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平成22年4月27日 校正すみ

平成15年9月寄稿

達川猪和夫海軍少佐

泉  五郎

第三神風特別攻撃隊時宗隊長
  海軍兵学校七十二期 今治市出身
    昭和十九年十一月十二日戦死

英霊の末弟・大澤英二氏は、息子(長男)の誕生日がかねて誇りに思っていた長兄・猪和夫の命日と同じだったことから、京都大学受験に際し、おまえは兄の生まれかわりだといって送りだしたという。このお便りを読んで、父性愛とともに、若くして南海に散った兄への愛惜の情に、思わず目頭が熱くなるのを覚えた。

 以下、氏の提供してくれた海保博治上等飛行兵曹(英霊と同隊で同時出撃、甲予科練十期)の手記を参考に、フィリピン現地での特攻隊編成の状況、隊員の志願・指名の一般的状況と心の葛藤、達川中尉の出撃と特攻戦没の模様を再現してみる。

 昭和十九年十一月初旬、海保上等飛行兵曹は、クラークフィールド南端のマルコットを基地とする三四一海軍航空隊紫電戦闘機隊三個隊の一つ、戦闘四〇一飛行隊パイロットの一員であった。

 一日の戦闘任務を終り、マルコット村の宿舎で休息に入ろうとしたところへ、突如、要務士より「搭乗員全員集合」が伝えられた。本部宿舎に集まった士官・下士官四十数人の搭乗員を前に、舟木司令は「第二航空艦隊司令部(福留繁中将)の要請により、わが三四一航空隊からも特別攻撃隊(二〇一空、マバラカット)へ搭乗員を派遣することになった。 指名するに忍びない、大義に殉じようとする者は志願してほしい。決して強制はしないから、そのまま数分間熟慮して決めてほしい」との指令を伝えた。

 降って湧いたような突然の死への決断を前に、一同は重苦しい緊張感でシーンと静まりかえっている。と、「志願者は手をあげよ」藤田飛行隊長が叫ぶ。

 瞬間、静寂を破ってサーツと風をきる音とともに、全員の右手があがった。 無意識のうちに私の手もあがっていた。人選・指名は司令が行なうとのことで、その夜は解散する。

 やがて翌日の午後、要務士の連絡により司令に呼ばれ、ほかの一人とともに隊員に指名される。一人でいると、どうしようもない淋(さみ)しさが襲ってくるのだがこの時、死に対する恐怖は不思議と、全然感じなかった。遺書を残そうかとも思ったが、改まって書く気にもならなかった。ゴロリと横になり、なんとなく天井を見つめていた。母の顔がはっきりと映った。指名を免れた搭乗員たちの祝福と激励に、ありがとうと口ではいうものの、腹の底では選ばれた誇りなど毛頭なかった。自らの命をこの自らの手で断つ、その苦しみが先にたっていた。

  三四一航空隊での壮行会も、そこそこに、午後九時頃トラックに揺られること三十分。マバラカット町にある二〇一航空隊本部に着いた。低い石垣をめぐらした洋風二階建てのきれいな建物であった。

 集まった搭乗員二十数人、在フィリピンの各戦闘飛行隊から選抜された搭乗員たちであった。称して「第三神風特別攻撃隊」という。ちなみに、第一は一航艦(長官・大西中将)で編制。第二は二航艦(長官・福留 繁中将)で編制。第三は一、二航艦兵力の効率的運用を企図した「第一連合基地航空部隊」としての編制であった。この新編制の部隊は、爆装ゼロ戦など戦闘機が主体で、なかでも二〇一航空隊がその中核であった。搭乗員も、北は千島からの南下組、ラバウル帰りや中部太平洋の転戦組など、各飛行隊の生き残りの強者どもであった。

 いよいよ次の晩、第三神風特攻隊の結成式が行なわれる。隊名、攻撃(爆装)隊、直掩隊の搭乗員の階級と氏名が呼びあげられる。桜花隊、梅花隊、白虎隊、朱雀隊、正行隊など。そして時宗隊は

◎ 攻撃隊(爆装隊)

安田昇海軍少尉 海軍飛行専修予備学生十三期、大正十三年生まれ、広島県出身)

船岡睦雄二等飛行兵曹(丙種飛行予科練習生十七期大正十四年生まれ、広島県出身)

原武貞巳飛行兵長 乙種特別飛行予科練習生一期、大正十五年生まれ、福岡県出身)

 

◎ 直掩隊

達川猪和夫海軍中尉(海軍兵学校七十二期、四〇二空、大正十三年生まれ、愛媛県出身)

海保博治上等飛行兵曹(甲種飛行予科練習生十期、四〇一空、大正十五年生まれ、東京都出身)

 名前を呼ばれてハッとした一瞬、緊張しきっていた私は、フウーと胸に詰まっていた息をいっきに吐きだした。そして、死を覚悟してきた緊張がわずかにとけて、生への執着が芽生えた。ところがほどなく、厳命された直掩隊の任務を聞き、これなら爆装隊の方がよほど気楽だと思った。

  その任務とは        、

一 かならず迎撃してくるであろう、敵戦闘機群を回避しながら、攻撃隊を目的地まで掩護すること。

二 攻撃隊が攻撃されたらその楯となり、その攻撃を達成させなければならない。

三 生還できうれば、戦果を確認し報告すること。

 解散が告げられても、口をきこうとする者もいない。あるのはただ重苦しい沈黙のみ。いよいよ翌日から、一日の長い、長い「出撃待機」が始まる。

 バンバン川のせせらぎや両岸の薄(すすき)の白い穂が風にゆれ、澄んでいる大空をなんとなく眺めていると,ふと故郷のことが思い出されてくる。そして考えまいと思っても、突入の瞬間のことを思う。その繰り返しの日が一日、二日・・ ・・

 このやりきれない「待機」から、一日も早く脱出するためには、出撃命令がでることを願うしかなかった。

 昭和十九年十一月十二日、マバラカット西飛行場に「時宗隊、出発用意」の伝令が飛ぶ。マフラー、飛行服の上着、ジャケット、落下傘バンド、飛行時計、拳銃を身につけ、戦闘指揮所に急ぐ。隊員一人ひとりと堅い握手、最後の別れをして乗機めざして走る。安田少尉、船岡二飛曹、原武飛長が走りながら達川中尉と私に、「頼みます」と声をかける。その最後の声、その時の寂しそうな顔を、私は終生忘れることができない。新鋭戦闘機「紫電」に乗っていた私には、この時、ゼロ戦の操縦席内部がなんとなく貧弱に見え、不安だったのを覚えている。整備員が一生懸命に風防に最後の磨きをかける。出撃の合図とともに、猛然と一番機が列線をきった。二番機、三番機とつづく。胴体下部には二百五十キロ爆弾が不気味に見えた。玉井副長以下全員の帽振れの見送りのなかを、達川中尉も私も、攻撃隊を追うようにマバラカット西基地を飛び立った。時に午前十一時十五分であった。

 めざす攻撃目標は、レイテ湾タクロバン沖。上陸部隊の補給に狂奔している大型輸送船ときめられていた。われわれ隊員が胸に秘めていたのは、あくまでも機動部隊の空母であった。 

 攻撃隊員も皆が不満ぎみであったが命令である。編隊は上昇し、高度三千五百メートル、積乱雲が立ちこめ視界はよくない。しばらくして、機銃の試射をする。曳光弾が前方の一点めがけて吸いこまれていく、良好だ。警戒隊形に展開し、見張りを厳重にしながら、チャートを広げる。一本引かれたレイテ湾タクロバンまでの線、ナガを通りレガスピーの上空を通過し、サマル島を右下に見ながら東海岸を迂回し、南方洋上よりいっきに突入する作戦である。

 サマル島最南端の海上にでるころ視界もひらけ、ポツンポツンと断雲があるだけである。太陽の直射をまともに受ける。強烈だ。編隊はさらに上昇し、高度六千メートル、各機エンジン快調、一機の落伍もない。道中、敵戦闘機にも発見されず、北に針路を向け飛びつづける。ついにきたレイテ湾。北方タクロバン方向は密雲が漂い、視界はきわめて悪い。

 攻撃隊の編隊を右斜下、三百メートルに掩護しながら、目を皿のようにして敵防空戦闘機を探す。上空に敵機なし。ますます奇襲成功かと思う。しばらくして、北方海面に真っ白な航跡が尾を引いているのを発見。と、同時に見えてきた豆粒大の輸送船。次第にその数が増えてくる。レイテの危機を挽回せんと数分後には、ゼロ戦もろとも肉弾となって突入していく目標、その輸送船団がはっきりと見えてきたのだ。われわれ五機はどんどん高度を下げた。前方はタクロバン沖だ。だが、レイテ島はスッポリ密雲に覆われ、その沿岸さえ見えない。海面には大・中型輸送船約四十隻が目に入った。

 一番機の達川中尉が顔を向けた。目と目で目標確認を了解する。攻撃隊の左を通過しながら、達川中尉機が、こきざみにバンク(機体を横に傾けること)をしながら攻撃隊の安田少尉と確認しあう。 また、その左遠方にも、大型艦艇か輸送船団らしい一団が見えてくる。いるわ、いるわ。突然、前方でパッ、パッ、パッと閃光を発する。高射砲弾の炸(さく)裂だ! 円形の黒煙がポカポカと浮いている。 避けるように、ジグザグコースをしながら降下。後上方に目を向けた一瞬、ピカッと光が目に入った。高度差二千メートル、よく見る。ロッキードP38戦闘機だ。一機、二機…四機!・敵は攻撃態勢に入ってなかった。

  私は咄嗟に一番機と平行になり、バンクしながら手で後上を指さして知らせる。達川中尉も気づいた。しかし、この時どうしたのであろうか。達川機は私にはなんの指示もなく、不意に急上昇する。不利な位置からでも敵機に挑戦しにいったのであろうか? それとも撒()くためか? 指示をあたえれば、おれがいくのに。なぜだ。全速で降下中の私の機と急上昇する達川機、アッという間に遠のき、中尉機を見失ってしまったのである。 私は中尉の後を追うべきか、だが攻撃隊(爆装隊)を掩護しなければならない任務がある。なんたることであろう。私は一瞬迷ってしまった。この瞬間に、攻撃隊編隊は左前方下二千メートルも離れてしまった。全速で降下し近づいていく。海面を見れば魚雷艇であろう、狂ったように円形の航跡を引き、走り回っている。

 わが攻撃隊の頭上五千メートルに接近した時、ついに船団攻撃圏内に到達していた。くるところまできてしまった。

 高度千八百メートル、一番機の安田少尉がバンクしている。突撃の合図だ! 船岡機、原武機もつづく。私も夢中でバンクを繰り返す。いよいよ急降下、突入だ、突入だ! 成功を祈るばかりだ。翼、胴に輝く日本の象徴・日の丸が真っ赤にやけ、私の目には三機が、もう三つの火の玉のように見えた。

「天皇陛下、万歳!」「お母さん!」

きっとそう叫びつづけているだろう。

 ただ一機、敵地レイテ湾の真っ只中にのこされ、なぜ、戦友の最後を、いや、死の瞬間を見とどけなければならないのだ。この時、私の機にも二百五十キロ爆弾をもっていたならば、きっと突入していただろう。突入しなければいられない心境であった。私の機も吸い込まれるように、確認態勢に入ろうとしたその瞬間、桃色とも黄色ともつかない曳光弾の束が、音もなくサーサーと翼の左右をかすめ、ガンガンと機体を殴られる音がした。 一瞬、肩越しにふりかえって見ると、不気味に光る双胴のロッキードP38戦闘機二機が、六百メートルの至近距離に突っ込んできていた。攻撃隊に銃撃がかけられれば、突入目前にして無になってしまう。なんとしても敵機の銃撃を避けねばならぬ。回避も、降下もできぬ。ただ直進あるのみ。一秒でも、二秒でも、三秒でも、時間を稼ぐだけ稼がねばならぬ。もうどうしようもない。火を吹けばゼロ戦もろとも輸送船めがけての自爆を覚悟する。右へ、左へと敵機を睨(にら)みながら、ブランコのように機をふりつづけ、銃撃を避ける。曳光弾が矢のように流れ去っていく。思いきりフットバーを右へ蹴()った。いや、蹴()とばした。からだは石のように堅くなっている。ガン、ガン、キーン、不気味な音と同時に「神様!」と大声で叫んだ。数秒の銃撃をなんと長い時間に感じたことであろう。瞬間、敵機はアッという間に、下腹を見せ急上昇していった。咄嗟(とっさ)に、計器盤、翼の燃料タンクを見る。異状ない。反復攻撃をされるのを直感した私の手先は、もう急反転、垂直に機首を突っ込んだままレバーを全開。轟音とともにまっさかさまに降下をつづける。海面がどんどん追ってくるが、輸送船は一隻も目に入らない。

「命中してくれ、命中してくれたか。もう神になってしまったであろうか」

 浮んでくるのは、ただそのことだけ。

 「いけない!」

 水平に起こさなければ海面激突だ。深呼吸一番、全身に力を込め、両手で操縦桿を引っぱる。ものすごいGだ。「ウー」という呻(うめ)き坤気とともに、目の前がやがて真っ赤になってきた。失神したらおしまいだ。 分かっている、だがたえきれず、次第に真っ赤に燃えた世界に入っていってしまった。何秒たったであろうか、次第に目の前が明るくなり、耳がジーンと鳴っている。そして、現実の世界に戻っていた。意識を回復したのだ。

 幸運にも機は、グングン上昇していた。高度千二百メートル、上昇反転して水平にもどし、気を取りもどす。「ハッ」と息を飲んだ。前方、海上船団のなかから一本、二本、大火災を起こし、炎上中の二隻を確認した。

 「やったのだ! 命中したのだ!。」

胸から熱いものが込みあげてくる。歯をくいしばり見つづける。だが、もう一本の火柱が目撃できない。もう一機はどうしたのであろう。命中失敗か? いや、そんなことはない。それとも敵戦闘機に? そんなことはないはずだ。一隻に二機命中か? それとも轟沈か?いろいろ頭のなかを走る。

  密雲が次第に広がり、タクロバン沖一面を覆おうとしている。急がねば、高度を下げ再確認せねば・・。その時、左斜上、高度差千五百メートルにロッキードP38戦闘機二機が目に入る。

 と、左前方の距離五千メートルに空中戦の三機が目に入った。

「おや、達川中尉では?」

 咄嗟(とっさ)に、機首を左にきった。レバー全開。上昇で近づきながら、過ぎさる敵船団を見る。火災で炎上中、どうしても二隻だ。 またたくまに、空中戦の三機に近づいた。上空よりチャンスを狙(ねら)う。まぎれもなくゼロ戦である。

 「頑張れ……」

 攻撃をかけたP38戦闘機が反転上昇して近づいてくる。ここぞとばかり、いっきに背後に回り込み、一連射をあびせる。手ごたえはあった。だが火も煙もでない。一瞬、不安定となり、右翼より落下しはじめる。深追いをやめて急上昇。 どこへいってしまったのであろう? ゼロ戦を探すが見つからない。なんともいえない寂しい気持になる。

  その時、後尾より攻撃に入ろうとしているロッキードP38戦闘機に気がつく。

まずい戦闘位置だ。ただちにエンジン全速、降下する。追ってくるP38戦闘機を、低空でかろうじて回避しながら、残念だが戦果の再確認を諦(あきら)め、結果報告のためレイテ湾を離脱するしかなかった。そして、燃料の関係で仮帰投地、二〇一航空隊セブ分遣隊のあるセブ島をめがけて飛びつづける。

 海保上飛曹はセブ基地に無事帰投し、戦果報告をすませたが、非情にも、ただちにその場で聖武梅花隊の、今度は攻撃隊員を命ぜられ、出撃してまたも帰還。

 その後も達川中尉機を待ったが、いつまでたってもその爆音は聞こえてこなかった。

  その後、海保上飛曹は十一月二十日に第二高徳隊の直掩,十一月二十五日に第三高徳隊の攻撃隊員と四度出撃して四度帰還。当人は死に神に見放されたと述懐する。

  達川猪和夫海軍少佐は、今治市(旧乃万村)山路八三二―三で、父・静一、母・イツ子の長男として大正十三年十二月二十二日に誕生。弟妹五人(男三人、女二人)、当時としては標準的な家族構成だったろう。松山から海岸沿いの一九六号線を行くと、今治市の入り口近く、短足低頭の「野間馬」で有名な旧乃万村がある。

  この乃万村小学校を昭和十二年三月に卒業し、県立今治中学校に入学した六人のなかに、猪和夫少年がいた。小・中学生の頃には特に目立ったところはなく、六年生になって中学受験の補習授業がはじまった頃から、リーダーシップが目立つようになったと、六人のうちの檜垣賢一、八木秀夫の両氏は語る。

  乃万村から中学への通学路は、達川家の前を通っての一本道だったので、自然にますます親しくなり、遊ぶ予定がきまりやすかったという。ほかの学年と違い、この六人組は年に何回、月に何回などというなまやさしいものではなく、週に二、三回は小学校の校庭に集り、草野球などして遊んだものだったという。あまりに度はずれの遊びに、業を煮やす達川のおばさんの目をかすめるため、誘う時は勉強部屋に小石を投げるなど、それなりの苦労もした。それほどに遊んだのに、実力テストとなるといつも学年で一、二番。やがて四年修了で海軍兵学校に合格してしまう。

 「猪和夫はいつ勉強しよったんかいねや、あれだけ昼は一緒に遊びよったのに」とみんな驚いた。

  今中時代の同級生・大澤徽郎氏(富田小学校卒業)や海兵入校当時のハンモック戦友・泉 五郎氏(千葉市に在住)に、この鎮魂譜の執筆でご依頼申しあげたところ、まさに折り返し貴重な助言や資料を頂戴(だい)した。 

 四男二女きょうだいの次女(五番目)・武方礼子さん(今治市山路に在住)は、長女で猪和夫のすぐ下の鹿寿美姉さんのことを、県立今治高女卒業後まもなく、若い一生を終えただけに、哀れさと懐かしさで次のように回想する。

 九十一歳で亡くなった母イツ子が、「三文字名前がいけないのだ。カスミのように逝ってしもぅた」と悔やんでいたという。兄の猪和夫青年が鹿寿美さんの後を追うように散華したのは、その一年半後であった。

  昭和十七年八月上旬、海軍兵学校の夏季休暇で帰省した時の家の様子を、鹿寿美さんの「夏季鍛練日記」から拾ってみる。

「八月十二日(水)晴、起床午前六時十分、就床午後十時、今日は朝寝坊をしてしまった。急いでお掃除をすまして、朝食を食べて母の服を縫い始めた。少ししていると母が青島から帰られた。叔父様がおいでるかも知れないから、少し買物に行って頂戴(だい)とおっしゃられたので買物に行った。しかし今日も思うような品物がなくて困った。帰ってみると時計が遅れていて、昼食の支度がおそくなったので、一生懸命手伝ってあげた。昼食後は母の服を縫い続けた。二時頃、町の叔父様が又、兄さんのことで来られた。少し話してから帰った。 夕方の炊事も母と二人でした。そして兄さんに食べさせようとしたが、気分が悪いといって少ししか食べなかった。それで皆心配した。母なんか非常に心配せられた。夕食後風呂から出て、母の服を縫いかけたが、眠くなって床についた。すると兄さんが帰って来た。今日は割合に早かった。でも非常に心配した。そして兄さんはピカピカ光る日本刀を持って帰って来た。こんなもので人間の首切るのかと思うと、心が寒くて冷汗が出るような気持ちがした。

兄さんの休暇もあと明日きりと思うと悲しくて淋(さみ)しい気持ちがした。

八月十三日(木)

 今日も朝寝坊をしてしまった。急いで掃除をすませ朝食の支度をする。兄さんはご飯を食べずに刀のことで町へ行った。兄さんが帰るまでにと色々と炊事に忙しかった。なかなか帰らず正午過ぎに帰って来た。昼食後もお弁当やらお見舞品等を整理するのに忙しかった。時間は次第に過ぎて三時近くになった。それで兄や母や妹や弟等は急いで行く支度にとりかかった。私は、今年は行くのをやめて弟の守役となった。支度が出来てすぐに、家を出てバス乗り場へかけつけた。私はそのあとでお掃除をしながら、何か忘れ物はないかと兄さんのいた部屋を探していると、懐中電灯を忘れていた。それで、お掃除もそのままにして一目散にかけつけた。すると未だ近所の叔父さんや父と話していた。でも間に合ってよかったと安心した。また帰って小説に読み耽っていると、四時を打った。しかしまだバスは下って来ない。 少ししていると来て、それに乗って行ってしまった。去年行くときは、そんなに思わなかったが、今日は何だか涙が出そうで仕方がなかった。

 学校を卒業すればもう命はないのだといつもいわれるので。夜は何となく寂しかった。

 とにかく猪和夫青年は、友達を大事にする人間で、しかもまことに筆まめだった。六人組が顔を揃(そろ)えた最後は、昭和十七年八月、温泉郡立岩村に、小学校六年の時の担任だった高市先生を訪ねた時である。檜垣氏自身は東京遊学中で、彼が海兵から霞ヶ浦海軍航空隊へ配属の直後と、神ノ池航空隊へ転属直前に会ったと記憶しているという。昭和十七年七月二十一日、江田島より檜垣賢一あてのはがきにはー

「貴簡拝読、炎暑の候、貴兄ご健康の由、めでたく存じ候。小生、例の調子にて至極元気に努め居り候。貴兄ご帰省を存ぜずして学校宛愚書を奉り候。貴兄お望みの写真をその中に入れ居り候。貴兄のお手許に入るは日時を要せんと存じ候間、また、該書と重複してお願い申上げる次第に候。小生、今般夏期休暇許可される予定に候。戦時下に休暇とは実に有難き事にて、ご主旨を体して意義あらしめるべきと考えおる次第に候。

 この度は又となき機会なれば、貴兄達と揃いたるを幸いに高市先生を訪問致したく存じ候。期日は四日より七日頃まで、任意の時にてよろしく候。貴兄のご都合如何候や。なお横田、八木、その他の諸兄の状況等、ご多忙なれども、折り入ってお願い申上げ候。ご一同様によろしく 頓首」

  昭和十八年九月十五日に一号生徒を終え、ただちに霞ヶ浦海軍航空隊に入隊する。海兵卒業後の半年間、七十一期までは、海空ともに艦隊実習が課せられたが、戦況の逼(ひっ)迫、とくに航空機搭乗貞の消耗を急いで補充する必要と、実習艦艇の被害、消耗に対応する必要から、この措置がとられたものだろう。ちなみに、航空機搭乗員の大量養成を狙(ねら)った「学徒出陣」が決定されたのはこの約一か月前であった。霞ヶ浦を経て操縦専修となり、「神ノ池航空隊」に転属し、戦闘機パイロットとしての技術を磨くことになる。

 やがて昭和十九年八月、実施部隊である「宮崎航空基地」に移り、ゼロ戦操縦に専念する。 この地から最後と思える手紙を両親あてに送っている。

 昭和十九年十一月三日消印 書留(二十七銭) 

宮崎甲八七四 達川静一様宛

宮崎市宮崎海軍航空基地気付

ウ三〇七士官室 達川猪和夫封

 

拝啓 炎暑烈しき折、皆様ますますご健勝の段慶賀に候。戦争はますます苛烈、言語に絶する重大事態に立ち至り候。

 私この先七月末、飛行学生の教程を卒業。技量及ばずながらも、実施部隊へ出動の事と相成り、当航空隊へ着任致し候。一日も早く役に立ちうる実力を涵養すべく、現在専ら錬成に努め居り候。健康状況は至って好調、大いに元気に勤務致し居り候間、ご安心下されたく候。

 神ノ池空より転勤の際、携行物件の簡易化の為、不必要なる品々を取り纏(まと)め行李一個とし、マル通運輸便にて今治駅止めにて送り仕り候。現在マル通便は相当遅れる模様に候。時機を得次第、今治駅又は港にて御受取願上候。なお右の品々は、私実施部隊勤務中は、不必要に付きその間保管致し置かれたく候。

 随分ご無沙汰致し居り誠に申訳もご座無く候。その間故郷の状況も色々と変わりおる事と存じ候。洋行の受験の成果、その他悦男の事等、折あらば、御一報下されたく候。猪和夫もいよいよ本当にお役に立ち得る配置にある事をお悦び下されたく候。国事多難、一億総武装の折、奮起して期待に添わん事を決意致し候。

 父上、母上様もますますご健康にて

             敬具               

猪和夫

 まぎれもなく、散華される十日前の発信である。この手紙を最後に、音信なく、遺書となった。まさにあわただしいかぎりの内地進発、そしてマバラカットからの特攻発進であった。 親や弟妹を思い、故郷の乃万村の山道や緑樹を想(おも)う、そんな暇があったろうかと痛ましくてならない。

 人生十九年十一か月と二十日間、人間としては文字通り短い花の命であった。

 市内山路にある瑞泉寺墓地の墓碑銘には「特攻院武烈衛鑑大居士」とある。

(なにわ会ニュース89号45頁)

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