未だに復員していないが、台湾に真鍋という人が居るらしく、どうも自分の息子のような気もする。復員省に行ったら、もしかしたら貴方がなんらかの情報を持っているかもしれない、と聞いて伺いました。』とのこと。御婦人は、私が二年前に別れた真鍋大尉の御母堂であり、とにかく当時のお話をして、復員省より戦死の公報を遅ればせながら出す様手配してあげた。その御縁で、度々お宅に伺い、戦中の想い出をお家族にお話しして、慰めて差し上げていたら、八月の暑い日であったと思うが、お母さんより突然『良彌は死んだが、貴方はその身代わりに妹の雅子を貰って呉れないか。』と言われた。もともと慰めに御宅にお邪魔したのも、ある意味では妹さんに会うことが一つの理由だったのかもしれないが、とにかくこれが御縁で、昭和二十四年一月に結婚。以来家内に家庭内の一切のことは一任、子供も二人の娘に恵まれ、二人共、慶応幼稚舎、中等部、高校、大学を経て、既に結婚、長女には二人の娘が出来、次女にも結婚後七年目で初めて長男が出来た。

 今では一番上の孫娘は聖心大学の一年生、次の孫娘は森村学園中学部の二年生、一番下の孫息子は幼稚園と、ごく普通だがとても良い家庭に恵まれ、それぞれの家庭は自分の処から歩いて十〜十五分の処に住み、仲良く殆ど連日の様に我が家に集まってくると言う、一番幸せな生活を享受している今日此の頃である。

(機54期級会誌「あおば」10号、平成53月発行より抜粋)

(なにわ会ニュース70号41頁 平成6年3月掲載)

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