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平成22年4月27日 校正すみ

我が子 土屋睦(あつし)の思い出

母 土 屋 さとじ

 嬰児を逆さにして振る、背を叩く、温水・冷水に交互に入れる、ゴム管を気道に入れて吸う、伯母三浦外志医師の努力で凡そ三十五分にして漸くオギャー、土屋 睦(あつし)が誕生したのは大正十三年二月二十三日でした。

 生後六カ月には這い出したので、一年で歩くようになると予想しましたが百日ぜきで二カ月遅れました。二か年目の正月、私の実家で、祖母の手を引いて書き初めが沢山貼ってある処に連れて行き、「おばあちゃん小さい(る)があるよ」と書き初めの一つの「富岡はる」という名前の(る)の字を指差して祖母を驚かせました。実は実家で書き初めの「千代のはる」の(る)の字を「これ何だい」と掃除中の私に尋ねたので、「はるの(る)」と教えて掃除を続けたのですが、それで(る)を覚えていたのでした。祖母が(し)と(り)を教えたらすぐ覚えたのには二度びっくりしたそうです。帰宅後犬棒カルタに興味を持ち、叔母と遊んでいるうちに三カ月程で、絵札を並べ、読み札を叔母に読んで貰って全部取れるようになりました。三歳頃三輪車が店頭に出始めるとおじいちゃんが早速買って与えました。するとすぐ乗りこなしました。小学校に上がる前に、家中一緒の時でしたが、「おじいちゃん幾つ?」「五十三」「おばあちゃんは?」「五十一」「二人で一〇四だ」 「父さんは、母さんは、叔母ちゃんは?」と聞いて、自分、弟、全部で幾つと指も使わずに数えたのには家中びっくりしました。このように幼い時から知恵も運動神経も進んでいました。

 小学校に入った頃は勉強しないのに成績が良かった点を除けば、明るく元気な田舎の子の一人で特に目立つ子ではありませんでした。学年が進むに従って教科書以外の本を手当たり次第に読みあさるようになり、次第に口数が少なくなりました。吸収した知識を整理し蓄え、子供なりに将来の進路を模索しているような気配がありました。

 中学は難関上田中学を受けて合格、当時は村で受かる人が出るのが珍しい時代でした。中学に進んで新しい競争相手を得たことが、睦の向上心を刺激したようで、進学を目指して勉強するようになりました。勉強だけでなく弁論部に加わり、又運動は弓道部に入って熱心に練習に励みました。県下の忠霊殿奉納試合で優勝、「上中の土屋」の呼び声が高く上がった時は鼻が高かったと同行者がみやげ話に話してくれました。

 何時頃から海軍を志すようになったかは此の私も知りません。誰にも相談することなく、自分で決めて受験したのでした。海兵合格の通知が来た時、日頃口数が少なかった睦が、間口九間の家の台所から座敷までを、好きだった北大の寮歌を声高らかに歌いながら、大手を振り闊歩して数回往復しました。後にも先にも一度きりのはしゃぎようでした。余程嬉しかったに違いありません。江田島からの第一信は「入学を許可されました。此処の蜜柑はとてもおいしい。ご両親様にも食べさせてあげたい。」とあって、親思いの一面が出ていました。共に忘れられない記憶です。兵学校で鍛えられて軍人らしく成長して行く姿を、休暇の度に見るのは楽しみでしたし、頼もしい限りでもありました。二年後に弟も海兵に進み、夏の休暇に二人揃って帰省した時は、わが家が海軍色に塗り替えられたようで、大変晴れがましく感じましたが、同時に戦局の行方が気になりました。

卒業式後の表桟橋迄の行進の模様は七十四期の弟から知らせて来ましたが、その後音信が途絶えたので、宛先を太平洋方面として手紙を書く以外に術がありませんでした。二カ月後に霞空よりの便りがあって、胸をなで下ろしたことでした。百里空時代も任官したという以外は務めのことは何も話しませんでした。或る朝、火燵(こたつでマントをかぶって寝ている睦を見付けました。課業が済んでから常磐線、信越線を乗り継いで来ると、当時の交通事情では小諸着は朝の三時頃になりました。親を起こすのも気の毒だからいうので勝手知った入口から入り、一寝入りしていたのでした。帰るのはその日の昼頃の汽車でした。こんな帰省が屡々でしたが、「今の親孝行はこれ以外にない」と従兄には語っていたと後になって知りました。

その頃「兵学校では軍艦に故障が出たら軍艦を止めろと学んだが、飛行機が空中で故障した時はどうしたものか〕、こんな言葉を漏らしたことがありましたが、その時から親に覚悟させる積もりの言葉であったかと今になって思います。飛行学生教官にとの話があったのに、実戦に参加するのが奉公と断って、望んで前線へ赴任したことも後日聞きました。

鈴鹿空、鹿屋空と転戦、最後は高雄基地から出撃、レイテ島沖の上空で偵察中に散華したのは昭和二十年一月十五日、その日は奇しくも私の誕生日でした。

戦死の公報を受け取ったのは祖母の出棺の日の八月二十九日でした。覚悟はしていたものの、敗戦後の戦死の報せはこたえました。

最後に送って来た荷物の中に戦死の報ある時開封のこととした書した包みがありました。開けてみると葬儀用の軍帽、海軍中尉の軍服、短剣等の軍装表、遺髪、爪と共に恩賜の時計が納められていました。飛行学生卒業の際恩賜の時計を戴いたことも親に知らせず死んでいった睦の覚悟の程を思って涙が止まりませんでした。

 遺骨を頂いてきて箱を開けて見たら、紙切れしか入っていませんでしたので、遺髪、爪を納め、遺品と共に葬りました。

 後日仏壇を整理していたら奥から  「雲染めて散るや万乗の桜花」の辞世の句が出てきました。

その辞世を毎日心の奥に噛みしめてもう半世紀がたちました。
睦の分も生きて私は百歳の齢を重ねました。

     (平成九年二月十五日記す)

(註)土屋さとじ様は、平成九年三月四日、百歳の天寿を全うし、逝去されました。

なお本稿は『いざ百歳に試みん』『長野県立上田中学出身者ネービー列伝』から転載した。

(なにわ会ニュース79号31頁 平成17年9月掲載)

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