TOPへ    戦没目次

平成22年4月24日 校正すみ

小沢易一の思い出

        加藤 孝二

小澤 容一 巡洋艦 熊野

昭和10年春、横浜一中二年四組の教室に入学試験口頭試問の順番を待って、優等生面した少年達が座っていた。とは言え筆記試験を前日に終ってホッとした子供のこと、何となく腕相撲が見知らぬ間で始まった。小生でも都会児の中では強い方だったが、とてつもなく強い奴がいて、てもなくやられ誰もかなわなかった。 小沢易一である。

 釜利谷村の出身で、その都会離れした村夫子然たる処があり、忽ち誰言うとなく村長と別名をつけられた。入学試験中に渾名のつくのは異例である。

一中からは、樋口 直、粟屋、水野行夫、浅沼、武田晴朗、小沢と小生の7人が72期だが浪人組は小沢と小生である。大体四年から受験資格があるのに三年目で合格と言いうのだから浪人組は何かおっとりしているか遅動装置がかかっている%が多い。今から反省しても遅すぎることだが、誠に稚気旺盛、生意気盛り、学校は楽しくて楽しくて勉強の方は及落会議に出ぬ程度にした代りに、教室でいたずらしては度々職員室へ呼ばれた。真面目にやったのはヒットラーユーゲント礼賛型の校長反対運動ぐらいなものである。余談ながら小生の海軍志望はアンチ校長が大きく原因している。職員室で万年特務曹長の教官に「お前なんか兵学校に行かれんゾ」とサーベルをガチャガチャさせて怒鳴られ、震え上りながらも「イヤ行かれると思います」と返答したらニヤッと笑って「あまり世話をかけるな」・・・個性のあるいい先生方が多い学校だった。

小沢は小生と違ってノンビリと釜利谷の山野を犬と飛びはねていたようだ。横須賀の工機学校での筆記試験の発表を待つ間、2人で記念艦三笠の沖をボート遊びし泳いだりしたが四日目ぐらいの時か、ソバ屋で上陸中の水兵さんが受験生を馬鹿にしたことをつぶやいているのをきき、彼奴を撲るんだと言い出し、なだめるのに苦労したことがある。

 入校して最初の棒倒しの時、下の台で彼とスクラムを組んだ。腕相撲の時から五年目のたくましい彼の腕であった。戦闘開始のラッパの直後、突然彼は「加藤頑張れ」と叫んだ。とたんに肩の上の一号から「静かにしろ」と怒鳴られた。

 一号の時、五分隊が宮島遠漕で優勝し表彰された時、短艇係の彼は感激の余り、左足と左手を同時に同方向に発動し、見事な歩き振りを披露したことは諸兄も覚えているのだろう。文字通りその喜びは手の舞う所、足の踏む所を知らない程であったのだ。その直後小生の分隊へやって来て「俺は駄目だなあ。分隊の名誉を失墜したよ」と深刻な顔をしてしょげていた。「分隊競技の花形の遠漕で優勝すること自体が立派なことだ。表彰式なんておそえものさ」といっても「いや分隊員に申し訳ない。お粗末を披露しクラスにも恥をかかせた」と、とりつくしまのない程であった。

 夏休暇に二人して麻の緋をきて銭湯へ行ったり伊勢佐木町の夜店をぶらつき大道易者をひやかした。(彼は手相とか運命とかに興味があった。)「貴男は南方に行きます」と言われウンウンと我が意を得たり迄はよかったが、「花柳病にかかります」と言われ、神聖なる生徒さんは怒るかと思いきや、彼特有の眼を細くして小生を見てニヤッと笑ったものである。当るも八卦、当らぬも八封.50%は当り、比島で熊野の甲板士官として戦死した。

彼の生家には二人の姉上が居られ、また二つのお寺があった。それぞれ結婚され、釜利谷の東光寺は長姉、杉田の東漸寺には次姉が居られ彼の墓は東光寺にある。男子一人の彼には生徒時代マリッヂの話もあったらしい。 「加藤どうしたものか」と言われたことあったが、男4人兄弟の小生は「俺分らんよ」と、遠漕表彰式の時とはうって変ってつれない返事をした。

十九年十一月十八日拝謁の後、東瀬寺(内に済田正文の墓がある。)で母堂手作り夕食をいただいた。余りの見事さに「全部貴様のお母さんが作られたのか」と念を押したら、「寺の女房の料理は旨いものだが、特にうちのお袋のはうまいんだ」と例の眼を細めて嬉しそうに自慢した。小沢の自慢話を聞いたのは後にも先にもこれだけである。

 我々生存者は誰でも時折「彼奴が生きていたら」と言う幻想にとりつかれることがある。小沢と一号時代同分隊の後藤俊夫と月一度はゴルフをするが、時折ラウンド中貴様が出る。小沢も俺も不器用だから二人白頭鬼(命名者富士)の後藤にチョコレートをうんととられることだろうと思ったりする。

 スマートならず、目先まあまあ地味、几帳面、負けじ魂、人情家、易一のことを想う時、腕相撲の時の手のひらと、棒倒しのときスクラムを組んだ腕の温みを肌に感じる。

(なにわ会ニュース37号7頁 昭和52年9月掲載)

TOPへ    戦没目次