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平成22年4月29日 校正すみ

森山父君あての手紙

 村島 保二

謹啓 春暖漸く訪れ申す頃と相成候 其後も益々御清栄の御事と拝察仕り候

降て小生儀初めての者にて誠に失礼に候ども御令息森山修一郎兄と兵学校時代並に洲ノ埼時代同期なりし者に候 

本日東京の白根兄よりの報によれば森山兄には昨年4月10日 比島クラーク山中にて戦病死との御事 君国の為激戦に次ぐ激戦の戦場を疾駆せられ遂に壮烈なる御最期の事同期生として誠に羨むべき武勲に候も 御両親様初め御一同様の御心中察するだに余りある感に候 小生の如き遂に武運拙く敗戦の今日迄生き長らへ残骸さらす身と相成り候者の強く恥じ入り、お詫び申す次第に御座候

森山兄には昭和19年9月7日 兵器学生を首席にて卒業され勇躍比島の第一線二〇一空分隊長として進出せられ、ダパオ、マニラ、ニコラス、クラークにおいて72期中最大の奮戦を致され候 小生残念乍ら洲ノ埼空の教官にて残存致し兄等の最前線にて奮戦中も遺憾乍ら内地勤務に従事致し居り候 比島方面より71期清水大尉、森山兄後任に参りし為横空に還られ候時、森山兄の御奮闘承り候 兄にはダパオかニコラスかにて第1回の爆撃にて片耳失はれし由、その中にも特攻隊の爆装に、戦闘機隊の射装に、獅子奮迅され居りしとか聞き申し候 次いで台湾より71期中野大尉還られ、森山兄は比島方面兵器分隊長の華だと申し居られ武勲赫々で名声をはせていると申され居り候 71期鹿村大尉、森山兄と共にクラーク、ニコラス基地にありしも12月洲ノ空教官として帰隊後のお話に「連日夜を徹しての戦闘機特攻爆装に森山兄は広きクラークの基地を塵芥と汗にまみれて真黒になって走っている。戦闘機は実に多忙で終らぬときは自分も援助に行った程だ。一日森山兄と2人でマニラに出掛けた。彼地は物価騰貴で煙草7、80円だ 2人で15円しか持っていなかったので先ず5円のアイスクリームを食べ 次に2人で5円の最下等の映画に行った等申され居り候

遅れ馳せ乍ら小生も遂に去年2月2日 二〇三空分隊長の辞令に接し勇躍南九州鹿屋の北笠ノ原に参るを得、戦闘機隊の兵器整備に従事致すを得申し候も 3月18日以降の沖縄の戦闘遂に利あらず、7月初福岡城築基地に移動致し最後の決戦発動待ち申し候も8月15日終戦の詔拝する始末と相成り申し候

分隊士に谷口と申す人あり 比島方面にて司令部附として各地参り候も森山兄にも会い候由にて候

その頃も兄は断然抜群の奮戦振にてクラークの基地にて部下と共に飛行機内にて空襲下炎天下整備に精進され居りしとの事に候 兄には兵器参謀矢口少佐に泣いて特攻隊を出願されしとの事に候 参謀も「森山貴様が居なければ此処は成立たぬ どうか此処で頑張って呉れ」と特攻隊志願を断られ候由にて候 

レイテ、サンホセ、リンガエンと上陸し来り比島危機に迫りし時 部隊の撤収時 参謀は比島方面の優秀なる兵器分隊長森山、佐藤宏、今田、菊池、山崎、松山大尉等の諸兄を台湾に帰さんとされ候も皆「部下を置き去りにして帰る事は出来ぬ」 「我に転進の意図なし」の悲壮なる返事を以てクラーク、マバラカット附近の山中に陸戦隊として入られ最後迄奮戦致され候 壮烈鬼神も泣かしむるこの義挙、その後は連日の空爆砲撃と炎熱と飢餓と疫病と戦いつつ護国の一線を確保せんと努められ候

 誠に涙無くては聞けぬ事のみに候

小生等一刻も早く兄等の帰還に接したしと思い居り候も今日の白根兄よりの手紙を見てもう何も言ふ事なき感に候 まこと幽明境を異にするの気にて一杯に候 森山兄には兵学校3号時代同部、洲ノ埼時代は兄小生等の最先任者として常によく吾等を纏め1回として怒れる事なく明断なる頭脳 其以上の偉大なる人格を以て我等をリード致され候 卒業前 横須賀にて来るべき日には必ず特攻隊となり戦わんと約し誓い申し候

 兄其れを真直に実行され護国の鬼と化し給い候 小生武運拙く生き長らへ慙愧に堪へず申す言葉も無之候

終戦後 洲ノ埼を訪れ館山にて同期生と遇い、比島に進出時森山兄に会し由申し候 クラークに到着時森山兄が「俺の処でうなぎ〃を釣ったから一緒に食はないか」と申し一緒に食したと申し居り候。 基地にては殆ど食事とても無之毎日芋のみ食して戦闘整備に従事せしとの事、その中にも厚き友情を感じ申候(後略)     

頓首再拝

昭和21年4月21

村島保二拝

森山福次郎様

同 御母堂様

(なにわ会ニュース45号12頁 昭和56年9月掲載)

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