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平成22年4月29日 校正すみ

軍神 丸山 隆君の凱旋

  五郎

丸山 隆

時は昭和20年1月5日、ルソン島上陸作戦のため、マニラ湾を北上していた米海軍護衛空母マニラベイは、突如右舷彼方より超低空を肉薄突進して来る3機編隊零戦の姿を捉えた。

艦橋も、舷側の対空砲火陣も、一瞬にして身も心も凍るような恐怖感に捕らわれたであろう。

神風だ!と誰もが悟つたに違いない。上空に乱舞する米護衛戦闘機は直ちに迎撃態勢に移った。空母乗員は何とか味方戦闘機が撃ち落としてくれと願ったであろう。勿論舷側の対空砲火も一斉に火を吹いた。そして、銃身も焼けよとばかりの猛射弾幕に、1機は墜蕗、残る2機の零戦は突如急上昇を開始した。やれやれ恐れをなして逃げたかと思いきや、急転直下まっしぐらに突込んできた。

神も三舎を避けたであろう必死必殺の体当たりである。正に日夜練磨の成果を死の一瞬にかけた凄じい迫力で、艦橋付近の甲板に激突、辺りは一瞬にして猛火猛煙の巷と化した。セオリー通りの加速突入である。

後続1機は突入直前、機首が上がり、ヤードにひっかけ舷側海面に激突した。恐らく銃弾を浴びて、絶命、無念にも機首を押さえ切れなかったのであろうか。

マニラベイは乗員必死の応急活動により、ようやく沈没の憂き目を免れたが、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の修羅場にようやく静けさが戻った跡に、特攻乗員の物とおぼしき財布と、寄書きをした日の丸の旗(或は鉢巻か?)等が発見された。

その財布の中には1枚の名刺が入っていた。名刺の主は海軍少尉増田脩、その名をたどって戦後50年、国境を越えたドラマが展開し、実は突入特攻機が我がクラスの丸山隆君と判明する。

そして奇しくも、8月15日、お盆の日に、縁の品が、父や母の眠る故郷のご遺族の許に帰還した。

軍神丸山隆、幻の凱旋とでも言うべきか。この一件はなにわ会ニュース8412頁に掲載されている。見出しが、「兄の遺品・増田 澄」となっているため、じっくり最後まで読まないと、実はこの記事の主人公が丸山隆君であることに、なかなか気付かない。

諸君には是非再読して頂きたいが、念の為、事の次第を略記する。

丸山機は飛行甲板を貫いて爆発、格納甲板では駐機中の2機が誘爆炎上、戦死22名負傷56名の大惨事となった。完全に応急修理が完了するまでには2日を要したが、惨憺たる現場に前記遺品が発見されたのである。遺体などは勿論、千々に砕けて飛散したであろうに、よくぞ財布や日の丸が残ったものである。その時、現場で応急作業の指揮に当たったパートレット大尉(開戦時中尉、大佐で退役、1982年没)には、大学教授の息子とその子である孫がいた。そして、その孫が語学指導員として来日、鹿児島県国分市で日本女性と恋仲になり、2人はめでたく結ばれることになった。かねて父大佐から当時の話を聞かされていた大学教授は、息子が日本女性と結婚するに先立ち、この特攻機の遺品のことを知らせたのである。 幸いなことに、花嫁の父祖は元新聞記者、同じく母親は図書館司書で、話を聞いた2人は即座に調査活動を開始した。そして、息子の結婚式に先立ち、鹿児島にやってきた大学教授は、早速鹿屋市の特攻資料館に案内され、鹿児島放送からこの一件が放映された。勿論、最大の手掛かり、名刺の線から神風特攻第十五金剛隊増田脩中尉か判明、さらに二〇一空閲係者にもご両親の写真等が送られた結果、遂に甥の丸山忠範さんとの連絡がついたという次第である。 そして、この大学教授ははるばる能登の七尾まで足を運び、縁の品を遺族に渡すと共に彼の墓前に足を運んでくれた。

かつて、お互いの肉親が、敵味方であったという恩讐(おんしゅう)を越え、人間として感激の一瞬であったろう。それが奇しくも、前述50年目の8月15日.お盆の日であったというだけに.一入感銘深いものがある。 我々以上に、肉親縁者の思いには更に深いものがあったであろう。

以下、文中の和歌は、すべて丸山君の姉袋井幸子さんの詠まれたものである。

 奇しき因縁の 遺品を映す 温情は  敵艦より来る 辿りて至る

 五十年目に 帰りきし霊  特攻散華の 「隆」の日の丸

 

遺品の日の丸には微かに「隆」の文字が読み取れる。そして、墨痕淋漓(ぼっこんりんり)として、出撃前夜の軒昂たる意気を示す、丸山君の達筆は「尽忠報国」の4文字。 

死地目指す 身につけゆきし 日の丸の  隅に読み取る 辞世の四文字

「尽忠報国」と 若き一念の 記さるる   文字解説 五十年目の夏 

憎しみは 遥かの事とし 頭を垂るる  散華をつぶさに 伝うフィルム

 

丸山家にとってこの日は、特別の意味を持つ日になったに違いない。 実は隆君の兄君〈陸軍大尉)もビアク島で戦死されている。そしてお二人が、村の忠霊塔の今次大戦欄の筆頭にも並記刻銘されている。 

 

戦後五十年 真の節目と なれる日か  八月盆の日 墓前に灯の揺る

南溟に 果てたる二人へ 五十年  少年にありし 声たちて来ぬ 

 南(みんなみ)の海捗り来よ魂二つ  故郷の八月 墓碑に灯火(ひ)点れば

そして更に、8月15日は生けるものには敗戦記念日である。 

 黙祷の しじまに空より 降りて来る  かの夏の日 天皇(すめらぎ)の声

ミンミンと 一つ鳴き出ず つられつつ  鳴き出ずるあり 正午の黙祷

 

このアメリカ人3代に亘る友愛が幾分かでも、遺族にとっての悲しみを、恩讐の彼方に追いやって呉れたにしても、戦後の日本の精神構造は納得し難い。それを思うと、言い知れぬ空しさに、遺族の胸が晴れるはずは無かろう。 

燃えつきし 炎かとも 死語なる特攻隊

わが生共に 棲みて棲まわす

世間では死語になっても、遺族の心の中では生きている。この悲しみを歌に託し、歌に託して悲しみを彼の世に伝えようという歌人の心が痛いほど伝わってくる次の一句である。

 

戦さ知らぬ 大方なれば 伝わらぬ  悲しみは詠む 詠みて悲しむ

 

遺族たらずとも、戦後の滔々たる自虐史観の蔓延には、腸の煮え繰り返る思いがする。

楯の両面、歴史の裏表を知らぬ今の世に、せめて老いたる者の思いを託せるのは歌であろうか。

 

侵略なり 否止むなきと 姦しき  国に殉ずと 死は浮き沈む 

老いの感傷 などと言うまじ 身を撃ちて 国に殉ずと 語り継ぐべし

 

そして諦観の一句であろうか

 

生命に 関わらぬ勝負 清しきに 八月十五日 沸く甲子園 

これが平和だと有難く思う一方、降か生きておればどんな姿かと思いやるのも当然の人情である。 

生あらあと 同期の風貌 思い見る 自髪滋顔 爺とぞ呼ばれて

しかし、本当は我々を見てがっかりと言うのが本音であろう。

そこはご勘弁して頂くとして、去る5月16日、小生は金沢在住の西尾 博君と.一緒に七尾の丸山家を弔問した。金沢在住の令弟丸山 孜様と列車内で合流、七尾駅頭で甥御の丸山忠範様の出迎えを受け、生家に案内された。七尾市湯川町とはいうものの、相当草深い田舎で、戸数数10軒の山間の小さな部落である。   

最初に参拝したのは部落の誇りの忠霊塔、2本の榎の木陰にひっそりと立っていた。大変趣のある古木で、無縁の旅人でもしばしたたずんでいたくなるような風情があった。

昔の細い田舎道が舗装され、無理矢理車が通るため、樹勢の衰えが目立ちはじめて居るのが、余所者ながら残念であった。

この忠霊塔は上下2段に分かれ、上段には日露戦争で戦死した陸軍一等卒と二等卒の2人の刻銘、何れも勲八等と大書きされていた。増設の下段筆頭に海軍少佐丸山隆、続いて陸軍大尉丸山寛と、以下ほとんどは下士官兵であるが、無惨にも終戦後、この碑は一度倒されたそうである。純朴極まりないと思えるこんな七尾でも、心無い輩が居たらしい。甥の忠範さんは、せめて戦死の順番に刻銘されていた方がよかったのに、とおっしゃっていたが、兄の寛様を差し置いてまで、隆君を筆頭に記名したのは、当時の人達の特攻戦死に対する思い入れがどんなものであったかを示すのであろうか。

 

墓所は丸山家の裏庭にあった。さらにその裏.一帯は昔小学校があったそうである。その敷地は、もとは、丸山家が寄付されたもの、そして丸山君の父君が校長先生であった。

お宅では、前記パー卜レット教授来訪時のビデオを拝見したが、遺族を代表して令弟孜様が真っ先に述べられたのは「米艦の方でも多数の死傷者や損害があったであろうに、戦後50年、恩讐を越えてのご厚意に感謝している。」という趣旨の感謝の言葉であった。

 当たり前と言えば当たり前であるが、何故か大変感激した。この孜様は陸士60期コレスの軍官学校出身、いささか小振りではあるが、隆君そっくりである。そう言えば話し振りまで似ていたであろうか。小生の弟も陸士60期、この秋神戸の大会で会えるかもしれないと楽しみにしておられた。墓参を済ませてから七尾の市内でご馳走になった。流石名だたる漁港、獲れたての魚介料理に話も弾む、酒も弾む、いささか酩酊したが、孜様は相当の酒豪である。

隆君も生きていたら、我々ともいい飲み友達であったろうに、といささか残念な思いがする。

そういえば、隆君と同じ27分隊時代、二号だけで巡航に出かけた後、湾口を出て能美島北東の浜辺に立寄り、誰かが酒屋を探したか遂に見当たらず、大変残念な思いをしたことがある。

まさかこんなことは丸山君も日記には残していないだろうが、嬉しいことに、彼の日記帳や、書籍、書類が沢山残されているそうである。まことに貴重なものというべきである。ご遺族にとっても、日記は、丸山君の青春を知る最高の縁であろう。

 

五十年 経て詠む日記 かすみつつ  青年の日の 君との対話

 

中でも191120目、二〇一空付

   24日特攻発令、新竹を出るまでの日記がすさまじい。

 

死を見つめ 思い何なりし 二十日あまり

 彼の日記 遂に止むまま

 

何がすさまじいか? 読めば判る!

 

これが死地に赴か人とする若者の書いたものであろうかと驚嘆する。淡々たる筆致ににじむ鉄心石腸の勇猛心と責任感。そして言葉通りの沈着豪胆、壮絶極まりない見事な最後! あんなに朴訥、温厚、純情であった丸山君だけにただただ感服の至りである。

二号時代の1年間、机とベッドを並べて正に寝食を共にした波が、かくも見事な武人であり、真の勇者であったとは、不明のほど誠に慙愧(ざんき)に堪えない。

以下、二〇一海軍航空隊付になってから、比島進出までの彼の日記を転記する

 

『以下日記の文字については、出来るたけ原文に忠実につとめたので、昔の送りかな等がある事をお断りしておく。なお「ゐ」だけは編集上の部合で「い」に直した。』

 

1121

二〇一海軍航空隊付を命ぜられ、本日発令された。当分の問、今の所、霞ケ浦に仮住居の由。何分にも待望の実施部隊への転勤だけに嬉しい。

愈今日まで.1ヶ年の間に鍛え上げた我腕一つに、物をいわせて御奉公する日が来た事と思ふと胸踊るを禁じ得ない。

二〇一空の内容は知らぬ。様々の憶測も交されているが.戦況の逼迫に即応せられて新編成になる隊である以上、働き甲斐のある任務を帯びているに相違ない。

決して死を急ぐものではないが、充分の訓練に自信を持って、決戦場に進出する日を期待している。

 

1121

思いきや、光栄の神風特攻隊員として選を受け、司令官はじめ司令部の各位、筑波に於ける各位の知遇を恭ふし、征途につくを得んとは。

21日朝、霞空に於ける派遣隊の皆様に別れの挨拶後、汽車にて本隊に帰る。参謀が乗用車を出して下さったり、いろいろこの間のお世話をして下さる。日中は身の回り整理に忙しくすごす。

夕刻司令官来隊され、わざわざ出発前の一同を集め、激励の訓示をなされる。曰く。

 真の大勇に終始せよ

 神気を昂揚せよ

而して諸予の武運の偉大なる事を祈る、と。

心肝に銘じて忘れず、絶大なる海軍部内の御期待にも応ふべく、最後の一瞬まで奮闘せんことを期せり。

夜水戸の小川にて壮行会あり。筑波空准士官以上参加。今までになき盛会なり。

 

22

短期間ではあったか、始めて実社会といふべき所に勤務することになった。思い出の数々をひめた筑波空である。

懐かしさ筑波空を退隊、霞空に至り11時聯空参謀より受命。

夜は多忙の中をさいて上陸、出征の事は家へ通知する。余裕をも得ざれは取敢へず視戚のみにでも報せておこうと思へばなり。

山下方に一泊。父のもとに手紙を書く。

 

23

早朝、原の伯母さんの家の門をたたき、0550の汽車にて霞空に帰る。

自分を含める5名は別勤して本日出発。鹿屋にて編成の後、台湾高雄に向け着任の途に登る事となる。

1200数々の名残り、すべての愛着を断ち切って、吾等5名を乗せた輸送機は霞空を後にする。

出発の際も司令官はじめ河本中佐、国定参謀外多数の見送りあり。上空通過後も数分間、指揮所前に整列して別れの帽を振っている姿が見られた。

1600鹿屋着。搭乗員未だ揃わず、各部との打合わせもあり取敢えず1泊する事と決める。

三五二空の6名は下士官兵のみと聞く。最先任は自分、准十官以上4名では心細い様でもある。

ともかく今の自分としてなすべきことは、与えられた17機を無事高雄に送りとどけて、自分等としても無事着任する事だ。技量は今まで習得したもので充分な筈、ただ未経験の不安がある許りだ。部下はいよいよとなると指揮官の顔色をうかがふと聞く。実施は大胆に、自信を以って、しかも細心にやる事が大切だ。

出征する者大抵は遺書とやらを書く。

自分も書きたいような気はするがその暇もない。今更書いて何になるという気もないではない。

もし書けたら書くつもりだが、書けなければ、今書いている日誌なり手紙なりが遺書だ。悲喜すべてが兵学校以来書いて来た日誌の中に織り込まれている筈だ。

兵学校時代のは、卒業の際、家へ送った小包の中にある。学生時代のは、之も神池からの荷物の中に入っている筈だ。

後に遺して「しまった」と思われるものもないではないが、手の施し様もない。唯日誌の中の事は白分の本当の姿であることを確信しておきたい。

欲望も好奇心、自尊心、見栄も思った侭に書いた事も数多い。

兄に書いたものの中にも書いてあるが、自分の性格がそういった種類のものである以上、之も当然の事であったかもしれぬ。23年の生涯を通じて作りあげた成果が今の自分である。

もしも自分の日誌を読む人かあったら、その人は全体にあらわれた気分傾向から、自分というものを許して欲しいと思う。

別に偉く思ってくれといふのでも何でもない。間違いなく自分を見てもらへばよいのである。

 

12月3日

去月23日慌しき出発準備完了を待って、霞ケ浦を後に鹿屋にやって来て以来、今日にて10日になる。

二十二空厳の関係各位の絶入なる熱誠により、特殊爆装の工事は2日にて完了。

26日朝には進出可能の状態まで漕ぎつけた。以来打続く天候不良で未だ鹿屋に世話になっている始末である。

27日一旦、出発決意の後、離陸せるも、航法計画の疎漏と天候不良と相まち、加ふるに列機の結束全からず。

竹島付近迄約40浬進出の后、悲壮なる決意の下に鹿屋に引返す。神風特攻隊の出撃にも似て、工廠の工員.女子挺身隊多数の見送りを受けて出発せしからには、男一匹意地でも突破して見せねばならないのであったか、竹島までつき従ひたるもの僅か6機。

何のための空輸か意味をなさない事になると判断すればなり。

同日直ちに研究会を行い、失敗の因って来たる所を糾すあり。各所属の多数集まって、一つの空輸部隊を編成する時、ややもすれば起り勝になる現象そのままが、自分の場合にも適用されたわけだ。

重ねて一致協力の重要なるを強調し、空輸の完遂を皆と共に誓へり。

毎朝鹿屋から定期で帰隊、弁当をもらい、天気図を見るといった事も日課の様になって今日も取り止めかと思うと嫌にさえなる。

しかし、部下下士官兵は更にだらけ勝ちだ。一昨日辺り予め之を警戒しておいた。お陰で外出前も整列してとどける様になった。だらけるとか張切るとかも、要するに指導法如何によるといふ事と痛感する。

親心の如何に有難いものかといふ事も、茲に来て特に感じた一つだ。

空輸といえば単に飛行機を持って行けばよい位に思っていたが、その他の要務、宿所の依頼、燃料の事、食事の事等.今迄考えても見なかった事か必ずつき纏う。

之を.一つ一つ手落ちなく手配し、円滑に準備させる事も、今迄呑気に人の世話になってばかりいた自分等にとっては並人抵ではない。

朝出発間際といふのに弁当が出来ていない飛行場に行ったが燃料車か来ていない。といった簡単な手落ちで、作業が.1時間や2時間はすぐ遅れてしまふのである。

不肖の身であるが、17機の空輸指揮官は身に余る重責であるが、責任重大であれば重大なる程、任務が自分を活動的にして呉れる。

 今迄の自分だったら、ずるけて部屋に閉じこもっていたであろうと思はれる事でも、やらねばならぬといふ気があるから、否応なしに足が動くといった調子である。

所謂働き甲斐のある仕事をおおせつかったといふ所だ。

 

12月4日

遂に空輸を決行した。全行程957浬、所要時間5時間50分といふ大飛行である。

今迄の最大飛行距離が300浬である。最初にして最後であろう所の空輸か零戦を以てする飛行可能距離の限界に近いとは。

荒れはしなかったが、雲も低かったし、驟雨にも遭遇して、天候の空輸に及ぼす影響も相当大なるもののある事も痛感した。

脚入らざる1機(谷二飛曹機と思はる)あり。同小隊は綿引中尉指揮の下に全機小禄に不時着し、残る13機無事高雄着。

夜は久しぶりにくつろいだ気持ち、バスにはいり、鹿屋以来の汚れを取りて、ほっとする。

内地を離れる事1,000浬、一気に飛翔し来たりしを思えば感無量だ。

父上のいらっしゃる郷里からは更に離れてしまった。郷愁の何のといふ限界外にある。といった気特か多分にして、かえって呑気に居れる。

暑い。兵舎の裏では兵隊達が夕涼みをしているし、寝る時は蚊帳を吊る。

食事等も胡瓜や茄子の様な夏のものが多い。やたらとのどが渇いてお茶が飲みたくなる。サイダーを抜くといった調子で、今朝方出て来た鹿屋では、山境に雪を見たのにと思へは嘘みたいだ。

 

12月6日

10日間なじみになって別れる折も悲しい様にまでなった。

三五二及び元山の搭乗員とも別れを告げて雨中を新竹に移動する。

視界10キロ程度、雲高250、風速20米内外といった悪天候を冒して、新竹迄雨中を風に逆らって飛行する。

自信はあった心算だが、案外老長者より見れば、盲蛇に怖じずの類であったかも知れぬ。  

天候に関する限りは絶対に無理するな、と言われた福田大尉等の言を思い合わせ、よくも無事故で到着したと思はれる節もないでもない。

一・二度の成功で心おごるなかれ。

夜は早速新竹に遊ぶ。天候依然としてはれるとも思ほれず、家にいた頃の冬の様な風さへ吹く。

 

12月7日

午前飛行機の繋止状況、及び各部の点検を行ふ。川越が一番先任で、新竹にある二〇一空の者は、自分達が指導して行かねはならぬ現状だ。

而も実戦即応の態勢に、常に訓練整備しておかねはならぬ事を思う時、責任極めて重大である。

鹿屋以来の疲れがようやく出て来て、ほっと一安心した形であるが、茲が身の引締め時である。安心は心の弛みの一種でもある。弛みにつけ込まれ病気にでもなったら一大事だ。

 

12月8日

聖戦2周年の記念すべき日を迎ふ。

3ケ年の中に幾多の難関を突破して今日に及んだ。今やレイテをめぐる戦雲は、日一日と低く濃くなり行くを覚えるのであるが、この難局打開の責任を双肩に担って、自分等は台湾に進出して来ている。

吾等に謀せられた任務は重大であると共に、極めて光輝に満ちた誇りともいうべきものである事を思うとき、生ける験あるの喜びを禁じ得ないのである。

国難突破の道は青い吾人の熟と意気、清純な血潮をおいて他に見出し得ない。

今迄、神風隊にしろ、他人の戦死とか、自爆とかに対して、何等考えて見る事もなかつたが、今、自らがその立場に立って考えてみると、人に知られるでもなく、以上の様な崇高な若人の感激のままに、死んで行った東亜の捨石が沢山あるのだ。

戦闘速報にも見た様に、今日新たにセブの方面に新上陸があった。敵も今度だけは死物狂いで頑張っている様である。

吾等の一奮発がこの騙敵を撃破して、国家を、而して大東亜を.泰山の安きに置き得ると思うと、男子の喜び之に過ぎるものはない。

 

12月9日

天候快復、風強きも飛行作業を開始する。

訓練は先ず、何より商売道貝の降爆より始める。何しろ経験が全くないので、要領は呑み込むに至らなかったが、案外易しいもののようだ。

牛後から富士参謀、太田大尉のお話あり。心の準備と健康の大切なるを教えらる。

自分等は単なる人間だ。決して、チヤホヤされるべき何者でもない。もし吾等の所属の名前に、チヤホヤさるべきものを見出し得るとせば、それは吾人の先輩のお陰である。

吾等を立派にするも否も、一に懸りて吾等の今後の行動にある。

名に恥ずる様な行為なき事、期待に外れた様な結果を惹起しない様充分注意が肝要だ。

 

1210

昨日空輸に協力してこられた筑波の隊長はじめ、分隊長も帰って行かれた。別動隊の自分達の誘導もやってくれた姫空の伊藤少尉、佐藤飛曹長、三井兵曹も帰って行った。

本当に一人立ちになった。心細い気持ちは隠すべくもない。黙し、結局最後は自分等だけで判断もし、実行もせねばならぬのだと思へば、前線へ出るまでよい試練だ。

実地訓練と思えば精もでる。大いに頑張ろうと思う。

 

1211

10時まで、第一警戒配備。飛行機を分散したりしている中に、11時になる。昼近くより飛行作業開始。哨戒隊形及び降爆を行ふ。降爆も皆上手になって何とか物になりそうだ。浅い浅いといっている中に、今日測ってみたら55度と出る。後は実戦的に、想定を自分で与え乍らやる事だ。

夕食前、自差修正をやったが、勉強不足のため自信なく、宿舎に帰り優習する。

 

1212

梅雨の様な雨。午前中雨の中で自差修正を行ふ。自差修正は鉄分の近辺に存在する個所に於いて行わざるは、勿論なるも、之を懸念する余り、計算又は修正法に自信なく、所謂、感によりメイキングする事は最も危険なり。

修正後の残存自差に疑問あらは、冷静なる判断の下に、その原因を探究し、之を排除した后、正鵠を逸せざる修正を行ふを要す。

夕方より約2時間に亘り慰問演芸あり。いずれも熱演にして、内地に於いて見るのと一種異なりたる感興あり。神風特攻隊の歌も今迄は俗悪なる響を有する歌のみと思ひ居りしに、感慨を覚えつつ聴取せり。

終って土官室に於いて、慰問団の方と茶話会あり。特攻隊の歌を教習していただく。

 

12月13日

雨をおかして訓練。3回にて中止する。二十一航空戦隊司令官激励のため来隊、夕食を共にする。吾等は未だ一介の海軍中尉なり。必ずしもチヤホヤさるべきものに

あらず。唯、将来の行動如何が吾人をして偉大ならしむ性質のものなり。自惚るる勿れ。

今日、諸上司よりの絶大なる期待あるを思はば、心に決するところなかるべからず。午後より上陸、夜に至り隊より急報あり。即ち、進出の令を告げ来る。遂に待望の秋は来た。吾等が憂国の熱情のすべてを捧げて純なるままに捨身一番するの時機は到来した。

明日急速、実働機のすべてを率いて出発の予定だ。

0300に至るまで(勿論0200頃帰隊したのだか〕航路の記入等に過す。睡眠も亦大事。暫し休まんと床に就く。

静に胸に手をあてて想いを昔の事、郷里の事に馳せてみる。

家には年老いたる父上が、今は子供等のすべてを家の他所に出し、余生を過ごして居られる。母をなくされて、一入子供達の事を気にせられる様になったが、今頃は如何なされたか。

兄の戦死ありて後、自分に対する期待も非常なものがあったが、今度の事だけは心から喜んで下さる事と信じる。

忠兄はじめ七尾の姉達、大阪の姉上等も、やがて来るべき報せには「隆、よくやってくれた」と褒めて下さるに違いない。

親戚の皆様には全くご無沙汰しているが、事情か事情だ。許して戴こうと思ふ。

とまれ、武人の本懐たる目出度き門出の日だ。感傷にふけるべきではない。

心の中から予期もしなかつた勇猛心が湧き出るのを覚える。必ずや見事仕遂げてみせる。

馳参国難、之こそ現下日本の若人に与えられた光栄の任務だ。夜も遅い、明日の進出にそなえて寝につく事にする。

之でゆっくり机に向って書く日記も最後になる事だろう。

日記といえば中学校に入校した項からのが三々五々家に散らばっている筈だ。

自覚を以て書きはじめたのは、中学校三年の頃からだ。その頃のは.大抵人に見てもらっても、はずかしくないと思っているから安心だが、兵学校に入校してから約1ケ年の日記は人に見てもらいたくない。

思った侭、書き綴ってしまって、後から見て嫌気さへして、二号の頃、朱インキで但し書きみたいに書き込みしたりして、修飾してやろうと企てたか、どうも具合が悪い。

之もノートにして2、3冊ある筈だが、散逸してしまった今日では、この紙上で口止めをしておくより仕様がない。

日記は今日まで、とかく内気で、言いたい事も言えない様な、自分の心の中をつつみかくす事なく書かせてくれた。

何を書いて何を言わんとしたかは知らぬが、自分の本心がその中に含まれて残った事だけは確かだ。

各所に散らばった日記を、もしも読まれる人があったらと思って、斯くも長々しく申訳をした次第だ。

 

 140330

新竹にて   

遺書

丸山 

男命の 散る時は  香りゆかしき 若桜

今ぞ決戦 勇んで立てば   何の刃向う 敵があろう

死ぬも生きるも 国のため   士気は凛々しく 天をつく

今ぞ決戦 むすんだ口の    断の一文字 つらぬくぞ 

(なにわ会ニュース85号26頁 平成13年9月掲載)

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