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平成22年4月29日 校正すみ

噫! 村田 義則

岡本 俊章
山田  穣

往時茫々、はや四十年の歳月が過ぎた。

それても、画然と記憶に残るもの、その一に、昭和十六年十二月八日、あの大東亜戦開戦の日の感激がある。

 千代田艦橋前で、緒戦の訓示を、古鷹山頂にかかる瑞雲を見あげながら聞いた四十二分隊の二号十二名の中での生存者は、名村、山田、岡本、岩本となった。

 この分隊の二号は、本当に、良く遊び、良く学んだ。一号への分隊替えのとき、先任の村田は二十七分隊の伍長へ、次席の名村は二十九分隊の伍長へと進級し、それに続く者も、それぞれの分隊に、希望をもって編制替えとなった。

その中で、村田、岡本そして山田の三名は全くの偶然にも、同じ二十七分隊へ移った。

今日、この分隊の生存者一号は、守家、田中、山田、岡本の四名である。やはり、過半数が戦の庭に散った。

人生の奇縁は、ふしぎなものだ。一号の中で、さらに村田と岡本は戦闘機へと進んだ。そして、戦終わって今日、岡本は残り、村田は戦死してしまった。

食うにせわしい時代が終わり、多少の余裕ができてきたからだ、と解釈願おう。二号、一号そして戦闘機と同じ道を歩んだ岡本の呼びかけで、村田のおふくろさんを囲んでの分隊会をやろう、ということになった。

残暑のまだ厳しい初秋の日、それは、昭和五十六年九月十二、十三日のことだった。

岡本俊章におんぶにだっこで、国鉄の切符からホテルのレザーブまで、われわれはただ腰をあげただけの長野までの墓参の分隊会の旅行である。

参加したのは、一号二号を通じて一緒であった岡本と山田、二号同分隊の名村、一号同分隊の田中に、一号時代の三号生徒である七十四期の立川孝幸兄の五名である。

 二号時代の岩本は仕事多忙により、一号時代の守家は、遠く欠席となったが、守家は村田の遺品を母堂あてにお送りして、村田のおふくろさんは大変な喜びようであったことを付記しておく。

噫、村田善則。貴様との二年の江田島のつき合いは、今日、茫々のかなたになお鮮明である。わが人生六十年を通じて、これほど、人格高潔品性豊かな好男子をしらない。しかも、武人として、何人にも負けない勇猛心と胆力を備えた、典型的なネービーサムライであった。

 加えて、智力また抜群にして、適当にクラブで毎日曜遊ぶ余裕をもって、しかも、その卒業成績は十八番という。ちなみに、一号だけの成績は恩賜相当という。わがクラス戦闘機のクラスヘッドである。

 この惜しみても余りある智仁勇兼備の英才を、神は、何故か召されてしまった。残るはわれら愚人のみ。

 さて、善光寺の般若門から下がること五分、本派本願寺別院というお寺がある。ちょぅど、村田の実家の真裏である。尊父が、山麓の遠い墓地から村田のお墓だけを別に、ここに建立したのだという。

大臣、元師クラスの立派な大きな墓石である。われわれの仲間で、これだけ立派な墓に葬られている人は少ないであろう。長野市会議員であったご尊父が建立されたという

 その前面に、「故海軍大尉正七位勲五等功四級村田善則の碑」とある。
 そして、その側面に、
 「昭忠臨大善則乗居士」

 そして、裏面のエビターフに臼く。

 「昭和十八年九月十五日  海軍兵学校卒業 大東亜戦争に参加
  昭和二十年二月十六日  本
州東方海上空中戦に於いて戦死 恩賞を賜う
  行
年二十二歳      昭和三十年九月二十一日 父英雄建之」


 村田ほ、二号時代から戦闘機乗りを希望して
いた。また、戦闘機乗りピタリの言動性格であったといえる。戦闘機乗りの常として、おそらく、その最期は誰にもわからないだろう。しかし、当時の盟友われわれは.信じる。それは、きっと立派な最期であったろうことを。あるいは思う。きっと、B29の1機をも撃墜したであろうと

 当日、この分隊会に参加したわれわれはもっと早く来ればよかったな。」「来たかったな。」という合言葉を残して、村のおふくろさんのご長寿を祈りつつ信仰のまち長野市をあとにした。

憶、超人村田善則。三十六年をへたわれらの遅過ぎた墓前での合掌を許し給え。

(なにわ会ニュース46号10頁 昭和57年3月掲載)

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