TOPへ  戦没者目次

平成22年4月29日 校正すみ

亡き弟を偲ぶ

           土原 弘子(宮林 久夫の姉)

宮林久夫君の姉上から次の手紙を頂いた。

(前略)終戦の日に兄(陸士51期、戦闘機 パプアニューギニアで18年2月6日戦死)と弟久夫の遺品を出し、手紙、写真等を改めてながめ偲びました。

 昭和43年に亡くなりました父がやたらに戦死した久夫の様子を知りたがり、樋口様に無理を申していたようです。

 丁度遺骨(空っぽでしたが))が帰ってきた日に樋口様がたまたま宮林をお訪ね下さいまして葬式には立派な弔辞を頂きました。偶然にしてはあまりにも不思議なこと、久夫が樋口様を呼んだのかと思ったことでした。その時の弔辞はなにわ会ニュースにのせて頂きました。

弔辞はニュース6652参照)

 あまりに懐かしかったのでお目にかけたくお送り致します。

 「杉」に残っていた遺品の軍刀、戦闘旗もいつか参拝クラス会に持参、皆様にお目にかけたことがございます。

 来年の6月もし元気であれば上京したいと思っていますので、お知らせ下さるよう今からお願いしておきます。(後略)

 そして、手紙と一緒に次の3件が同封されていた。

 

 その1

昭和21年3月6日付樋口の手紙

(前略)私も先日上京致し東京方面の級友とも会い旧交を謝し候次第。当時久夫君ともども比島方面に作戦致し者も多々あり「杉」の行動、戦歴等も承知の者之有り候間、まとまり次第御報告申し候。

(後略)

 その2

昭和21年5月6日付樋口の手紙 

 (前略)本日もと久夫君の部下で最後まで一緒に戦った「杉」の信号員長及び操舵員長が多忙の復員業務の暇を割いてわざわざ私の所まで報告に来てくれましたので、早速今まで判明した所を御知らせします。或は既に航海長からお宅の方に御通知あったかもしれませんが重複の点はご寛容下さい。

 駆逐艦杉はご承知の如く丁型駆逐艦として横須賀でぎ装を行い、昭和19年8月27日完成、9月1日呉に回航し、萬端の準備を整えた後、海軍独特の月々火水木金々の猛訓練に従事、四国の屋島沖で、或いは水雷戦隊の夜戦に、対空戦闘に、夜を日についで頑張っておりました。

 久夫君は何でも率先躬(きゅう)行、「俺のやる通り皆ついて来い」というやりかたで、一艦の士気の根源であり、青年士官の元気の権化とも言うべき存在なりし由、当時、ようやくわが軍の形勢日々に悪く、比島方面に米軍進攻の兆しが見え、いよいよ逼迫してきたので訓練も尋常一様のものではありませんでした。

 10月初め、一応戦闘準備を完了し、皆大戦を前にしてはやる心をじっと抑えていた所、1010日出動命令が下りました。

1010 瑞鶴 千歳 伊勢 日向 利根 大淀 五十鈴等を始め駆逐艦数10隻が堂々と豊後水道より出撃、22日洋上補給の後、既に「レイテ」に上陸の敵軍を攻撃すべく、逆上陸を企図して進撃、23日未明より航空母艦の攻撃隊(艦爆、艦攻)全機、敵艦攻撃のため発進、戦闘機約50機が敵機の攻撃に備えて上空を直衛し、ここに有名な比島沖海戦の幕が切って落とされたのであります。  一方、大和 武蔵 長門 鳥海 摩耶 足柄 羽黒 愛宕 筑摩等を主力とする本隊はボルネオを出撃、パラワン海峡、スルー海を経て突入の形勢にあり、実に一大決戦を試みた訳です。

 22日夜、直衛中の味方戦闘機が着艦の際失敗、海中に転落の為、司令部よりの命で杉と桐の2艦をもって搭乗員の救助に当たり、敵潜伏在の算大なる海面で、夜間探照灯を点じ、相当の危険を冒して午後1130分頃、搭乗員2名を救助、直ちに全速力(26節)で本隊の後を追いかけましたが、すでに戦闘航行しているので、我も本隊も電波を出せず、暗中を捜索したところ、翌24日、1日探しても遂に追いつかず、そのうち、燃料不足の為遂に攻撃を断念し戦場を目の前にして、恨みをのんで高雄に引き返したのであります。訓練に訓練を重ねこの日だけを目当てに頑張った乗員一同如何に残念だったことか、特に通信士は地団太踏んで悔しがったそうです。そして呉に帰投、修理補給の上、1110日佐世保より再び比島の戦場に駆けつけ、馬公方面、新南群島、マニラ、オルモック方面の輸送に従事中のところ、12月初め最も重要任務たるレイテ、タクロバンの輸送作戦を命ぜられる。当時、未だレイテの戦闘は彼我何れも予測を許さざる状況にあり、この作戦の成否が勝敗の決ともなる重要任務だったのであります。

 輸送船4隻に護衛艦として梅、桃、杉、海3758の5隻がつき、1912月5日マニラ出撃、第8次タクロバン輸送に出発しました。 翌6日中、味方戦闘機は常に上空にあり直衛していましたが、7日は味方機の姿を見ず、朝飯前より爆撃あり、0800頃、敵機の攻撃が激しくなった為、タクロバンの大分手前で輸送船をのし上げ強行上陸を実施する。その頃「味方戦闘機と空戦している」と見張りの報告あり。一時砲撃をやめた瞬間、敵機グラマン戦闘機数10機の爆撃を受ける。初め数回、梅、桃の攻撃を行った後、全機杉に攻撃を集中するに至る。杉はこの度が初戦だったので士気高揚の為、大きな戦闘旗を前部マストに揚げていたので目標となったと見えます。

 30数機で5機づつ一団となって爆撃、続いて機銃掃射を行ったのですが、第1回目の攻撃で丁度旗甲板で見張りをしていた軍医長と艦橋通信器当番の2名を倒し逃げ去りました。機銃掃射の為、艦橋は蜂の巣の様になり、皆羅針儀、防弾板等を盾にして戦っていたのですが、操舵員だけは舵を取らねばならないので大きな姿勢で舵輪を取っていたところ、後ろから通信士が「操舵員 危ないから姿勢を少し低くしろ」と言って、彼の肩を押さえた時、第2回目の攻撃を受け、海図台を貫いてきた一弾が通信士の右肩を粉砕、通信士は「しまった」と言いながら左手で海図台につかまり、其のまま戦闘指揮に従事しており、傍らにいる者は通信士の負傷にも気づかぬ程でした。

 続いて3回目の攻撃でガツチリと艦橋の真中に立っていた久夫君は左大腿部と胸を打ち抜かれましたが、この攻撃で舵が壊されたので直ちに応急操舵に切り替えを命令し、艦橋で戦死或いは負傷した信号員等の整理を監督していましたが、出血が甚だしく軍医長も戦死しているので手当ての施しようもなく、其のまま艦橋にあり、遂にその場に打ち倒れました。

 その時は、既に艦橋にあった者はほとんど戦死し、残ったのは艦長、航海長、信号長、操舵長等数名を数えるのみでしたが、通信士は倒れながらも士気旺盛、遂に舵の直ったのを見て自分で立って士官室に下りていきました。その時、敵の最後の掃射があり、また、士官室で1發背中より胸を貫かれたのであります。

 1030 遂に敵を撃退、「マニラ」への帰途、通信士のおかげで助かったとも言うべき操舵長が士官室に行き、「通信士どうですか」と尋ねると「ナニ大丈夫だよ。チョッと傷を見てくれ」と答えて寝返りを打ったのですが全身に7.8発の弾を受けており、笑っている通信士を見た時、皆その戦闘精神に驚嘆したそうです。

 帰途、再びB24、5機の爆撃を受けたがこの時は被害なし。その前後、即ち1130頃より通信士の容態が悪化、「ナニ 大丈夫だ 大丈夫だ」と言いながら最後まで「俺が自分であの大きな戦闘旗を揚げたのだから、その下で死ぬのは本望だ」と言いつつ午後1時頃従容として壮烈な戦死を遂げられた。

 この状況を見た部下、中には歴戦の勇士も沢山いたのですが、今までかかる立派な最期を見たことがないと今更ながら同君の生前をしのび涙なきを得なかった由。私もこれを伺い、宮林は宮林らしい男だった、期の一員として鼻も高い次第です。

 以上拙文悪筆ながら久夫君戦死前後の有様を申し述べ、同君お偲びのよすがとなれば幸甚と存じます。

 通信士には部下一同心より懐き、戦死後も通信士の指導精神を体し、現在元気に上海方面の復員輸送に従事しております。

 種々同君の生前の勤務振りを聞き、髣髴(ほうふつ)として面目躍如たるものあり、手紙では甚だ要を得ませんので何れご面接の機に譲りこれで擱(かく)筆致します。(後略)

 

その3

駆逐艦「杉」電信長前川岩夫氏の葉書

先日は佐世保で始めてお目にかかり大変失礼しました。我々「杉」生き残り組の戦友会の念願でありました亡き戦友の慰霊碑が各方面のご協力により除幕式の運びとなり、ご遺族とともに小雨降る旧海軍墓地に相集い得ましたことは万感胸に迫るものがあります。

 南方海域に散華した亡き戦友もこれで安らかに眠ってくれることと思います。先日もお話申しあげましたが、ご令弟の戦死された時の様子が、あの時以来30有余年間、私の胸にあり、いつか折りがあればと念じていました。幸いにも今回姉上様にお会い出来て、その時の様子をお伝え出来ましたことを大変嬉しく思います。

 しかしながら私の手をしっかり握り締め「電信長後を頼んだぞ」と言われ、間もなく「天皇陛下万歳」とつぶやくように、しかも、はっきりと言われた一言が今でも耳に残っています。私も60歳を過ぎました。残された人生の間絶対に忘れることはないでしょう。(後略)

 

その4

写真4枚

1 三号時代の40分隊総員の写真

   2 三号夏休みの家族全員の写真    

       3 宮林 久夫の写

       4 杉の軍艦旗の写真 

 その後、次のお手紙を頂いた。

  (要旨のみ)

 43年に父母が亡くなりました後、私は毎年参拝クラス会に出席しておりましたが、10年前に主人がくも膜下出血の大手術を致しましてからは上京しにくくなり、その後は2度出席致しました。今年2月主人が心不全で急逝致し、寂しくなりましたが、身軽になり、来年6月にはもう一度是非靖国昇殿参拝をしたいと思っています。何とかそれまで頑張っていきたいと願っております。 

 昨夜遅くまで写真の整理をしていましたら「なにわ会」の懐かしい写真があり、コピーしてもらいましたのでお送りいたします。

 

 そして、次の5枚の写真が同封されていた。

1 88年 矢田、門松が宮林宅を訪問した時の写真 

   (ニュース5924頁掲載済)

  2 89年参拝クラス会時

    靖国神社にて矢田、押本と土原弘子さんの写真、

     3 90年旭が訪問した時の写真

4 89年なにわ会北陸旅行の際の金沢兼六園での写真

5 94年参拝クラス会時の靖国神社で樋口、泉と土原弘子さんの写真
       (写真は掲載省略)

(なにわ会ニュース86号76頁 平成14年3月掲載)

 TOPへ 戦没者目次