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平成22年4月27日 校正すみ

勝賀野純義生徒

三澤  禎

  四号当時の十三分隊と一号当時の九分隊の二度同分隊で縁があり、彼の面影はありありと思い浮かぶものの、追想を纏めるとなると五十年の歳月のため万事朧(おぼろ)で、これと云うエピソードが思い浮かばない。十三分隊当時の生存者は小生と森山だけで、 中村(五十四期)、松山、岡本、勝賀野、成瀬と八名中六名が戦死した。九分隊では飯田、飯盛、金枝、大森、小生と、六名中勝賀野一名だけが戦死しており、何か済まない気がする。卒業後は、彼は水上艦艇、小生は飛行整備と離ればなれとなった。

 生徒時代の勝賀野はどちらかと云えば、寡黙で控えめなたち、物に動ぜず落ち着いていた様に思う。池沢と二人高知出身で池沢は四号当時隣の十五分隊、矢張り寡黙で其面白、地味であり、何か二人とも類似点があった様に思う。高知では、ぢとじは発音を使い分けるんだと発音して見せたが、良く理解出来なかった。四号当時、教員から「かつがの生徒」としばしば呼ばれていた。四号時代は地獄であって、起床から就寝まで、一号生徒からあら探しをされて制裁を受け、ともすれば自分を見失ってあたふたした時代であり、当時の滑稽な、或いはみじめな姿が断片的に思い浮かぶが、小生と違い彼の取り乱した姿は全く思い浮かばない。先輩から予備知識を得て入校して来た者もいた様であるが、彼の場合、小生と違ってへまが少なく落ち着いていたのではなかったかと思う。生徒館の天下を取った一号時代も彼は控え目で、おとなしく落ち着いていた様に思う。只一度、彼からクレムを云われなじられたことがあったが、何であったか記憶にない。又、彼が二度、目元に恥かしそうな色を浮かべたことがあったが、何であったか記憶にない。彼が戦死したのは罐の指揮所で、敵弾が煙突底部で炸裂し、彼は非常警報ボタンを押し、その姿勢で戦死していたと開いた。十三分隊当時の一号の桑原氏も、同じ様な戦死をされた様に思う。

(機関誌46頁)

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