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平成22年4月21日 校正すみ

戦時中の思い出・『ミンドロ島』突入作戦

足立 之義

足立 之義 巡洋艦 大淀

はじめに

 この記録は旧乗員用に昭和47年に発行された『軍艦大淀』という部内誌を、当時の航海長兼副長 故内田信雄氏(海兵55期 当時海軍中佐)の『大淀と共に』の記録を使って再録したものである。 小生は当時(昭和1911月)第3分隊士・左舷高角砲指揮官として、また、故及川久夫は第1分隊士・発令所長として、この作戦に参加した。

 

リンガ

 「リンガ」はシンガポールの南100マイルのところにあり、広大な湾で、ブルネイ部隊と南方部隊との合同訓練地となっていた。

 1127日、リンガ泊地からシンガポール(昭南)に向う。午後7時、狭水道を通過してセレターに入港する。大浮ドックには重巡妙高が入っている。入港して、半舷上陸があり、乗組員には全く久方ぶりの上陸であった。そして、ジョホールバルなどの市街地見学、珍しい「日本の田舎者」振りを発揮、浩然の気を養ったのである。

 1130日、重油、弾薬、食糧の搭載を終わった大淀は、再びリンガの泊地に向け出撃した。特に、夜戦を主に訓練が再開され、士気は大いに上がっていった。

 

礼号突入作戦

 リンガ泊地の戦闘訓練が、激しさを増していた昭和191220日、大淀は久しぶりで素晴らしい作戦命令を受け取ったのである。

 この作戦の概要は次のようなものであった。

 敵の比島における第2の足がかりのミンドロ島の南端「サンホセ港」(マニラの南方70マイル)が、益々その活動を活発化し、基地強化を図っている。これを未然に壊滅するための水雷戦隊との協同作戦である。

 作戦部隊の指揮官は、第2水雷戦隊司令官木村少将で、これに従う主力は重巡足柄とわが大淀の2隻である。

突入部隊の編成

主力部隊  足柄 大淀

直衛部隊  2水戦 清霜 朝霜 霞 杉

協力部隊  比島水上基地飛行機隊

支援隊   伊勢 日向 

その護衛艦 樫 榧

 本作戦は特に隠密(おんみつ)()に計画されたもので、部隊は当初から無線封鎖をもって行動、指令を受けた艦艇は、昭南軍港へも個々に集結し、燃料、食糧品等を満載し、すべての臨戦準備も慎重に行い、日目同港を出撃した。

 航行中の連絡、作戦命令は、すべて手旗信号を以ってするなど、全くの隠密作戦から開幕されたのである。

 出港2日目の夕刻、カムラン湾に入泊して、敵の情報探知と駆逐艦への最後の燃料補給を行い、翌朝早く、仏印沿岸を北上、更に東に変針し、敵哨戒線の外側に沿って接敵航行を続けていった。航行することさらに2日、部隊はミンドロ島北端を去る数10マイルの地点に至り南東に変針、接近行動に入ったのは午後の2時頃であった。

 本地点まで、全く敵に探知されずに到達したことは、本作戦の成功を思わせたのであるが、変針後約1時間、左前方にB-29敵哨戒機1機を発見する。敵機はわが部隊の存在を気付かぬごとく、南方に飛び去ったが、部隊は直ちに対空警戒を厳にして敵空襲を待ち受ける。

やはり、敵哨戒機はわが兵力、行動を打電報告していた。それから飛び交う敵の生電報は、あたかも蜂の巣をつついたような騒がしさを示してきたのである。

 部隊は増速、ミンドロ島の山影にとっつき、高速をもって島西岸に沿い80マイル先の目標サンホセ目指して、一挙に南下進撃して行った。

 淡く見えていた薄月がその影を没すると、海上は早くも闇に包まれる。僚艦の立てる全速力の航跡波だけが、白く泡立って見えるのみ。

 やがて島の北端に近い『バルアン湾』の上空から敵夜間爆撃機の一団が後方より襲いかかってきた。暗夜の目標確認のためか、それとも一発必中の勇猛さか、超低空で突っ込んでくる。

大淀自慢の高角砲は応戦出来ない。機銃がこれに代わって必死の防戦、墜落機が艦の右横に水煙をあげる。上空にパラパラと火花が散ると、間もなく、艦体に霰のような音を立てて降る。これに逆行して、大淀の曳光弾が向っていく。一瞬奇麗な夜景を描く。

 緒戦、早くも先行直衛の清霜が被弾。煙突中央の直撃弾が缶室で爆発する。その真横を通過した時、清霜は火災を起こして、機関停止の状態となっていた。沈没は時間の問題だが、これに救援の手を差しのべる余裕はない。

大淀の艦上では、敵機迎撃の機銃が、銃身を赤熱(しゃくねつ)化して撃ち続けているのだ。

 極めて勇敢な敵機の攻撃は、マストにひっかかって海面にもんどり打って突っ込むものもある。1時間を越える攻防戦は死闘の名に恥じない激しいものであった。察するに、『一死以て敵部隊の侵入を阻止すべし』に似た厳命を受けていたのであろうか。敵夜間戦闘機部隊の優秀部隊で、天晴れな攻撃隊であった。勇敢な攻撃隊であっただけに、多くの撃墜機を残し、引き上げていった敵機の数は多くはなかった筈である。

 第1の敵抵抗線は、かくして排除突破することが出来たが、間もなく第2抵抗線の出現である。それは、レイテ海戦に活躍した敵魚雷艇隊である。大淀高角砲の水平射撃でこれに斉射を注ぐ。『夜の目』を以って任ずるわが夜戦部隊の前には、近付くことも出来ず、煙幕を張って去っていく。これが先の夜間爆撃隊との協同攻撃であったならば、敵は相当の戦果を挙げていたことであろうが、わが部隊の隠密接近の成功が、敵をしてその時間的余裕を失わしめた結果に外ならない。

 後はもう突入部隊の独断場である。港内停泊船6〜7隻に砲雷同時攻撃を反復する。港内を南進、反転北進、右砲戦から左砲戦、訓練時のようである。味方機の誘導により、沿岸施設や軍需物資の集積所を次々と砲撃、足柄が発射した照明弾が、その上から全(ぼう)を見せてくれる。攻撃してくる敵機もない。部隊は悠々と砲撃を続けながら、島の中央近くまで北上して(ほこ)をおさめた。時に午前時ごろであった。

 指揮官は本隊に西行を命じ、自らは駆逐艦に座乗し、昨夜沈没の清霜乗員の救助の為、現場に急行、多数の生存者を救助して、再び本隊と合流、支援隊の待つサイゴン沖に向った。

 話は戻る。昨夜、突入前に急襲してきた敵夜間攻撃隊を迎撃する大淀にとって、暗夜の爆撃回避は、昼間のそれと異なり、きまった方法をとることは出来ない。精一杯走って、蛇行運動をするより外に手はないのである。ただ、艦に向って来襲する前に、銃砲弾を浴びせて追っ払い、これを突破して直上に来るものあれば、下からねらい撃ちということになる。

 この交戦で、大淀も遂に直撃弾を受けたのである。

「第1煙突横 1米に爆弾命中、目下調査中」

「第1缶室 第2号缶消火、第1缶室閉鎖、全員第2缶室に避難完了、異常なし」

 機銃音、至近弾による震動、射撃指揮官・伝令の怒声、あらゆる高音の錯綜する中に不思議と爆発音はなかった。

 闘い終り、早朝、この直撃弾の実体を知った乗組員は、正に慄然(りつぜん)とした。大淀の受けた直撃弾は、なんと発の250キロ爆弾である。1発は上甲板を貫き、参謀長室を斜めに横切り、左舷舷窓の下に、70p程の大穴を開け、海中に突入したものであり、他の1発は、煙突左横1米を真下に落下、三甲板を貫いて、第1缶室の2号缶上1米の鉄格子の上に、横臥していたのである。

 これが、大淀に何度か起こった『幸運の奇跡』のうち最大のものであった。

それが共に、不発弾であったとは。

 昭南入港後、決死的な工員によって、この爆弾が信管の装填のないものであったことが確認され、爆発が起こらなかった一つの要因は解決された。しかし、三甲板を一直線に突き破った250キロの爆弾が、僅か1センチにも足らぬ荒格子のプラットホームを貫通することなく、急速に速力を落して横臥するとは、科学的にどう解決すればよいのであろうか。

 この時点において、もし爆発を起こしていたならば、1、3号缶は誘爆を起し、高温・高圧の最高に上昇されていた蒸気は、さらに誘爆し、大淀の運命はどうなっていたであろうか。思うだけでも「肌に粟を生ずる」ものがあった。不意打ちの突入に、周章狼狽(ろうばい)した敵が、信管の装填を忘れた発の爆弾、緒戦清霜に命中したものは信管を持つ発であったことを思えば、まさに「幸運」の二字につきる。 

例え信管がなかったとはいいながら、垂直に近く三甲板を貫くほどの加速度を持った爆弾が、缶の直上に至って、俄かにその速力を消滅した現実を見ては、あたかも、神の御手がこれを抱き止められたものとしか表現の方法がない。今もって、乗組員の間にはこの出来事を「神仏の加護」と信じられているのである。

 本作戦が、両軍必死の攻防戦になっただけに、その被害は両者ともに大きなものがあった。敵に与えた損害は、夜間爆撃機を最大とし、サンホセ港停泊船舶・軍事施設・軍需物資など、極めて甚大であった。しかし、わが方の被害も決して少なくない。清霜の沈没、足柄の被害(これは爆弾によるものではなく、撃墜された敵機が、左舷後部に激突したもので、後部電信室・上部構造物を破壊し、更に敵機エンジンが燃え、このため後部応急員に多くの戦死者を出すという恨み深い被害であった。)また、水雷戦隊にも多くの犠牲者を出したのである。

 この中にあって、大淀は2ヵ所の破口のみで、乗組員の被害皆無という上首尾をもって本作戦を終わった。

 サイゴン沖仮泊中、敵哨戒機の出現を見たので、翌朝出港、各艦は昭南とリンガ泊地へと帰って行った。大淀は不発弾の処置のために、足柄は後部損傷箇所の修復工事のため、昭南に止まった。

本作戦の終結は、不発弾処理完了の日、即ち昭和191230日となっている。

(なにわ会ニュース8939頁 平成15年9月掲載)

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