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平成22年4月24日 校正すみ

牛尾久二の墓参

柴田 英夫‥

 平成六年霜月半ばの十一月十四日東京から博多に向う「ひかり37号」6号車に新大阪駅で二組の老夫婦が乗り込み、車内で待っていた老人と合流、男三人と女二人が並んで坐り、楽しそうに談笑を始めた。

 車内にいたのは加藤孝二、新大阪から乗ったのは高松、柴田の夫婦である。一号の時、五〇分隊で苦楽を共にした同期の桜で、神風第一正統隊員として沖縄沖の米艦隊攻撃に出撃、帰らぬ人となった牛尾久二の墓参に向う旅であった。

 還暦クラス会に際して墓参をした加藤が主役で、牛尾の少年時代の逸話、長兄美鶴氏が丘の上にある墓までスイスイ登られ、ついて行くのが大変な位であった話など、追憶談は尽きることなく、窓外の景色に眼を移す暇もないうちに二時間半は過ぎ、一三五二列車は小郡に到着、加藤の記憶力の良さに感服しつつ、あわてて飛び降りた。

 駅には、牛尾と中学同期生の尾山貢君(七三期 五〇分隊二号)、小野宗平君(七四期)の二名が自家用車で迎えてくれた。両名とも近くに居り乍ら未だ墓参りしてないからと喜んで案内を引き受けてくれたものである。俺達一同、感謝感激。

 地元二人の計画に従って、秋青台経由、滝部温泉に一泊、山口県の地図を見ても滝部温泉は見当らない。山陰本線に滝部駅(豊北町)があり、尾山君の義弟が温泉を掘り当ててホテルを建て、この名称を付したもの。牛尾のお蔭で有意義なミニ分隊会となり、生徒時代の想い出話に時を過す。加藤が「或る時、牛尾が今日はどうしても二号をしめなけりゃ、と云い出した。一号が止めても聴かなかった。尾山にはどうした」と尋ねたところ、「いやあ、他の者に対すると同じに見えたが、顔には空気だけ当りました」と。牛尾が百里空の教官時代、予備生徒に「貴様達、徒死してはいかんよ」と云ったと云う話を思い出した。

 翌朝は十時、牛尾家訪問の約束に合せて出発。牛尾家のある美祢市大嶺奥分まで約三五km、道路はすばらしく整備され殆んど信号も無く、行き交う車も数台、黄葉した潅木の生い繁る小高い丘の間を走ること約四〇分で到着した。

 牛尾家は美鶴氏が元市長、隣家の長男一氏は現市長、名家であるが構えは質素で人柄が偲ばれる。市長は我々の為に貴重な時間を割かれて歓迎して戴いた。ご迷惑をかけ申し訳なく恐縮する。

 座敷に案内されて、先ずご仏前に線香を手向け、牛尾の霊に手を合せ、上を見ると額に納められた久二君の温顔がにこやかに微笑みかけてくれた。

 今日は五才の頃から久二君を養育された嫂から話を聞けると期待して訪れたが、三年前脳卒中にかかり、老人福祉施設でリハビリ中との由、ご無沙汰を後悔するのみ。

 市長さんは久二君の七才年下で「物心ついた頃には勉強の良く出来る優しい叔父さん」という印象だけあるとのこと。想い出話は専ら長兄から伺った次第。(詳細は会誌50号の加藤記に譲る)

 百里空時代のアルバムを見せて戴いた。中で特に眼に止ったのは、丸々とした童顔の風間萬年(作業服姿の生徒)の写真であった。

「優しい中にも芯の強い男」と注がついていた。五年前の六月加藤と二人で会津の喜多方市に風間家を訪れ、墓に詣でたとき「功三級海軍少佐風間萬年」(旭日隊特攻隊員として顕著な戦果)と刻まれた碑を思い出した。

 牛尾家の墓は車で五分程の丘にあり、麓から歩く、一〇年前シャンシャンと歩き先に立って加藤を案内された美鶴様も病に罹った上、八六才の高齢になられ歩行困難な身体にも拘らず、杖をついて案内して下さった。弟思いのお兄様という感を深くした。

 ご両親の側に建つ碑には、母島で戦死された十一才上の知二様と仲良く戒名が刻まれていた。墓前に花と線香を供えて合掌。眼をつむると「貴様今頃来て遅い、でもよく釆てくれた」と怒鳴ったり、慰めたり、久二の声が聞えた。

 加藤が自作の歌「期友を偲んで五〇年」を献歌。聞いている者は胸つまってむせび泣き、歌う本人も感情が込み上げて途中で歌詞を忘れてしまう。続いて参列者一同で「同期の桜」を捧げ、涙を新にして「牛尾眠れ」と祈り、もみじ葉の丘に別れを告げて下る。

 下の道で記念写真を撮り、美鶴様のご健勝を祈りつつお別れの挨拶を交し帰途に着く。

 市長夫人から庭になったものですと柚子を沢山頂戴。帰る途中で市長様から市内の料亭に案内され大変ご馳走になる。皆様の暖かいもてなしに感謝申し上げ美祢市に別れを告げた。

  友を偲んで五〇年

         作詞 加藤孝二 曲 「☆影のワルツ

一、 先に逝くのはつらいけど   僕の努よ 国の為

   こらえて下され お母さん 滾る血潮の梓弓 父さん 母さん お達者

二、戦敗れて生き残り  倅を失した父・母様に

   後ろめたさの五〇年 澄んだ瞳の亡き期友と 心で語った五〇年

三、せめてあの世で会うた時 貴様と俺との語らいが

  出来る様にと生きて行く 互に眼線をはずさずに お粗末話しを語らうよ

  互に眼線をはずさずに 微笑含んで語らうよ

 

(なにわ会ニュース72号39頁 平成7年3月掲載)

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