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高脇圭三君を偲んで

 

藏元 正浩

 

機関学校に入校以来、学年訓育の時間に学年監事の喜多見教官から精神訓育の話があったものである。授業時間以外にも朝の自習時間、夜の自習時間にも時折合併講堂に集合がかけられ、教官の説かれる「絶忠の精神」」の説明があった。

53期は入校120名、卒業111名、戦死者57名となっており、戦死者の中には自ら特攻隊を志願して2階級特進した者が10名もいるということは、教官の董陶正に開花せりという感じがしないでもない。

教官は53期入校当初から毎日の如く総員起床時から巡検終りまで常にわれわれの先頭に立って指導しておられ、所謂率先垂範を示された方でもあったので、教官の言動は53期のクラスの特色にも強い影響があったということは、何人もが認めるところである。

教官はまた「頑張りの精神」「勉強なんかしなくてもよい」「身体を先ず鍛えよ」とよく口ぐせに言っておられたが、その他にも「このクラスには勉強にも柔剣道にも抜きんでた者がいない」と言って嘆いておられた。確か柔剣道について言えば入校前の中学生時代2段程度のそこそこの者はいたが、上級生に較べても甚だ見劣りがするし、特に一号になってからは54期、55期の中には入校人数も多いせいもあったが、中学生時代3段、4段であったという者もいたようである。その中にあって高脇君は53期の柔道における数少ない代表選手の一人であり、われわれが卒業前の柔道試合(或は寒稽古終了時の柔剣道大会であったかも知れない)において二号生徒の中でも特にぬきんでていた目黒君を見事一本とり彼の名声を高めるとともにわれわれ一号の者達をホッとさせたものである。

1期の候補生の時の彼についての記憶はない。恐らく彼とは乗艦が違っていたのではないかと思われる。

また次の配置の発令があり、横須賀の海軍工機学校における乗艦待ちの期間及び航空母艦翔鶴に便乗して当時の前進基地「トラック」に進出する迄の約20日間についての記憶もない。乗艦する艦が一緒ということで2口、3口は話したかも知れないがそれも記憶にない。

トラック島で「大和」に乗艦したが、森川君が機械分隊士、高脇君が工作分隊士、小生が(かま)分隊士として着任した。

「大和」は当時としては最新鋭の秘密戦艦であり、歴代優秀な人が配置された関係上候補生教育も完備されていた。

候補生全般の指導官は兵学校65期の新田大尉、機関科は指導官が50期の罐分隊長、指導官付が52期の機関長付ということで、全般的な実習、兵科の実習・機関科の実習とそれぞれに分かれて教育されたが、なかでも機関科の教育については今までの1期の候補生教育の時と違い、実習のすべての操作は兵員のやる事を繰返し操作するような教育であった。

実習の日程表はギッシリと予定が組まれていて、講義は機関科の准士官以上の人達が総員で担当するようになっており、取扱実習の時、整備実習の時など掌長から下士官・兵に至るまで極めて熱心に教えてもらった。

通常の航海では食事以外は常に機械室にいるように指導されていたが、乗艦して2、3週間したらトラック・横須賀間の人員、兵器の輸送任務に従事した。片道大体1週間程度かかるわけであるが、当時士官は航海中4直になっていて、候補生はそれぞれどこかの直に入るわけであるが、その4直のうち候補生が入っていない直の時は機関取扱実習が行なわれた。実習の前の直、後の直の者は連続8時間立ち放しになるわけで、その上朝晩の総員配置の時間もあり、相当にきつい思いもしたが、さすがに高脇君は悠揚迫らざるの態度で頑張っていたようである。

トラックに入港する直前の早朝、敵潜水艦が放った魚雷が命中し船体に大きな穴があいた。

急遽(きゅうきょ)呉に入港して損傷個所の修理、副砲を高角砲への取換、高角砲、機銃等の対空砲火の増強を実施することになった。

呉に入港すると兵科の候補生は大多数が配置換えになり、転勤して行った。

その送別会が「グリーン」という中華料理店で開かれ、飲む回数が増えたが機関科の候補生は3人共同じような行動をとっており、当時は左程飲みに行きたいとは思ってもいなかった。

少尉以上の人達は「レス」に行けるものだからその時の話などしてわれわれを物凄くうらやましからせたものである。

連合艦隊は次期作戦に備えて、リンガ湾に集結して作戦準備を進めていた。進出してすぐ森川君が潜水学校の学生に発令され、こちらが機械分隊士となった。

「大和」は本隊の前部を進む関係上敵の攻撃を受け易いので、機関応急訓練が盛んに行なわれた。

高脇君も被害想定により現場指揮官として奮闘しており、訓練が終わると何時も彼の大きな身体は汗びっしょりになっていて、作業服は絞ると汗がしたたりそうになる位であった。

サイパン作戦に惨敗を喫した連合艦隊は、沖縄の中城湾に逃げ込んだが、補給のため1旦呉に入港した。

入港したら「何日何時からロックにてクラス会」という信号が来た。今までレスには先輩の人達と一緒であったが、今日は始めて2人で行くことになった。集合時間の30分ぐらい前に止覆いでみると夏でもあり日はまだ高いうえに「エス」達が玄関にズラリとならんでいる。どうしても入り難いので知らない顔をして門を通り過ぎ、今度こそはと思って引き返したがまた駄目である。そのまま行くとクラスの者に会い、ヨウヨウという事から多人数になればこちらも心臓が強くなり、「イラッシャイマセ」という言葉を背に受けながら「レス」に上り込んだ。

クラスの者と痛飲したが、この海戦でクラスの者からの戦死者も出た事ではあり、お互いに元気で頑張るようにと誓い合ったものである。

呉における補給を終わり4、5日してまたリンガ泊地に進出した。その頃はガンルームも72期は十時君と都竹君だけで、殆んど候補生に占められていた。リンガ泊地に進出してしばらくするとこちらが潜水学校の学生を命ぜられて退艦することになった。

出発の前の晩、機関科事務所で機関科幹部による送別会があったが、終わると高脇君が今夜は2人して小生が出発まで徹夜して飲もうではないかと言って飲み始めた。当時は「大和」は不沈戦艦と思われていた時でもあり、またサイパン沖海戦では出撃潜水艦が潰滅的打撃を被り、殆んど撃沈されていた状況下においては、潜水学校に行くということは、学校を卒業して潜水艦に乗れば、程なく戦死するかも知れないという当時の感触でもあった。3人一緒に乗艦し楽しい事もあったが一緒に苦労した事も多く、先に森川君を送り、今度は1人残される事を思えば、程なく戦死するかも知れない級友を送るに際しては、情において忍びないという感じがあったのではないかと思われる。

翌早朝の内火艇の出発を知らせてくれるまで2人して長々と話していた事を覚えている。

レイテ海戦で被害を受けた「大和」は、爆弾のあとも生々しく呉に入港して来た。

艦に遊びに来いということで、当時潜水学校の学生だった関係で、土曜日か日曜日に1度だけ行ったことがある。機関科の分隊長などともお会いできたが、本当に皆さん生きて帰られて良かったと思った。

当時「大和」艦長は水雷屋出身で、機械と舵とを使って敵機からの魚雷攻撃、爆弾攻撃を避けながら戦闘したが、「武蔵」艦長は鉄砲屋出身で射撃の命中率を上げるために避退行動はとらなかったというような事を聞いていたが、果たしてどちらがよかったかは戦術論議になるけれども、素人的に考えれば生き残る方途がよかったような気もする。

よく「ラウンド」で一緒になった51期の補機分隊長がガンルームの機関科、主計科の板垣少尉を含めて、4・5人連れて来られたものである。潜校の学生は食べるものが少ないだろうからということで、1枚のハンカチに一つの握飯が包めるような大きなものを持って我々にもエスにも食べさせてもらった。

当時榛名乗組であった野崎君から「潜校の学生はレスなんかで遊んでいないでしっかり勉強しろ」と説教していたということを最近よく耳にするが、野崎君から説教された事は記憶にないが、当時はラウンドでよく飲んでいたことはよく記憶している。

こちらが潜水艦に乗って硫黄島作戦を終わり、次に沖縄に向け出撃準備中に「大和」を基幹とする第2艦隊も沖縄に向け出撃するという話を開いたので、昼の勤務時間中ではあったが上陸桟橋に行き、「大和」に向った。艦上では主砲弾の搭載が始められており、生糧品、貯糧品搭載のため、さしもの広い「大和」の上甲板も所狭しと感ずる位になっていた。「ガンルーム」に行って高脇君を尋ねると機関科事務所にいるという事で事務所に行った。

彼も非常に喜んでくれ、今度の出撃も航空機による掩護なしで出掛けるけれども、最後は沖縄に艦をのし挙げて、砲台となって頑張るのだと言っていた。お互いに最後の最後まで頑張ってお国のためになろうではないかという事で、昼ではあり勤務時間中でもあったので、酒でということができなかったので、湯飲みに水をついで、水盃の格好で別れた。彼は舷門まで見送りに来て、お互い帽子を振って別れた。

 

特攻兵器「回天」を搭載して、沖縄の泊地に停泊中の敵艦攻撃のために、泊地に侵入するため敵警戒線を突破しようとしていたが、敵の警戒が厳重なため侵入できず苦労している時に、大和艦長からの「我、連続敵の空襲を受く」という電報を傍受した。潜水艦長はこれではこのまま回天による攻撃を強行しても第2艦隊の進出が望み薄なうえに敵の警戒が厳重な現状から第6艦隊司令部に指示を仰ぐため退避して電報を打った。

艦長は「大和」もあるいはやられたのではないかと言っておられたが「大和」が沈んだとなれば、先ず頭に浮かんだのは、高脇君は助かったのかなあということであった。「大和」に関することは吉田満氏の名著を始めとして沢山出されているが戦後人から聞いた話では「大和」が被害により浸水量が多く傾斜がひどかったものだから反対舷の機械室に注水したと云う話を聞いてからというものは「大和」に関するそれらの本を見る気にはなかなかなれなかった。確かに当時としてはそれが唯一の方策として思われたかも知れないが、注水された一つの機械室には機械部員の4分の1近い人々が戦闘配置についていた筈である。

生きながらにして注水されてはたまったものではない。然もこれらの人々は僅か6ケ月前にはかっては機械分隊士として勤務していた時代はわが忠良なる部下であったわけである。

回天による泊地襲撃の作戦が取止めとなり、敵の海上輸送の破壊に切換えられ、呉にやっとの思いで入港した。入港して桟橋についたらクラスの者から「今夜は貴様の生還祝をラウンドにおいて行なわれる」と知らせて呉れた。なんでも一時は潜水艦の音信不通ということでクラスの者達も藏元の奴も遂にあの世に行ってしまったのかと話していたところまた音信がとれるようになったものだから、帰還したその日を選んで呉付近のクラスの者を呼んで「生還祝い」という名目で皆さんが集ったわけである。それを聞きつけた板垣中尉(経34期)がわざわざ部屋までかけつけてくれ、大和の機関科は煙当番以外1人も助からなかったとか、総員退去の令のあと海中で泳いでいると「スピーカー」でこれから機関科の指揮は機関長付がこれをとる」(高脇君は当時機関長付の配置であった)というのが聞えましたから、或は、高脇中尉は艦と運命を共にされたのではないかと思いますと言っていた。「艦と運命を共にした」と云うことについては「絶忠の精神」その他いろいろの事が考えられるがこれについての発言は差し控えさせて戴きたいと思っている。当時は、流石は熱血漢だけのことはあると思ったがよわい65歳になるといろいろな事が考えられるが、之についての発言も差し控えさせて戴きたいと思っている。

彼とは一緒に艦に乗ってから、彼はいくら鍛えられても愚痴をこぼすようなこともないし、愚痴を言うのはどちらかといえば常にこちらの方で、こちらが何か言っても常に反対するではなしニコニコ笑っていて大人の風格があったように思っている。

人が好くて他人と言い争いするようなこともなく、もし、生き長らえていたら真面目な、純真無垢な、立派な海軍青年士官としての生活を送った1人ではないかと今でも思っている。

(機関記念誌39頁)

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