平成22年4月17日 校正すみ
米国B29偵察機撃墜
相澤善三郎
その1
昭和19年7月に41期戦闘機飛行学生教程を修了した私は、同期8人と岩国基地の第332空に着任した。同隊は、呉軍港地域の防空を主任務とし、搭乗員は制空とB29邀撃の訓練を行っていた。11月4日、零戦20機が71期竹田中尉を隊長としてフィリピンに出陣した。12月に入るとB29爆撃機の大編隊による内地の主要工業地域への爆撃が始まった。332空は、この様な状況のため、一部を岩国に残して、関西地区の防空のため、主力は年末に川西航空機の鳴尾飛行場に進出した。
昭和20年になるとB29偵察機の飛来が頻繁となってきた。B29爆撃機の編隊による大規模爆撃には、事前に偵察機による綿密な偵察を行っていた。
1月20日頃であった。天気晴朗、冬空独特の一点の雲もない晴天の大空を日本海若狭湾上空から反転して関西方面に向うB29偵察機ありとの中部軍管区からの情報により、午前8時過ぎ頃、私は零式艦上戦闘機に搭乗し、1機を伴って2機で発進した。私の搭乗機はかねて熟練の整備員に頼んで10,000m以上に到着出来る様にエンジンを調整してあった。
素晴らしい上昇力であった。約30分で計器高度10,500m(実高度11,000m)であることを確認した。丁度その時、地上の指揮所から「カラスはスズメの約1,000北にあり」との電話連絡を貰った(註:カラスはB29、スズメは零戦の略語)。
来た、見えた、チャンスだ。
「慌てるな」
「馬力は地上の二割もないぞ」
「失速したら終りだぞ」 地上で反復練習した言葉だ。
静かに左旋回して廻り込む。静かに、静かに、そっと。
B29のでかい胴体が目の前に見えたぞ。引金も落ち着いて引けた。20ミリ機銃左右2丁から曵痕弾がB29に吸い込まれる様に飛んで行く。
はっと気付いて我に帰ったと思ったら1,000mくらい高度が下がっていて、偵察機は前上空を飛行しており、大きな機体の主の主翼であった様に覚えているが、エンジンの付け根付近でもあったような気もしたが、数箇所から真黒い煙を間歇的にパッーパッと吹き上げながら南方に飛び去っていった。生駒山上空であり、二番機は上昇高度9,000mくらいであった。直に飛行場に帰り、司令第52期柴田武雄大佐、飛行長第60期山下政雄少佐に報告に向ったが、終始観戦されていたので報告は無用で「でかした」の一言を頂いた。
注:飛行場帰投から30分経った時、中部軍管区から電話で、潮岬南方海面に米軍機1機が墜落したが、陸軍からの攻撃はなく、332空で攻撃した飛行機があったかとの問合せがあり、墜落した飛行機は小生の攻撃によるものと決まった。
その2
第332海軍航空隊は関西地区の防空を担う部隊であって、零戦と雷電が主力戦闘機であった。
昭和20年1月から3月までB29爆撃機による数回の昼間爆撃があり、その都度邀撃戦に出撃した。4月に入ると米軍の沖縄作戦が苛烈となり、海軍の最前線の鹿屋基地は連日のB29爆撃機の波状攻撃(不規則な時間差攻撃)を受け苦戦していた。
4月20日頃、厚木の302空の雷電25機と332空の25機、計50機が鹿屋基地に進出して、302空の飛行隊長第64期山田九七郎少佐の指揮下にはいり、連日熾烈な邀撃戦を行った。敵機が爆撃中に着陸して、燃料を補給して急発進し、次の編隊を攻撃する事も度々であった。
また、悲壮の一語に尽きる特別攻撃隊の出撃を3度も見送った。
5月の20日頃には、B29による関西地区の大爆撃が始まるとの情報が入り、雷電戦闘機隊は急遽原隊に戻った。
情報通り6月1日から5日まで関西地区の大爆撃が始まったのである。といった変遷極まりない激戦の中なので、4月12日のB29偵察機の撃墜の状況は詳しくは覚えていない。
(注)次のインターネットの記事では相澤善三郎大尉となっているが、我々が大尉に進級したのは20年6月1日であったので、4月12日はまだ中尉であった。何らかの間違いで大尉と記載されている。ここではインターネットで見たまま掲載した。
インターネットで見つけた相澤善三郎君の撃墜記事
米軍機、名古屋に向け写真偵察に離陸後応答なし。行方不明
日本海軍飛行第332航空隊 相澤善三郎大尉操縦の零戦により熊野灘に撃墜されたものと推定される。
墜落日時 1945年4月12日
墜落位置 熊野灘
所 属 第20空軍第3写真偵察隊
攻撃目標 名古屋市写真偵察
墜落原因 戦闘機
(海軍飛行第332航空隊 相澤善三郎大尉操縦)
(なにわ会ニュース93号19頁 平成17年9月掲載)