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平成22年4月27日 校正すみ

平成元年3月寄稿


園田 勇君を偲ぶ

多胡 光雄

 古いアルバムから園田君の姿を探し出し、感無量の思いでじっと見つめている。44年前の姿ではあるが、自分で撮影した写真なので徐々にその当時のことが思い出されて来る。

 彼と一緒に居たのは、昭和19年3月から7月までの5ケ月間、百里ケ原海軍航空隊における第四十一期飛行学生実用機教程(艦上爆撃機操縦術専修)の時である。昭和18年9月15日、兵学校または機関学校を卒業して直ちに霞ケ浦海軍航空隊に入隊し、練習機(通称赤とんぼ)で5カ月間訓練した後の実用機訓練を受けていたのである。学校卒業と同時に少尉候補生を拝命し、半年後の3月15日には海軍少尉に任官して、ようやく外泊が出来るようになった頃である。年齢は20歳になったばかりであるが、一人前の海軍将校気取りで町を闊歩したものである。

 同じ教程の仲間は36名で、その中に園田君を含む3名の機関学校出身者が居たのである。彼等は本来の専攻科目である機関科を離れ、兵科の我々と一緒になったことで、人知れぬ苦労をしたことと思われる。

 それまでは、同じ将校でありながら軍隊の指揮は兵科将校がとることになっていて、機関科将校は階級が上位でも指揮をとることは出来なかった。それが、この頃から機関科の呼び方を無くし、同じ将校として勤務することになった。その結果として彼等も飛行学生となり、兵学校出身者と同じ訓練を受けることになったものと思う。この場合、出身校の違いが訓練の成果にどのように現れるか、当然各方面から注目されていたものと思われる。

 訓練を担当した教官は、みんな兵学校出身者である。いろいろの訓練を行う時の前提としては、当然のこととして兵学校の教育がその基礎となるわけで、機関学校出身者にはかなりの『ハンディ』があった筈である。

 このような場合、とかく『旨くいって当たり前、まずいことがあるとすぐさま出身の違いが云々されるしものである。従って園田君達はそれを克服すべく必死で努力したわけで、誠に尊敬おく能わざるものがあったのである。

 具体的なことで記憶していることに、『定着訓練』の時の彼の行動を今でもまざまざと思い出すのである。『定着訓練』とは、狭い甲板の航空母艦に着艦するため、また夜間の着陸のために行うもので、艦上爆撃機の操縦員としては是非マスターしなければならない着陸法である。

 『定着訓練』を行うためにはそれなりの設備を必要とした。しかも、それは滑走路のかなり離れた所まで器材を運んで行かなければならないのであるが、彼は常に率先して設備の整備にあたっていて、他の者が感激していたのである。

 彼の行動は、常に兵学校出身者に負けるものかとの意気込みが感じられ、敢えて自分達の方がよくやっているぞと、アピールしようとしているようにもみえ、その努力には心から敬服させられたのである。

 彼の最後もまた、誰にも負けない立派なものである。昭和20年1月6日、神風特別攻撃隊第二十三金剛隊隊長として、フィリッピン島イバ沖の敵機動部隊に壮烈な人間爆弾攻撃を敢行したのである。兵学校出身者にまさるとも劣らぬ活躍を成し遂げた彼に改めて深く敬意を表し、護国の鬼となって昇天した彼の遺徳を偲び、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

(なにわ会ニュース60号21頁)

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