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台湾沖航空戦――小山 力君を偲んで

当時第141海軍兢空隊偵察第3飛行隊分隊長

海軍大尉・森田 禎介

あこがれの航空機搭乗員に

 昭和19年8月、百里原海軍航空隊(茨城県)の教官として、42期飛行学生の訓練を担当していた私に、待望の第一線部隊への転勤命令がきた。

『一四一海軍航空隊偵察第三飛行隊分隊長を命ずる』

 という辞令であった。

 私はかって重巡羽黒や戦艦陸奥に乗り組み、通信士という配置で、スラバヤ沖やサンゴ海の海戦、あるいはミッドウェーやソロモンに出撃したことはあったが、航空機搭乗員としては初めての実戦部隊への配属であり、いうなれば初陣であった。

 当時戦局はすでに大きく傾き、前線へ出て行くことはおおむね死につながっていたが、われわれ青年士官の士気は高く、必勝の信念に燃えていた。

 私は身のまわりのものを整理した。私には慰問袋の縁で1年程前から文通を重ねてきた神戸の女性がいた。大切に持っていた彼女からの幾通かの手紙も、彼女の幸せを祈りつつ燃やした。

そして彼女に決別の便りを記しながら、ふたたび故国の土を踏むことがあるであろうかという思いが去来した(しかし実際には生き伸びて30年後に奇しくも再会することになるのだが・・・)

 私が受けもっていた海兵73期生である偵察学生の精鋭70余名の諸君が、学生舎で送別の宴をはり激励して呉れたのが嬉しかった。私は彼らと別れを惜しみつつも勇躍して百里をあとにした。

 一四一空の所在は外地でなく、三重県の鈴鹿であった。着任して垣田司令、中村副長、武田飛行隊長らの幹部に挨拶をする。偵察隊第三飛行隊(以下偵三と記す)の分隊長であった私と同期生の中鳥大尉が八月十一日に事故で殉職したため、急きょ後任として私が発令されたことがわかった。

 副長の中村さんは、その後一四一空司令となり、フィリピンの陸上戦闘で戦死されたが、私とは同郷であり、戦地でもしばしば話をしながら、故郷・筑後柳川の地を懐かしく偲んだものである。

 一四一空は第二航空艦隊に所属しており、19年の4月に編成されたばかりで、まだ搭乗員の錬成の段階であった。すなわち彗星の前身である一三試艦爆を偵察機に改造した二式艦偵が逐次供給されるのにあわせて、まず離着陸訓練から始め、だんだんと習熟していく過程であった。

 搭乗員の頭数は揃っていたが、歴戦のベテランはもはや数少なく、大半は練習航空隊を巣立ったばかりの若者であった。

 そのなかに兵学校や百里で起居をともにした、71期や72期の諸君が10数名いたのが心強かった。71期生では八島、岩石、加来の3君、72期生では川端、加藤、水野、広瀬、小山、金原、土屋、鈴木、江口の9君である。

 このなかでわずかに加藤君と鈴木君の2君を残して、他の諸君はことごとくあの激しい戦いのなかで1年の間に未帰還となってしまったのだが、その時は前途にそのような運命が待っていることを知るよしもなかった。

 その当時、搭乗員の技量は、A・B・C・Dの四段階で評価されており、A・Bにランクされたものは実戦に参加可能の実力あり、Aクラスは特に技量優秀で夜間攻撃も出来るベテランとされていた。

 しかし、うちつづく空の消耗戦で、真珠湾以来の歴戦の搭乗員は次々に散華し、A・Bクラスの乗員は極端に不足し戦力は低下していった。したがって、練習航空隊を巣立ってまもないCランクの若者を急速に錬成してBクラスの技量までに育てあげることが刻下の急務であった。

 つぎに機材の面では、二式艦偵の供給がおくれ、保有機数は定数を下まわっており、また、やっと到着した新鋭機も燃料系統や電気系統に故障が多く、整備員は全員真っ黒になって朝から夜中まで修理に没頭していたが、武田隊長が空中火災で火傷するなど事故も多発し、実働機は更に少ない状態であった。

 

出撃前の都城航空隊での思い出

 鈴鹿での生活は短く、二航艦の南九州展開にあわせて一四一空も九州に進出が決まり、われわれは鹿児島・鹿屋をへて宮崎県都城飛行場に移動した。

 19年9月、初秋の都城の想い出が一番なつかしい。

 我々は飛行場から1キロばかり離れた沖水小学枚の教室を半分借りうけて応急の宿舎とし、広大な原っぱの俄かつくりの飛行場で飛行訓練を開始した。

 飛行場には連日、地元の人々がやってきて激励してくれた。今生の思い出に飛行機に触らせてくれといぅおばあさんもいた。毎日のように飛行場にきていた小学生の元明君と直ぐなかよくなった。ある晩、元明君の家庭に招かれて、当時としてはすでに貴重品となっていたニワトリのスキヤキや焼酎のごちそうになったことがある。

宿舎である小学校では、裁縫室に寝泊りし、宿直室の五衛門風呂に入れてもらった.先生方も用務員さんも親切だったし、村の人びとは本当に心から我々を可愛がって下さった。

 この愛すべき人びとのためにも、なんとしてもわれわれは日本の国土をまもらねばならぬ、戦いに負けてなるものかと心に誓った。

 学徒出陣組の第一陣である元気な青年士官たちが着任したのもこの頃だった。日体大の剣道の達人である下津 迫君もいた。すぐ近くの鹿児島の田舎からご両親や妹さんがボタモチをつくってよく慰問にこられた.また同文書院のラグビー部主将だった中村君は上海時代からの婚約者と都城で挙式し、私も参列した。

 兵学絞出身も学徒出陣組も予科練出身の紅顔の若者も、先輩ベテランの飛曹長クラスの指導のもと、なかよく熱心に飛行作業に励んだ。士気は旺盛であった。

 一日の訓練を終わり宿舎に帰る田舎道、われわれは胸を張り、夕陽にむかって軍歌を歌った。空も地もまだ平和であった。

やがて戦局の急迫にともない、偵三は艦偵8機をもって沖縄進出を命ぜられ、武田隊長はベテラン搭乗員を引き連れ沖縄の小禄に向かった。

 私以下の残留組は相変わらず訓練の明け暮れであった。人員のわりに機材と燃料が不足しており、実戦なみの訓練が出来ないのが残念であったが、練度は次第に向上していった。

 実戦で使用する二式艦偵は二人乗りであり、操縦員(前席)と偵察員(後衛)とのペアをどのように決めるかが一つの問題であった.一般的には技量水準の.バランスを重視して、Aクラスのペア、Bクラスのペアと決められていたように思う。操縦の隊長の後席にはベテラン飛曹長、偵察分隊長の前席には先任の上飛曹というような組み合わせが普通であった。もちろん気のあった者同士でペアを組みたいという希望もあったようだ。

 武田隊長は伊藤飛曹長とペアを組んでいた。私の場合は、結局、操縦小山中尉、偵察森田大尉という組み合わせになり、台湾沖やフィリピンの戦いでこのあと苦楽をともにすることになるのだが、このような士官どうしのペアは珍しかったのではないかと思っている。

 

      

森田禎介  小山 力

 小山は機関学校出身で艦爆のパイロットになった男で、温厚にして明朗、ハートナイスな好青年であった。

川端、金原、小山3君が彗星ではじめて単独飛行のときは、親分肌で豪快な石井軍医長に「オレが指揮所でおん自ら見張っとるから安心してやれよ。毛布まで用意しているからな」(事故の遺体は毛布につつむのが例)といわれ、「ハッ、では…」と満面笑みをたたえ敬礼をして出発、ドンピシヤリの着地をしたというエピソードもある。

 私は小山とは初対面から一番気が合った。私はベテランのパイロットとペアを組むよりも、小山とペアを組んで頑張ろう、そして死ぬときは小山と一緒に死のうという気持の方が強かった。

 次に、各ペアの使用機の選定であるが、当時空冷エンジンと水冷エンジンと2種類の彗星があった。人気は最新鋭で高速の彗星五一型(水冷)の方が高かったが、小山は空冷のうちの一機を選んだ。

 空冷の方がスピードは20ノットくらい劣っていたが、エンジントラブルが少なく安定していたように思う。

 この後、われわれにはこの飛行機をわが愛機として、幾度かの長距離索敵飛行に出たのだが、エンジンは常に快調であった。彼のエンジニアとしての冷静な判断と選択は正しかったと私は確信している。

 

初陣、愛機もすこぶる快調

 昭和191010日、わが運命の日、私はこの一日を一生決して忘れない。

 その日、沖縄が突如として敵艦載機の攻撃を受けた。アメリカ機動部隊の初の来襲である。

 偵三にも「艦偵一機、索敵準備待機」の指令がきた。偵三として初めての実戦であり、待ちに待った晴れの舞台である。

 初陣にはどのペアを出すべきか。″難事には指揮官が率先あたるべし″という海軍航空隊伝統の指揮官先頭単縦陣の考えが頭をよぎった。″よし、小山、オレたちが行こうや″とすんなり決めた。小山ももちろん異存はない。そして私は、この日のために大切にしまっていた純白の絹地のマフラーを取り出した。

 このマフラーには鹿児島出身の大先輩有馬寛海軍中将が、私のために誠心をこめて書いていただいた『般若心経』が記されていた。このマフラーを飛行服の首に丁寧に巻いているうちに、私は身も心も引きしまってきた。

(戦後、私はこの汗と脂(あぶら)にまみれたマフラーを表装して掛け軸とし、今はわが家の宝となっている。)

 午前中に都城から司令部のある鹿屋基地に移動、慌ただしく燃料補給や出発準備をする。

 午後になって索敵命令を受ける。敵機動部隊が行勤していると予想される沖縄東方海面の索敵である。具体的には「Q37番索敵線(宮崎県都井岬を起点として、185度方向)進出距離500海里、鹿屋基地帰投」の指令であった。

 なお、情況としては、沖縄各地が今朝から敵艦載機の波状攻撃を受けている。従って、敵機動部隊数群の存在は確実であること。本日の一式陸攻による早期哨戒、引き続いて行われた銀河数機による索敵でも敵の所在・兵力は依然として不明であること。従って、艦偵2機を追加投入して、もっと沖縄本島よりのコースを索敵するということが分った。

 こうして我々は、午後一時過ぎに鹿屋基地を発進し、高度をあげつつ都井岬上空を通過、一路南にむかい185度の索敵線にのった。

 天候は晴、雲量3ないし4、雲高2000、高度をとって燃料コックをメーンタンクから増槽タンクに切りかえる。エンジンは快調でまったく異常はみられない。

当時索敵飛行の高度については、500メートルくらいで雲の下を飛行することが望ましいとされていたように記憶しているが、敵のレーダーとグラマンに対処するには、もっと超低空の飛行をすべきだとするベテランの強い意見もあった。

 私と小山はまず飛行高度を2000メートルとした。愛機とはいえこの飛行機での長時間飛行は始めてである。その上、今日は敵の存在は確実であり、会敵の公算は大である。何よりも敵発見が第一だ。その為には見張りだ。幸いに天侯も視界もよい。まず断雲の下を高度2000で飛ぼう、そして沖縄に近づいたら高度を下げようという判断だった。

 九州南端の佐多岬に別れをつげ、種子島を右翼の下にみて、一路南下する。今日は南西諸島にそってのコースのため、航法の必要性は少ない。一にも見張り、二にも見張りと全精力を集中する。

 離陸して既に1時間半が経過したが、異状はない。しかし敵は間近いと判断して、増槽を切り離して身軽になる。懸命に水平線をみはるが何も見えない。

 

「我敵機動部隊を発見せり」

 離陸して約2時間たった午後3時20分、「アッ、敵だ」と、私と小山は同時に叫んだ。水平線どころか、水平線よりうんと近い右前下方に敵機動部隊がはっきりとみえるではないか。大型空母2隻を中心とした堂々たる輪型陣が、白い航跡′をひきながら右から左へ走っている。

 十数隻の艦がすべて一望のもとにはっきり見えた。それは視界一杯に広がった壮大なパノラマであった。その強烈な印象は40年後の今も目に焼きついて離れない。

 その瞬間であった。轟音とともに機体がはげしく振動した。同時に眼のまわりが茶褐色になり、硝煙の臭いが立ちこめた。一瞬、″やられたか″という思いが頭をよぎった。

 わが愛機は猛烈なスピードで急降下をしている。真っ黒い海面がぐんぐん近くなる。小山がなにか叫んでいる。私も夢中でなにか叫んだようだ。しかし、海面スレスレで飛行機は立ち直った。翼端で太平洋の白波をたたかんばかりであった。

 墜落ではなかったのだ。あるいは、艦砲射撃で被弾したのかもしれないが、致命傷ではなかったようだ。小山がとっさの判断で、急降下で回避したのだ。私は少し落ち着いた。

 とりあえず北にむかって海面をフルスピードで飛ぶ。小山がまだ叫んでいる。「電報は届きましたか−」と叫んでいるようだ。とっさに私は、どういうわけか「届いたゾ−」と口から出てしまった。

 わが愛機に積んでいた空二号電信機の発信能力では、300海里以上も離れた地点から基地への無線到達は、低高度ではとうてい無理とされていた。

 そのため北へ避退して数分の後、もはや機動部隊もみえず、追ってくる敵機も見えないので、高度をあげて垂下空中線をおろして急いで打電する。

1520敵発見、大型空母二隻・巡洋艦・駆逐艦約10隻、地点都井岬の187400海里、進行方向160度、速力24ノット」

 鹿屋基地は了解したようだったのでホッとする。そのとき前方に島が見えてきた。奄美大島の東にある喜界ヶ島らしい。ここには海軍の飛行場があるはずだと、着陸を決意する。

 喜界ヶ島の飛行場に滑り込むように着陸し、敵発見を報告する。かけよってきた整備員といっしょに機体を調べたが、どこにも弾のあとはみつからない。こんどは安心して離陸する。そして午後6時半ごろ、薄暮の鹿屋飛行場に到着した。

 司令部に詳細を報告する。敵発見の第一報は確実に着信していた。

 一四一空司令以下の隊員は、われわれの敵発見と無事を喜んでくれた。隊内の食堂で仲間にかこまれながら食事をする興奮状態はなかなかおさまらないが、今日の飛行を皆に説明しながら、もう一度ふりかえってよく検討してみる。

 敵の兵力は、大型空母二隻で二人ともはっきり確認しており間違いない。敵の位置は喜界ケ島から逆算してもだいたい報告した地点付近とおもわれる。しかし、いったん避退したのち、反転して再度確認すべきではなかったか、あるいは触接を継続すべきではなかったか、などが反省点として残った。

 小山は言っていた。「分隊長はひでえや、どたん場でも人をダマスんだからなあ」と・・・・。私のいいぶんは、「なにをいうんだ、オレはもうお陀仏と覚悟したんだ.貴様に心配したまま死なせてはかわいそうと思ったまでだ。」この論争はこの後、後々迄も続く事になる。このようにしてわれわれは僥倖に恵まれ、初陣ながら敵機動部隊を発見することが出来たのであった。

 

「フィリピンに移った戦場」

 この日、沖縄を攻撃した敵機動部隊は、その後索敵により4つの空母群であることが判明したが、いったん南下した後、1213の両日、こんどは台湾全域に来襲した。海軍航空部隊は台湾・沖縄・南九州の各基地から攻撃隊が発進したが、敵のレーダー網に捕捉され、グラマン戦闘機の要撃と熾烈な防御砲火によって、未帰還機が続出したという。これが台湾沖航空戦である。

 そして戦場は次第にフィリピンに移り、やがてレイテの決戦を迎えるのである。

 わが一四一空も台湾を経由してマニラ南方にあるニコルス基地に進出した。偵三の武田隊長以下の本隊は沖縄の小禄で敵艦載機の奇襲をうけて、地上の艦偵が炎上大破したため、フィリピン進出は偵四を主体に、偵三の一部が参加する形となった。 われわれはニコルスを基地として、主としてルソン島東方の洋上索敵を任務として行動した。

 索敵飛行に出る日は午前3時起床、全神経を集中して暗闇の飛行場を離陸する.南国の夜空は星の光がキラキラと輝き実に美しい。飛行して2時間で索敵線の先端に近づく頃、黎明を迎える。

  水平線を一心に見張る。やがて日の出、壮大な太平洋の日の出だ。指定された地点に到着し、それから右折して30海里すすみ、そして反転して基地に向かうといった状況だった。

 しかし、米艦隊の周辺は勿論、ルソン島の海岸線の上空には、グラマン戦闘機が何段階にも網を張っており、また基地に無事にたどりついても、基地上空にさえ敵戦闘機がすでに跳梁しているという実態であった。

 わが愛機も幾度か危機一髪の状態に遭遇したが、いつも小山の巧みな操縦ですはやく雲の下に避退したり、山脈の渓谷をぬうように飛行したり、全速力でラグナ湖の湖面を疾走したりして、その都度グラマンの攻撃をかわしてきた。 たしかに天佑神助というべき幸運にも恵まれたが、小山と私のペアは実践経験によって着実に一歩一歩鍛えられていった。そして私はどんなときでも小山を全幅信頼し、小山もまた私を信頼してくれた。

 小山と私は、本当にピッタリ呼吸のあったパートナーになっていた。

 11月中旬、レイテ決戦はまだたけなわであったが、未帰還機の続出と爆撃で、ニコルス基地の可動陸偵が次第に数少なくなった頃、偵三所属の搭乗員に対し、内地に帰還命令がでた。

 キャビテから飛行機に便乗し、うしろ髪をひかれる思いで台湾の東港を経由して指宿に到着し、鹿児島にいた偵三の本隊に復帰した。

 しかし、この二ヶ月の間に、搭乗員には多数の犠牲が出ていた。飛行隊の推進力として元気一杯頑張っていた71期、72期の諸君もすでに半数が初陣で散華していた。

 このあと、我々は、使用機を二式艦偵から最新鋭の彩雲(操縦・偵察・電信の三人乗)に乗りかえたが、小山と私とのペアは変りなかった。

 1912月、偵三は千葉県木更津基地へ移動する.そして翌2月11日、彩雲5機が、私の期友である三木大尉、伊藤飛曹長、幡谷上飛曹のペアを先頭に、広瀬遼太郎機他、硫黄島経由でトラック島に進出して、ウルシー環礁の索敵で殊勲の活躍をするのだが、2月下旬、航空部隊の編成変えで一四一空(中村司令以下の基地要員は、フィリッピン・ルソン島に残り、陸上激戦中、偵四飛行隊は台湾にあって作戦中)の偵三本隊は、ついに解隊されることがきまった。偵三搭乗員の大多数は、同じ木更津飛行場にいた偵察一〇二飛行隊に移ることになったが、私にはどういうわけか霞ヶ浦航空隊への転勤命令がきた。

 死ぬも生きるも一緒と心に誓って、死線を越えてきた小山との別れが、なによりもつらかった。別れの朝、お互いに手をしっかり握りしめたが、二人の目には涙が光っていた。

 そして、小山は昭和20年4月22日、沖縄戦のまっただなか、あの喜界ケ島付近でついに未帰還となっていたのである。

 おそらく彼は受持索敵線をただ一機、黙々と飛び、知る人もなく未帰還になったのであろう。

 今年もまもなく1010日がくる。1010日には私はあの日を想い浮かべながら毎年ひとりで酒を飲む。

″小山よ、許せ″の悔恨の思いは何時までも私から消えることはない。

(なにわ会だより第3号 56頁)

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