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高見 隆三君終焉の地再訪

平成22年4月27日 校正すみ

向井寿三郎

 高見 隆三

5月2425の両日、戦闘機の親睦旅行会が関西の宝塚市で催された。初日は午後6時から同市の河野俊通邸で懇親会、翌日は希望者による宝塚の観劇というスケジュールが組まれていた。これについてはほかに誰かが書くことだろうからこれ以上触れぬが、この機を利用して相澤善三郎と2人で高見隆三散華の地を訪ねることにした。案内役は現地事情に詳しい豊中市の杉田繁春に頼んであった。

24日朝のひかりで東京駅を発って正午すぎに新大阪着、私は杉田とは一号時同分隊、相澤は初め「杉田ってどんな奴だったかなあ」と思い出せないふうだったが、改札口に佇む杉田の姿を見たとたん、「知っている、知っている、三号のとき同じ教班だったよ」と。

杉田に従って東海道線に乗り換え、バックして茨木駅下車。駅前のそば屋で軽く腹ごしらえをしてタクシーを拾った。

高見隆三散華の地は京都府下亀岡市東別院町相原岩ケ谷にある。大阪府との境界近くで、茨木駅から距離にしても約20キロ。交通の便が悪く、ここからだと大回りして電車やバスを乗り継いでゆかねばならず、何時間かかるか分からぬという。亀岡街道をタクシーでゆけば、3、40分の行程だそうで、そちらにした。

ものの5、6分も経たぬうち車は、山あいの谷川に沿った山道に入った。沿道には田畑らしい田畑も、まとまった人家も見かけない。奥に採石場があるとかで、時たまもうもうと土埃をあげて突進してくるダンプカーとすれちがう。運転手の話によれば、この辺にダム建設の計画がすすんでおり、いずれこの道路も水没の運命にあるという。

「もうすぐだ」という杉田の声をきいて間もなく、行く手の展望が開け、畑地の向こうにかなり大きな集落が見えてきた。車はその集落を前にして街道を右におれ、山裾の畑に沿って200メートルほど進み、農機具庫といったふうの小屋の前で停った。「この上だ」と杉田に言われても、以前の記憶と重なるものは何ひとつなかった。

50年前、正確には敗戦の年の1月24日、前日戦死した高見の遺体収容のため私はこの地を訪れていた。そのときのことを述べる前に、高見や私たちのクラスが所属していた332空について触れておこう。

332空は昭和19年8月1日、呉地区の防空戦闘機隊として岩国基地で開隊した。司令は、真珠湾攻撃作戦の立案者として、また後の343空司令として知られる源田大佐と同期で、何かにつけてライバル視されていた柴田武雄中佐(当時)、飛行長は山下政雄少佐(60期)で、ともに戦闘機生え抜き、名うての指揮官であった。開隊当初の定数は局戦48機ということになっていたが、実際は零戦が主で、その後雷電、月光も増強され、同年11月初め頃の実動機数は、零戦27、雷電15、月光6となっている。同じ頃332空では、竹田 進中尉(当時・71期)が零戦20機を率いて比島へ進出、比島前後段階の航空戦に参加したが、ほどなく壊滅的打撃をうけている。飛行学生も終えて岩国で開隊したばかりの332へ着任したわがクラスは、相澤、高見、林藤太、松木、向井、山本勝雄、渡邊清實、渡邊光允の8名であったが、全員居残った。技量未熟な我々に対する飛行長の親心だったのだろう。

12月半ばすぎ、332の主力は山下飛行長指揮のもと、甲子園近くの鳴尾基地に移動した。厚木の302が関東地区、大村の352が北九州地区、332が阪神地区の防空をそれぞれ担当することになったのである。なお332では零戦・雷電隊とは別に、夜間戦闘機の月光隊が現在大阪空港となっている伊丹基地に展開していた。鳩尾への基地移動の際、山本が濃霧にまかれて事故死しているので、結局、当初から鳴尾にいたわがクラスは、林、相沢、松木、渡辺(光)に向井の5人だったように思う。

332空飛行機隊行動調書(1911月―20年1月)』(防衛研究所図書館所蔵)には、遊撃戦や上空哨戒に上がった際の搭乗割、発進・帰投時刻、各編隊・各機の行動が簡単に記録されているが、それによると高見は、20年1月3日、本隊のあった岩国の上空哨戒に上がったという記録が残されているから、鳴尾へ移ったのはそれ以後ということになる。

年が明けると、名古屋、阪神方面へも足繁くB―29の編隊がやってくるようになった。防衛研究所図書館で調べたところ、1月3日を手はじめに、9日、14日、19日、23日と、かなりの規模の編隊が来襲している。

もっともこの頃の敵の目的は、阪神地区の爆撃ではなく、潮岬方面から北上し、偏西風を利用して名古屋周辺の三菱の飛行機工場を爆撃することだったらしい。たしかに大阪方面へも小規模の焼夷弾攻撃があるにはあったが、あくまでもそれは陽働作戟をかねた行きがけの駄賃程度のものだった。阪神地区への本格的な爆撃は2月以降のことになるが、1月24日から30日まで連日続けられた単機または少数機による進入は、そのための偵察目的だったのだろう。

この頃になるとわがクラスも、「九〇式棺桶」とおどされた雷電の操縦にも慣れ、若年搭乗員の多い隊内では中堅どころの役割を果たしていた。前記332空の行動調査を見ると、1月3日の迎撃戦では零戦6機と雷電2機が上がっており、そのうち3機はわがクラスの搭乗である。9日発進した零戦3機、雷電1機の計4機はすべてわがクラスが搭乗、14日の零戦6機、雷電6磯のうち4機、19日の零戦5機、雷電7機のうち4機といったあんばいである。

高見が戦死したのは1月23日の迎撃戦である。当時332空は陸軍の第11飛行師団長の指揮下にあった。その『第十一飛行師団作戦記録(19年8月―20年6月)』によると、この日午後1時半頃B―29の大編隊は2梯団に分かれて潮岬方面から進入、阪神、京都上空を経て名古屋に向かったとある。332としては当然この日も、この大編隊に対して、これまでの例からすれば零戦、雷電合わせて10機内外の編隊で発進しているはずだが、どういうわけか行動調書の記録は19日までで終わり、23日以降の分がない。23日以降の分が別の綴りになっていて、それが散逸したのか。その日どんな搭乗割で何機発進したのか、私には全く記憶がない。

かねがね現代の稗田阿礼と自称する相澤にも訊いてみたが、さすがの彼も憶えていないという。

今にして鮮明に憶えていることが一つある。その日わたしは夕食をとるのが遅かった。がらんとした食卓のすぐ傍らに、「高見中尉」の名札とともに手つかずの食膳がぽつんと一つ残っていた士官食堂の光景である。高見機が墜落したのは、後に触れる目撃者の証言により、午後1時半頃であることが判っている。

この日の敵機の来襲時刻から見てもそれに間違いはない。しかし航空隊では、少なくとも夕食の用意をするまで高見機の消息は判っていなかったのだろう。

これはおぼろげな記憶だが、陸軍の関係筋から高見機が京都府下の山中に墜落したという情報が入ったのは、たしか夜になってからだった。そして遺体収容班を現地に向かわせることがその夜決められたのだった。メンバーはK軍医中尉に私、それに下士官兵が3名だったか4名だったか? わたしは1月14日の迎撃戦で乗機(零戦)が被弾して火災を起こし、奈良市近くの山中に落下傘降下したまではよかったが、顔面に火傷を負って両眼をやられ、西宮の病院を退院して間もない頃だった。高見の遺体収容に、同期で飛行止めの身の私がゆくことになったのは、当然すぎることだったろう。

24日早朝、わたしたち一行はトラックで鳴尾を出発した。どこをどう通ったか定かでないが、「箕面」の地名がかすかに記憶にある。杉田の話では、その当時から箕面を経て亀岡へ通ずる道はあったそうだから、わたしの記憶はそれでよかったのだろう。

平地をすぎてからは、トラックが1台やっと通れるくらいの林道のような山道だった。あの年は雪の多い年だったはずだが、不思議に山中でも雪に難渋した記憶はない。どのくらい時間がかかったのか? 着いたところは山あいの(ひな)びた山里、といった漠とした印象だけが残っている。

 

話をもとに戻す。小屋の前で、車を降りた私たちは、杉田の先導で山に入った。直径4050センチの真っすぐ伸びた杉が林立し、杉の小枝や下草の枯れ葉の散り敷く地面はうす暗く、あたりには日蔭の山道特有の臭いが漂っていた。道はすぐさま急勾配となり、心臓に持病のある杉田ならずとも息が切れた。草木につかまりながら5060メートルも登ると杉林が尽き中空の開けた1坪ほどの平地に辿りついた。そこが高見隆三終焉の地と(ぼく)されたところだった。

 

それにしても、私の記憶が当てにならないのか、それともかつての風景自体が変貌したのか、目前のたたずまいと50年前の記憶との落差に私はとまどった。第一にこんな大きな杉林はなかった。さほど背の高くない雑木の疎林で、あちこち地肌が露出していて、見晴らしも利いていたように思う。またこんな急な傾斜地ばかりでもなかったように思えるのだが……。

 

あのときは、すでに前日陸軍兵士の手によって遺体は近くの寺に収容され、機体もあら方よそへ片づけられたあとだった。それでもまだ、高見の(むくろ)の一部の肉片や飛行服の切れはしがばらばらになって、あちこちの木の枝や根っこに引っかかったりこびりついたりしていた。文字どおり散華の際の激突のもの凄さを物語っていた。

戦死後間もなく、土地の人たちの手によって建てられたという墓標は、年を経て朽ち横に倒れていた。しかし大小いくつもの石でしつらえられた祭壇には、赤、黄、白と、とりどりの真新しい花が供えられていた。50年この方、土地の人たちが回向をつづけてくれているという。

杉田が携えてきた花と線香と水を手向けて私たちは山を下りた。

 

60年前、山での捜索を終えたあと、高見の遺体を引き取りに寺にいったはずだが、その記憶もきれいに欠落している。ただ、山に登る前だったかこの里を引き揚げる間際だったか、大勢の老若男女を前にしてK軍医中尉が挨拶をした光景がぼんやりと頭にある。そしてその群衆の中に、風邪でも引いていたのか、着ぶくれて蒼白い顔をした若い美しい女性がいたことも。

 

土地の人たちにひと言お礼を言い、改めてあのときの話も聞きたかったが、それは諦めざるをえなかった。いったん乗り捨てたタクシーをこの辺でまた拾うのはむずかしいという杉田の言に従って小屋の前にタクシーを待たせてあったのと、このあと神戸の被災地へゆく予定をたてていたからである。帰りしな車窓から眺めた柏原の集落は、杉木立を背景に、折り重なる葺が5月の陽光に映えて輝いていた。「鄙びた山里」の風情は、いまは影もなかった。

 

高見隆三終蔦の地に、土地の人たちが墓標を建て、折にふれ回向を絶やさぬようにしてくれているということは、以前杉田から聞いて知っていた。この日その事実を目のあたりにして、そのやさしい心根が身にしみた。初めて見聞きした相沢はなおのこと心を打たれたらしく、その夜の河野邸での懇親会の席上でこのことを披露し、「関西人はこすっからいとよく言われるけれども、関東の人間よりも仏心が厚いのではないか。俺は認識を新たにした」.と、歓声まじりに述べていた。

杉田は、高見機墜落直前の模様を目撃した2人の証言をとっている。それぞれ見た場所はちがうようであるが、次の点では一致している。すなわち、「機銃発射音のあと、戦闘機が1機煙と焔に包まれながら集落に向かって墜ちてきた。恐怖に身がすくんだが、急に機首を旋回させ、前方の山の中腹に墜落した」と。

 

このことを杉田から聞かされ、私はある故事を思いだした。源田実箸『海軍航空隊始末記』(発進編)に紹介されている逸話である。

 

昭和4年、源田大佐が霞ケ浦の飛行学生であった頃、主任教官で、この本でも「私の脳裡に、最も強い印象を残した航空先輩の一人」と書いている小林淑人大尉(当時・49期) は、空中戦開法研究のため英国に留学した。訓練中突如エンジンが火を噴きだした。落下傘降下を、と思って下を見ると、人家の密集地であった。小林大尉は、操縦稈とスロットルレバーを握る左右の手を焔で焼きながら、懸命に耐えて乗機を人家のない原野の上空まで導き、ようやくの思いで落下傘バンドを解き機外に脱出した。このことは早速英国の各新聞にとり上げられ、英雄として日本海軍軍人の声価を大いに高めた。また英国の多くの家庭では小林大尉のこの行為を、あたかも戦前の日本の修身の教科書にでてくる美談のような扱いをしたという。

 

高見の場合、高度が低いので落下傘降下の余裕もあらばこそ、あとは人家への激突だけは避けるべく、煙にむせ、もうろうとした意識の中で、最後の力をふりしぼって操縦桿とフットバーとスロットルレバーを操作したのではなかろうか。状況を粒さに目撃した土地の人たちの想像力がここまで及んでもあながち不思議ではなかろう。

 

高見とは、江田島、飛行学生を通じてそれほど近くにいたことはなかった。二号のとき、教班はちがったけれども、同じ第1部だったから、顔と名前はよく知っていた。親しくつきあうようになったのは332へ行ってからのことになる。

心根のやさしい男だった。彼の怒っている顔や荒げた声に接したことがない。それでいて、チマチマしたことは性にあわぬらしく、大胆で思いきりがよかった。ブリッジでのヘルコールには定評があった。うまくゆけばこたえられぬが、反面リスクも大きい。太く短く、と思い定めるところがあったのだろうか。B―29の攻撃は戦闘機同士の空戦とは違い、こちらが近づかなければ、敵に撃たれることはない。高見は不敵にも、至近距離まで肉迫し、その結果自らも集中砲火を浴びたのだろう。

高見の髪型はちょっと違っていた。昔の番頭ふうの角刈りほど短く、刈り込んではいなかったが、どうみてもその系統で、若い少・中尉の間ではあまり見かけない髪だった。少々特異な美意識をもったスタイリストだったのかもしれない。そういえば、彼の重巡型の軍帽も目に浮かぶ。

 

後になったが、高見と杉田の関わりあいについても書いておかねばならぬ。

関西在住のクラスもあまり知らぬようだが、杉田はこれまで、関西圏を中心に東は名古屋から西は姫路あたりまでの範囲で、戦没期友の墓参を重ねてきた。その件数はすでに60を超えているとのことである。

高見とは二号時、同じ19分隊。心臓の持病を抱えていて外泊を禁止されており、高見の故郷である呉市まで出向くのは無理であった。そこで戦死の模様だけでも知りたいと思い、高見の令兄俊作氏.(66期)に問い合わせの手紙をさし上げたところ、あらまし次のような返事の葉書を頂いた。

――――海軍省から、京阪上空でB―29と交戦・戦死との通知はもらったが、はっきりした戦死の場所も模様も分からない。以前、相澤氏からの電話で、戦死の翌日、同期の渡辺氏と向井氏が現地に出向いて遺体収容に当たったということを聞いた。この2人に問い合わせてほしい。

 

といった経緯を経て、わたし宛に杉田からの手紙が届くわけだが、私にはショックだった。今から5年前のことである。鳴尾には当時、私のほかに林、相沢、渡辺(光)、松木と4人もクラスがいた。にも拘らず、ご遺族に何の報告もしなかったのだろうか。中でも私は遺体収容にいった張本人である(遺体収容にいったのは、前述のように私一人であった)。林、相沢、渡辺に電話して、その辺のことを訊ねてみた。3人とも似たようなものだった。「はっきりした記憶はないが、あの時期になると海軍葬はしなかった。遺骨や遺品と一緒に何らかの報告をさし上げているはずだが……」と。

 

しかしご遺族に、何も知らされていないと言われればそれまでである。私は早速半世紀近く前のおぼつかない記憶を辿り、遺体収容のことを中心に、俊作氏宛に手紙を認めた。そのコピーを杉田にも送った。その手紙の中で私は、戦死の場所は京都府下の、箕面から亀岡に至るどこかではないかと書いたように思う。杉田はさらに、わたしの危なっかしい記憶とは別に、クラスの大谷が戦後復員局で調べた資料を、市瀬を介して手に入れ、それが私の記憶とも符合することから当たりをつけ、今の場所をつきとめたという。

 

それから杉田の東別院町詣でがはじまり、今回で5度目とのことである。その間、2年前の6月には杉田の手引きで、長兄俊作氏はじめ高見家ご一統が現地でご慰霊の法要を営まれている。また二号時同分隊にいた73期2名を案内したこともあったそうである。

いつか杉田は私への手紙に書いていた。

「高見は二号19分隊で、一番仲のいいクラスメートだった」と。

 

20年の3月末、私は343空へ転出した。したがってその後の332空については不案内である。ここでは高見隆三の戦死の模様だけを書くつもりであったが、話のゆきがかり上あれこれ横道に入り込み、水ぶくれしてしまった。意には染まぬが書き直す暇もないので目をつぶることにした。

(なにわ会ニュース73号11頁 平成7年9月掲載)

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