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平成22年4月27日 校正すみ

昭和55年9月寄稿

田中分隊長の思い出

松井 勉

 総てのことを秘密にして漏らすな、尋問されても隊長以下全員訓練中の「パイロット」だったと言う様にと。

 元山海軍航空隊の飛行長の訓辞を最後に、「ソビエト」軍の銃弾の中から一機又一機と祖国へ帰って来た百二十九機の零戦と百五十名の決号作戦要員(本土決戦用の零戦隊で特攻機の護衛と敵機迎撃用)。

有事の際にはと、ひそかに持ち帰った「ライフ・ジャケット」装帯、操縦者用落下傘、飛行服等、全装備品を長持に隠してから既に三十年余り。

 言論の自由を取り戻し更に何れの制約にも束縛されない今現在に至り、せめて我々「パイロット」の歩んで来た真の姿を後世に伝えたいと念じ当時を回想致しつつ敢えて悪筆を執ります。

 昭和十九年十月十二日未明、台湾沖航空戦の幕は切って落とされた。当時私は第二航空艦隊基地航空戦隊要員として、台南航空隊に配属され、現在大阪市在住の清瀬 昭氏と共に司令部付となり、司令官、宮様と同室の栄を受けました。

 その緒戦、司令 海軍大佐高橋俊策氏(現生存)以下飛行長、作戦参謀、先任伍長(兵科の上曹)、そして清瀬と私、更に信号兵と七名が戦闘指揮所におり、清瀬氏は作戦本部との電話連絡に、私は全機発進の合図をする役でした。即時待機別法で、戦闘機隊長以下零戦隊全員が「エンジン」を廻わして「パート」で待つことしばし。夜明けと共に電探(レーダー)所から敵味方不明の飛行機五十機、花蓮港上空に接近中の第一報。スワーッと全機発進のQ旗(黄旗)を振る。待機戦闘機が雲の上へ舞いあがる、祈る想いの戦闘指揮所の面々。

 全弾打ち尽くして、陸軍も海軍も無く燃料と弾丸を補給して、又戦うこと終日。敵も落ちるが、味方の精鋭も一機又一機と火の玉となって大空に散華し、前後両三日奮戦すれども物量において圧倒的多数の敵に押され結果は悲惨で、終に、総ての翼にかけた追撃戦にて台南航空隊の飛行機は全滅し、翼をもぎ取られた我々は十一月二十三日、元山海軍航空隊へ配属され、十二月二十七日、零戦隊特訓生として田中分隊長を戴き、第九分隊が編成され、教官は総て「ラバウル」等の歴戦の猛者連ばかりで、翌二十年一月十一日零戦での特訓飛行作業が始まったのです。

 夏型の台湾での零戦の乗心地は艮かったが厳寒の北鮮・・・地上ですら、零下二十度から二十五度もあり、まして千米毎に六度半宛温度が下がる上空では零下四十五度もあり、操縦桿を握る手の感覚もなく今思い出すと、良くまあ飛行機が飛んでくれたものだと感謝したい位です。

 あれは一月末頃のこと、戦闘機空中戦法の一つ優位戦で接敵から敵機攻撃の秘術を教えて貰い帰る途中のこと、「ガソリン」の代用燃料の藷酎(いもちゅう)でとんでいたので「エンジン」が冷え過ぎ止ってしまったとき、同乗の田中分隊長が即座に「松井君『スロットル』を煽(あお)れ!」 すかさず「スロットル・レバー」を二辺三辺と煽り全速にふかし乍ら、同時手動燃料「ポンプ」を必死に煽る。もう海面間近、ダメかと思ったとき間一髪海面すれすれで「エンジン」がかかり、分隊長と私は奇跡的に命拾いしました。あのとき、田中分隊長の指示があと一秒遅かったなら、共に国の為に尽くすこと能わず殉職して今日の私はあり得なかったものです。

 また、技術的な面で田中分隊長に恐れ入ったのは、「スロー・ロール」をやった時です。私は九六戦当時の癖で、機首を大きく廻わし「ロール」をやりました処、「松井君、零戦はそんな風に操縦はしない、目標物を照準器の中へ入れた儘でなければいけない」分隊長が見本を示すからと「ロール」したとき、不思議なこと、射撃照準器の中心に目標が入った儘飛行機が回わり、流石に分隊長は上手だと心から驚きました。

 昭和十七年九月二日、飛行機の操縦桿を此の手に始めて握り水上機時代には単独飛行で海軍始まって以来の八日の「レコード」を破り、七日でやった快挙もあり、九六戦でも操縦のことなら離着陸や編隊は申すに及ばず特殊飛行についても今迄誰にも負けないと過信していた私も、田中分隊長の射撃照準器の中心へ目標を入れた儘の「スロー・ロール」の力量に感銘し、以後猛烈に精進して単機空中戦の真髄へ歩一歩と近づき、多数の戦闘機「パイロット」の中から、決号作戦の要員に選ばれたのは、田中分隊長の御教導の賜です。

 二月十七日、燃料も少なく、編隊空中戦の特訓も中止となり、五十八名の中から決号作戦の要員を九名残して他の者は全部特攻訓練に入り沖縄決戦に備えたのです。

 思い出の今一つは、三月中頃特攻機分隊の訓練中にB29が来襲し、田中分隊長は即座に待機戦闘機にとびのり、B29を追って行かれ高度五千米位までは瞬時に上り、七千米位から分隊長の零戦が豆粒の様になり、B29の大きな飛行雲と対称的に分隊長の飛行機雲が小さく、間もなく空の果てに見えなくなった。分隊長御無事でと祈る思いの三十分、そして、四十分やがて一時間、鶴の首の様な我々の上空へ来ました。来ました。零戦一機。帰投した田中分隊長は平素の訓練中と同様に規則正しい挙手礼を飛行長にした儘、「田中中尉只今帰りました。B29を迎え上空まで追いましたが高度を取ろうとすれば追いつけず撃墜するに至らず申し訳ありません。其の他機体、人員共に異常無し!」 「いや分隊長 御苦労様でした、此処に腰掛けて休んで下さい」と飛行長、周囲を取り巻く我々。

 そのとき田中分隊長は零戦にも斜銃を装備すれば、簡単にB29を撃墜出来ると申され待機戦闘機に斜銃装備の立案を致しましたが、以後終に終戦まで斜銃装備の零戦が出来ず本土をB29の意の儘に爆撃させた事は返す返すも残念であり、又後に残った決号作戦要員の我々零戦「パイロット」にとっても悲憤の至りです。

 この間に戦闘機隊隊長が、急遽、特攻機を引き連れて元山空を飛び立ったのを始め、幾多の先輩と同期の桜そして続く後輩と特攻機が沖縄に散華されました。その当時、同期の桜そして兄弟として助け合った彦根の小倉貢氏と半田の杉江亨君(後日私の妹婿)と共に特攻隊へ志願しましたが、田中分隊長の温情で「君達は若い、将来日本海軍の後輩を指導して貰わねばならない君達のことは、飛行長に進言してあるが、共に分隊長の教えを更に研鎖して後輩の指導をしてくれ。松井君、もし折があったら私の父は田中健之助と言って一宮にいるからね。私は特攻隊長として護国の鬼となり、祖国の為に莞爾として散ったと伝えてほしい。母にはお先に失礼しますが体に気をつけて私の分まで長生きして下さいと伝えてくれ。処で君達は私について来たいだろうが、特攻隊の中へ入れる訳にはいかない、後をたのむよ。」そして我々の空中戦の親と言うべき田中特攻隊長の卒いる五十四機の出発となりました。

 四月七日の神鷲の出発の状況は、終戦時に書いてお送り申し上げた通りで、江田島、海軍魂の権化、田中特攻隊長を先頭に二編隊二十七機宛の離陸、杉江と私の涙の中に有難うと一声残して、皇国の安泰を祈念しつつ散華された英姿が今尚、私の瞼に焼きついております。

 願わくは英霊よ、安らかに眠り給え。

合  掌     
 昭和五十一年四月   

         元海軍上等飛行兵曹 松井 勉

(なにわ会ニュース43号17頁)

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