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平成22年4月18日 校正すみ



第一潜水隊 太平洋を行く

パナマ運河・ウルシー環礁の米機動艦隊の攻撃を狙って 

矢田 次夫

ワンダフル! ビッグワン!

伊401潜 矢田次夫


 昭和20年9月2日,わが国は、連合国に対し東京湾において米国戦艦ミズリー艦上で降伏文書の調印を終えた。

その後米軍をはじめ連合国軍の海軍の高官たちが次々と横須賀の海軍基地を訪れた。それはそこに並んで係留されている伊401潜水艦、伊400潜水艦及び伊14潜水艦(第1潜水隊という)を視察するためであった。

ここに勢揃いしている第1潜水隊は大東亜戦争末期、即ち昭和20年6月〜8月頃太平洋上で組織的な作戦行動を展開していた我が海軍の唯一の戦闘部隊であったといえよう。

当時としては文字どおりの「トラの子」部隊として期待が寄せられていた。

ところがここには最新鋭、最強の素晴しい容姿ではなく、敗戦の号令とともに、あらゆる武器や装備弾薬類をすべて捨て、マストから我が軍艦旗を降ろして米国の星条旗を掲げさせられた悲嘆の潜水艦の姿であり伊13潜水艦を失った第1潜水隊の全艦である。

来訪のこの高官たちは口々に 「ワンダフル」「ビッグワン」 と声をあげた。その潜水艦を見たものは誰でも間違いなく発する第1声であった。「大日本帝国海軍」といって名実ともに世界に冠たる誇りを持っていた我が海軍には 装備の面でゼロ戦(戦闘機)や酸素魚雷などの優れたものがあったが、中でも戦力の根源となる艦艇では戦艦大和、武蔵というまさに世界に類を見ない超弩()級艦があり世界の驚きであった。

ところが余りにも知られていないもう一つの超弩級艦があった。これが諸外国の海軍の高官たちに「ワンダフル」を連発させた伊400型の潜水艦である。攻撃機3機を搭載して約6000トンの巨体を瞬く間に水中に潜没することができる俗に「海底空母」とか「潜水空母〉とか言われたこの驚くべき潜水艦を一般の国民は見ないまま、知らないままに建造段階からの秘密裡に終わってしまった。

残念に思うのは戦艦「武蔵」はフイリッピン海域で また戦艦「大和」は沖縄海域で衆寡敵せず散華していったが もてる能力を遺憾なく発揮し驚異の戦力を世界にみせつけたのに比べ 世界に誇る第1潜水隊は本来の潜水艦としての機能も おそるべき航空機の攻撃力も何も発揮することなく、敗戦を迎えたことである。既に戦況の不利は深刻で戦勢を回復することは出来ないとしても、せめて目をみはらせる戦力を世界に見せてやりたいと当時の乗組員は等しく念願していたのに夢と消え失せてしまった。ただ第1潜水隊は極秘裡に一刻も早く編成し、練成して第1線の渇望にこたえるべく血の出るような訓練に突入したが、道は平坦ではなかった。私は当時海軍大尉(22歳)で伊401潜の砲術長として乗り組んでいた。当隊には次の「なにわ会」会員が乗り組んでいた。  (敬称略)

第1潜水隊付    山口 勝士(経)

伊 13潜 乗組   鈴木  脩 

同     乗組   林 清之輔(機)

伊 14潜 砲術長  高松 道雄

同     乗組   松田  清(機)

同     乗組   海原 文雄(機)

400潜 通信長  名村 英俊

同     特攻隊長 吉峰  徹

同     乗組   森川 恭男(機)

401潜 砲術長  矢田 次夫

同     乗組   福嶋  弘(機)

 

第1潜水隊の新編 ままならぬ訓練

第1潜水隊は昭和191230日、伊400潜の竣工(呉)と同時に、既に昭和191216日竣工(神戸、川重)していた伊13潜との2隻で新編された。その後わが伊401潜が昭和20年1月8日(佐世保)に、伊14潜が昭和20年年3月14日(神戸、川重)に完成し編入され、最新鋭4隻の潜水艦部隊となった。そして昭和20年早々から瀬戸内海西部で猛訓練に突入した。

この部隊が遠大な計画の下に建造され編成されたことは、われわれ下級士官には細かくしるよしもなかった。ただ素晴しい潜水艦の乗組みになったと誇りにも感じて頑張らねばと思ったが「なんとデカイ」潜水艦と驚嘆した。

後で述べる対米本国,対パナマ作戦などは軍令部や艦隊司令部にとっては本命の戦略や作戦の課題であったであろうが、砲術長などの若い下級士官にとっては戦略や戦術を論ずる知恵もない。ただ身体を張って走りまわったという記憶が強い。

早急に練度術力を練成しなければならない潜水艦は、その本命である潜ることが何の不安もなく短時間に出来なければ作戦には間に合わない。とりわけこの潜水艦の特質である攻撃機の運用が円滑に実施できなければ役に立たない。これは艦長以下乗員一同の当面の緊急の課題であった。

潜航のためには各部各所の緊密な連携や緻密な計算が必要であるが、私は最も若い甲板関係の士官であり、哨戒当直員の潜航に際しての艦内への退避突入訓練を引き受けた。停泊中に出来る訓練をやるので、毎早朝いやというほど訓練を重ねたことを思いだす。行動中は艦橋に立直する乗員を集めて 入れ替わり立ち代り艦橋の円いハッチから極力短時間に艦内に飛び込む訓練を重ねたのである。

もともと、この巨大な船体を全没させるのに約1分という目安があったと聞いたが、私はこの時反復訓練の重要性を実地に体験した。私の記憶に残っている航海中の実際の訓練の潜航最短秒時は44秒であった。何事も訓練は限りなく熟練させ磨かれていくことを実感したのである。

わが国の海軍が1921年(大正10年)ワシントン会議で主力艦の割合を下げられ補助艦の整備を推進してこれを埋め合わせようとしたが、さらに1930年(昭和5年)、ロンドン会議でまたまた米英に対して補助艦の割合の差をつけられた。そこで、今やこの劣勢をカバーできる残された道は「技神に入る」という練度の向上しかないとして文字どおり「月月火水木金金」を合言葉にして訓練に精進してきたのである。ところが、その訓練が思うにまかせなくなった。最大の戦力である攻撃機の搭載発艦の訓練は瀬戸内海で実施しようとしたが進まなかった。既にわが本州周辺各地で米軍の爆撃機、空母戦闘機、攻撃機が乱舞しており港湾には多くの機雷をばら撒かれ海域を十分に使っておこなう訓練は危険極まりない状況になってきていた。一方では名古屋で生産されている「晴嵐」という攻撃機も工場等の被害で生産もままならず遅れ勝ちになってきた。もともと「晴嵐」の練成のために第631航空隊が霞ヶ浦に編成され、第1潜水隊の編成に伴い福山に進出して訓練を行っていた。しかし潜水艦と攻撃機の連係総合した訓練は進まない厳しい状況にたちいたっていた。          

 

呉の大空襲

この様な中、訓練どころではなく激しい戦闘が起きた。

3月19日の早朝

「土佐沖に敵大機動部隊接近中、呉方面に来襲の公算大なり、各艦は警戒を厳にせよ」という情報が流れてきた。午前7時30分ごろであった。「敵機大編隊,150キロに捕捉、ジグザグ飛行、呉に向いつつあり」とレーダー室から報告が上がってきた。このころ伊401潜でも今日のレーダー(当時は電波探信儀といっていた)を装備していた。伊401潜はこの時呉の潜水艦桟橋に係留していた。私にとって、直接敵と戦闘を交えるのは始めての経験である。緊張していたと思うが詳細は覚えていない。   

「敵近づく 30キロ」

という声が聞こえたトタンに灰が峰の山の背後から逆落としのようにグラマン戦闘機が突っ込んできた。周辺の砲台は一斉に火ぶたを切った。晴れ渡った青空が瞬く間に鳥の大群のような急降下爆撃機と砲弾の炸裂煙で一面黒く掻き曇った。      

「待て、待て、まだよ 鉄砲」(鉄砲とは砲術長の私のこと)艦長はごく近くまで敵機を引き寄せてから射撃を開始しようと開始を抑えていた。私はこのあと射撃開始の命令で(号令ではなくやれやれという声を覚えている)急いで「打ち方始め」を号令したが、そのあと爆音と砲音で何も聞こえず何も言えずの態であった。よくも潜水艦の身で機関砲の弾幕を限りなく打ち揚げたものだと今も忘れられない。来襲する飛行機も落ちてくる爆弾も何となく自分に向ってくるように見えたが、中でもまさにわれを狙って突入してきたなと思った攻撃機があった。その爆弾は30メートルほど離れた桟橋の先端に着弾して爆発した。われわれは難を免れたが、反面桟橋にいた人は残念にも飛び散った。本来潜水艦はこの様な対空戦闘に対応する兵力ではない。この空襲の間隙を縫って、伊401潜は桟橋を離れ江田島の秋月沖に進出、鎮座(水中に潜って海底に着底すること)して避難した。私はこの戦闘で驚いたり喜んだり感激したりした。射撃訓練も十分に実施できていたわけでもないのに発射弾数が約一万発という報告を受けて半信半疑ながら感激したのである。なぜかといえば潜水艦では円い狭いハッチで艦外と連絡できるだけで重い弾薬筐を機関砲のそばまで運ぶのは容易ではない。いかに乗員一同が必死になって運んだかを物語っている。実戦に勝る訓練はないというが大きな自信になった。     

 

七尾湾への移動

思うに任せない訓練に見切りをつけて訓練地を日本海に求め、七尾湾に進出することになった。しかし、時既に潜水艦が航海する燃料さえ呉の海軍基地には持ち合わせていなかった。余りにも巨大な伊401潜は1700トンの燃料を積み込む能力がある。第1潜水隊4隻に搭載すれば約5000トンを必要とする。燃料の需給の深刻さをうかがわせたが、とりあえず伊401潜は大連(旧満州)に燃料搭載に行くことになった。

3月19日の呉大空襲に続いて3月末にはさらに瀬戸内海には米軍による機雷の投下敷設があり、瀬戸内海はますます危険な海域になりつつあった。瀬戸内海、関門海峡には既に多くの触雷沈没船を生じていた。

4月11日に呉を出港し、12日には瀬戸内海西部に向っていた。豊後水道の北に姫島という島がある。この島の北側を細心の注意を払いながら西航を続けていた。私はちょうど艦橋での当直を終わって士官室に降りてコーヒーでも飲もうと用意をしていた。たまたま司令は既に奥の席でコーヒーを飲みかけておられた。       

「ドカン」、一瞬お腹の底から突きあげられるような感じがした。壁にかけてあった額が落ちてガラスが壊れて飛び散った。司令のコーヒー茶碗が天井まで飛び上がり落下してテーブル一面を汚した。潜水艦の特性であるが 不測の事態に対しては先ず「防水」が肝要である。艦長は直ちに号令し、艦内くまなくチエックを命じ浸水沈没の危険がないことを確認されたが、同乗中の司令はこのまま大連への燃料搭載の任務を続行させることは困難とみられ、伊401潜に呉帰投を命じられた。

我ながら「行動する燃料もなくまた燃料を積もうとする動きさえままならぬ」とあってはこの先一体どうなるであろうかと思ったが声にはならない、声には出せない。

ここで時ならず被雷の被害緊急修理となったが、この修理の期間にあわせて司令の切なる要請によって第1潜水隊の各潜水艦に「シユノーケル」装置を急遽整備することになった。

これはドイツが、自国の潜水艦がイギリスの装備しているレーダーに捕捉され、被害が多いことから対抗策として採用した装置であり、既に資料や情報を得ていたのである。端的にいえば潜水艦は潜ったままで、煙突のような筒を水面に出し、そこから空気を取り入れて発電機を運転し、その電気でモ―ターを回転しスクリューをまわし航走する。このように水面上に船体を多く露出しないことをねらっている。そうすればレーダーの哨戒網にかかりにくくなることが期待できる。よくもこんなにせっぱ詰まった時期にこれだけの新装備が出来たと思う。わが国における潜水艦ではシュノーケル装備の最初の艦である。

しかもこれが後日われわれの行動に大きく貢献するのである。禍をもって福となすという言葉があるが、伊401潜の触雷被害がなければ遅れ勝ち作戦準備の中、果たしてこんな装備まで行なわれたかどうか。潜水艦にとってはまさに福に転じた禍であった。

 

戦線への期待と焦燥

その後イ401潜の代わりに4月14日に伊400潜が大連まで燃料搭載に行き、また伊13潜、伊14潜は鎮海(現在の韓国)に寄港して燃料を積むなどして5月初めにようやく七尾湾に勢揃いした。

始めた訓練は、パナマ運河の爆破を狙いとした訓練であった。第1潜水隊に課せられていた任務は色々の曲折はあったが、この頃は、なおパナマに向けての作戦が進められていた。

ここで初めて伊400型潜水艦やパナマの爆破などの話を耳にされる人々のために少し触れておく必要があるように思う。

そもそも、この6千トンもある大きな潜水艦を造った日本の海軍は、何を考えていたのか。しかもその潜水艦はこともあろうに攻撃機を3機も積んで何をしようとしていたのか。

そのころ世界には飛行機を搭載した潜水艦は戦線には存在していなかった。潜水艦史の上では1918年(大正7年)頃イギリスで試みられて以来イ進展しなかった。

1930年頃フランスでも3千トン近い大型の潜水艦に航空機を搭載して世界最大、世界最強を誇った例もあるが、犠牲者を生じ、沙汰(さた)やみとなってしまった。

この様な情勢の中でわが国の海軍も遅れじと、ドイツの情報を得て水上偵察機を製造した。世界では航空機を搭載する潜水艦が姿を消すという頃に、即ち1932年(昭和7年)にわが国では初めて小型の水上偵察機が正式に採用されている。

以来、わが国では潜水艦に偵察機の搭載が増えてきた。一体何に使うかといえば、敵の動静の偵察である。本来潜水艦自身が隠密偵察にあたる任務を帯びているけれども、さらに敵の本国や前進基地などの潜水艦が近づき得ないところに偵察機を飛ばそうという着想である。

昭和1612月8日(1941)ハワイ大空襲によって大東亜戦争が勃発した。その直後、昭和17年1月13日軍令部から、「魚雷1、または800キロ爆弾1」を持つ攻撃機を搭載出来て4万海里航海可能な潜水艦は出来ないか」という案が技術サイドにご下問があったという。ここに端を発した検討努力の結果がイ400型の化け物潜水艦となって生まれたのである。

後日の余談であるが、われわれの耳に入ったのは当時の連合艦隊司令長官山本五十六海軍大将の奇襲案の一つであったという。真偽のほどは分からないが第1の奇襲はハワイ空襲であった、第2の奇襲がこの潜水艦18隻(当初は30隻とも)に搭載の航空機約50機による米東岸の空襲であったという。たとえ米本土に侵攻できないとしても爆弾の雨は米国国民に対して大いに厭戦気分を募らせる効果があると胸算用していた。

とてつもなく巨大な潜水艦であっただけに戦況の不利から資材の欠乏で思うに任せず、工場の被害の増加で工程は進まず、幾度か建造計画の変更を強いられながら,ようやくこぎつけた海底空母の完成であった。この間の経緯や中央の苦悩の模様は戦後の週刊誌や雑誌に幻の海底空母などといって紹介された記憶がある。巨大な潜水艦は完成したが言ってみれば、これは戦術的な兵力というより戦略的な用兵に効果のある兵力である。

とはいいながら今や米国東岸の攻撃の夢など見られる情勢ではなかった。しかし捨て難い第1潜水隊の戦略的な能力から次善の計画として浮上してきたものがパナマ運河の爆破作戦であった。パナマ運河は米国の膨大な太平洋における展開部隊の一大補給路であり、海上交通路の一大要衝である。ドイツが西欧戦線で壊滅したあと、大西洋の米艦隊が一挙に太平洋に進出してくることが予想された。パナマ運河が使用できない場合、南米マゼラン海峡周りとなり作戦に大きな障害を招くことになる。このパナマ作戦を目標にして既に呉で図上演習を行って勉強もしており、今7尾湾で最後の緊急総合訓練を行なおうとしている。一途にパナマ運河の爆破に期待を寄せあいながら。

しかしこの作戦も時既に遅くなっていた。遥かパナマまで進出している暇もない。もはや遠方の作戦など期待もされない。わが国周辺で目の前が燃えている。

マリアナ海戦、フイリッピン海戦と次々に戦勝を重ねた米軍は20年4月1日、遂に沖縄に上陸侵攻をはじめた。戦艦大和を旗艦とする第2艦隊がわが国最後の栄光を双肩にになって4月7日沖縄海域に進出壮絶な最後をとげた。

内地は国中が米軍の爆弾、焼夷弾に見舞われつづけている。不思議にどんな被害を見たり聞いたりしてもわが国が負けるなどと思いもせず、ただわれわれは目前の厳しい訓練に取り組んでいた。一体どんな訓練にあけくれていたのか。戦雲急を告げる七尾湾で真剣勝負にも似た練成訓練の姿を少し紹介しておくことにする。

 

熾烈な訓練

 「総員釣り床おろせ」

「巡検用意」「巡検」という号令は海軍では一日の作業を終えて就寝する前の号令である。巡検の号令で静かに眠りに就くことになっている。ところが今日もまだ太陽は高く、午後1時頃だというのに、伊401潜の艦内には「巡検」の号令がかかった。艦自体が深い眠りにつくわけである。もともと潜水艦には舷窓など一つもないから時計でも見ない限り昼なのか夜なのか分からない。眠らなければならないのになかなか眠れない。そのうち夜の9時から10時ころになると、「総員起し」という号令がかかる。 

乗員は眠い目をこすりながら飛び起きて身の回りを整え洗面してこれから夕食のような朝飯を食べるわけである。完全に昼と夜が逆転している。こうして真夜中に錨をあげて出港し訓練海面に向う。そして潜航をして訓練開始を待つ。

さて、戦いはこれからである。「急速浮上、飛行機発艦用意」という号令が行き渡る。各部の「用意よし」という報告を受けて艦長は「メーンタンクブロウ」を号令し発動をする。「メーンタンクブロウ」というのは潜水艦が浮き沈みするためにもっているタンクに、気蓄器から空気を吹き込んで、タンクの中の水を追い出して船体に浮力を与え水面上に浮かべる操作である。潜水艦は大きな姿を現すことになる。

浮上したら極力早く乗員は飛び出して航空機の格納筒の扉を開き、航空機を引き出して翼を広げ組み立てを終え、カタパルト(航空機を打ち出す射出機のこと)で次々と3機を発射する。直ちに格納筒を閉め、「潜航急げ」という号令が下る。甲板上の乗員は一斉に艦橋のハッチから艦内に飛び込む。最後に艦橋のハッチが閉められたら今度は「ベント開け」という号令がかかる。先ほどタンクに空気を入れて浮かんだので、その空気を抜けば水が入って潜水艦は沈むことになる。こうして浮上して航空機を発艦させ、続いて潜航するまでは潜水艦にとっては死活的に重要な時間である。逃げることも潜ることも出来ない。最も危険な時間である。従ってこの費消時を少しでも短くするのが訓練の狙いである。当初は30分も20年分も必要としたが最終的には15分ぐらいまで詰めたと思う。

航空機搭乗員がカタパルトで射出されるときは暗黒の真夜中である。水平線が薄々でも見えない曇りの中の飛び立ちは最も危険といっていたのを思い出す。これも作戦構想にあわせるとすれば、やむをえない。危険覚悟の訓練である。

パナマ運河の攻撃をするとすれば黎明の攻撃になろう。パナマ沖合、200海里付近で発艦させるとすれば攻撃機の速力200ノットで約1時間必要となる。なおパナマ運河のどこを攻撃するかによって距離が異なる 太平洋側のパナマ市サイドの閘門(こうもん)の場合と大西洋側のガツン湖の閘門(こうもん)の場合で約40海里異なる。

ともあれ、明け方に目標にたどり着くためには暗闇のなかで潜水艦を離れなければならない。暗黒の中で作業を行い、発艦し編隊を組んで、編隊でなくともまとまって行動し得なければならない。

これがどんなにか困難な練成であるか想像を絶するものがあった。しかも出来たての新機種であり故障や不具合は続出が常である。不幸にも殉職者を生じた。搭乗員はまさに真剣勝負であった。潜水艦の乗員も、また建造間もない艦でありこれまた故障不具合との戦いであった。

飛び立った飛行機はやがて攻撃訓練飛行を終えて空が明るくなるころに潜水艦との打ち合わせ海面に帰ってくる。

これから航空機の揚収の危険作業が始まる。

「急速浮上、飛行機揚収用意」の号令と共に先ほどと同様に「メーンタンクブロウ」で浮上して格納筒を開き準備する。航空機は次々潜水艦の右側に着水する。潜水艦の起重機(トンボ釣りと俗称した)が吊り上げて直ちに翼をたたみ格納筒に次々3機を揚収するや「潜航急げ」「ベント開け」となる。全没したら、これで一流れの訓練作業が終わる。「訓練終了」で水上航走に移り今日の作業の反省を語りながら七尾湾に急ぐ。朝の8時ころの太陽は目にちかちかとまぶしかったことを思い出す。

七尾湾に入港して食べる食事は昼食か夕食か本人にも分からない。一服して受け持ちの兵器や装備の手入れや点検をしていると、 まだ陽は高いのに「巡検用意」の日課に移っていく。潜水艦も航空機も完成間もないとあって満身創痍ともいえそうな状態の中、昼夜逆転の熾烈な訓練が今日も明日も続く。打って一丸となっていた乗員の心は、遥かパナマに飛んでいた。

 

揺れ動く作戦計画       

                    

このような状況の中で5月の下旬であったか6月の初めであったかよく覚えていないが、私は連合艦隊司令部に出張を命ぜられた。別に難しい打ち合わせや協議ではなく、俗に言う公用使である。私が最も若い兵科の士官であったことにもよると思うが機密文書を直接受領してくることであった。この使いは下士官以下の隊員ではダメで士官を当てよということであった。

船乗りにとっては不慣れな鉄道の旅、旅といってもわずかに七尾から東京までであるが、いかにも遠く苦痛に感じた。

そのころ連合艦隊司令部は日吉の慶応大学の構内に所在していた。機密文書を受領して小脇に抱え、上野駅にとってかえした。猛訓練の中の緊急出張でありトンボ帰りもやむをえない。国鉄による陸上輸送も線路や施設の被害でどこまで無事に行けるか分からないというような情勢下であった。上野駅で夜行列車に飛び乗ったのであるが何と混雑満員のことか。昇降口に2、3歩踏み入れただけで動きがつかない。立ったまま、大事なものを抱えて、落としたり紛失したりしては大変と目はさえる。この時どの様にして一夜を過ごしたか覚えていないが苦しい一夜であったことは記憶にある。

戦争や作戦の遂行に情報の重要性は今更言うにおよばないが、この機密文書もまさに作戦地域の重要な情報資料であった。というのはパナマ運河の攻撃作戦が主目標であった時期でもありパナマ運河周辺の写真その他の資料である。運河を攻撃するのに地形上どの様な地点を見通して突っ込めば直撃できるかというような計算も含まれていたとか。

それにしてもこの資料がいつのものか、どの様な経路を経て誰から入手出来たものか、いろいろ思いを馳せると「スパイ」というものの大切さがしみじみと感ぜられた。

この情報がどの程度の信頼性があるのか別の観点からの思考も必要であるがこのような情報があるのとないのでは作戦上大きく影響することになる。

ところが、日増しに不利な熾烈な戦況になりつつあり、遠大なパナマ運河攻撃という作戦は霧散してしまった。連合艦隊や潜水艦隊の司令部では、パナマ運河どころではなく、当面の火の粉を消す作戦に変えるべく、揺れに揺れていたようである。その結果「ウルシー」に集結の米機動艦隊の攻撃に変更された。この海底空母の作戦を当初から手がけた有泉司令にとっては断腸の思いであったことと思う。せっかくの訓練を重ねてきたのに6月20日頃になって様子が変になってきた。

13潜、伊14潜が航空機晴嵐や搭乗員、整備員を降ろして舞鶴港に回航したのである。

[あれ おかしいぞ]と我々は作戦の変化を感じたが、作戦の変化の全容を知ったのは後々のことであった。

 

それぞれ太平洋に向う

いくつかの戦史の書物に掲げられているので重複するけれども、この紙面を読まれる人々のために、変わった作戦の概要を紹介しておかねばなるまい。

目標をウルシーに変えられたが、ウルシーの米機動艦隊に攻撃を仕掛けるためには、やはり先ず情報が分からなければ作戦にならない。既にグアムもサイパンも失った南洋方面の情報の取得は容易ではない状況にあった。従って作戦は次のような2本立てとなった。

一つは「ウルシー」の偵察に当たる作戦で伊13潜、伊14潜に優秀な偵察機「彩雲」を各2機ずつ搭載して「トラック島」に輸送し、そこで組み立てて「ウルシー」に対する航空偵察を敢行する。これを[光]作戦といった。

もう一つは本命の攻撃部隊の伊401潜、伊400潜で「晴嵐」各3機ずつ計6機で「ウルシー」南方に進出「光」作戦による情報の提供を待って特攻を仕掛ける。これを「嵐」作戦といった。

舞鶴に帰投した伊13潜、伊14潜はすべての準備を終わって7月上旬に舞鶴を出港し大湊に回航した。早速「彩雲」を搭載し7月中旬に相前後して太平洋に進出して行った。目指すは「トラック島」である。

わが伊401潜も7月中旬に舞鶴に帰り補給、整備し、万全な準備を完了した。

この際に連絡を取った覚えもないのに母が舞鶴に面会に来ていた。 従って出撃の前に家族に会った。特別に艦長から何らかの指示があったことと思う。他の人にも面会者があったから多分許可があったことであろう。そうでなければどこにいるのかも知らされていない息子の所へ親が面会に来るはずがない。

そこには攻撃機の特攻のみならず潜水艦自体が再び日本の土地に帰ることもなかろうという艦長の配慮があったものと思う。必殺の闘魂の陰に深い思いやりが感ぜられる海軍と思った。

 

復員してからの母の話

 「あの時どこに行くとも、いつ頃帰るとも言わなかった。けれども、あちこちで空襲の被害がひどくなっていたので、戦争は勝ちそうにもなく思われたし、お前もこれで帰ってこないのだなと感じた。」と。

このあと私は大湊を出港する前に、最後の自分の筆跡を残しておこうと筆で便りを母におくったが、戦後復員して聞いたところ母のもとには手紙は届いていなかった。その当時のことだから、手紙の内容に書いてはいけないようなことは意識的に書いていないはずなのに、検閲にでもひっかかったのか没収破棄処分にでもなったのであろうか。しかしそれがむしろ幸いしたようである。

と言うのは母の言を借りればこうである。

「息子はどうせ帰ってこない。親一人子一人あとは誰一人も家族はいない。財産もない。食いつぶして首でも吊ってあの世に行こうと思っていた。そんな書置きみたいな筆の手紙など来れば決心をもっと早くしていたかもしれない」ということであった。

こうして攻撃の本隊(伊401、伊400の両潜水艦)は7月20日ごろ舞鶴をあとに大湊に進出した。そして下旬{各人の記憶まちまち}に伊400潜、伊401潜の順に夜陰に乗じて津軽海峡を通過するように静々と下北半島を迂回して太平洋に展開して行った。 海峡を渡った朝方北海道側のわが砲台から攻撃されるという一齣(こま)もあったが無事に進出した。

 

太平洋は米国の海

「砲術長これを見ろ」

南部艦長が潜望鏡の握り手を緩めながら声をかけられた。潜望鏡を覗くと距離約2千メートルくらいであろうか3万トン程度の貨物船が鮮明な姿で映っていた。また夜行き会った貨物船は、航海灯はもちろん作業灯,甲板灯まで明々と点灯し円い舷窓は灯火管制など全くしていない。太平洋では日本に対する警戒はもはや必要がなくなったといわんばかりに、我が物顔の航海をしていた。

「一発で沈没するのになあ」と歯軋りする艦長の悔しそうな顔が思いだされる。艦長はウルシーの攻撃が終わるまでは我慢しようと乗員に語りかけた。事実軽率な敵対行動をとって使命の完遂が出来ないではいけない。隣のベッドには特攻という生死を越えた同僚がいる。航空機に乗って敵艦に突っ込むのである。わが身に思いを寄せれば複雑きわまりない。われわれの大任はこれからだぞという思いに憤懣の心も静まった。

こうしてウルシー南方の伊400潜との会合点に向う途中、多くの米艦艇や商船に行きあい、空には哨戒や輸送の航空機の飛行を捕らえた。対空警戒の場合、先ず電波探知機により相手のレーダーの哨戒電波の捕捉につとめる。逆探といって相手がわれわれを捜索しているということを逆にこちらが探知するのである。これで探知すれば今度はレーダーで相手を探す。わが方も既に対水上電波探信機や対空電波探信機(現在レーダーといわれる)を装備していたので大方の航空機はこれで捕らえることができた。

「航空機らしい。3095キロ.こちらに向ってくる」とレーダー室から発見報告が司令塔に送られてくると経過を見ながら30キロぐらいに近づくと「潜航急げ」という号令のもと潜航し、航空機のスピードと時間を計算しつつ行過ぎるのを待つ。再びレーダーを上げて捕捉し「航空機40キロ段々遠くなる」との報告を得て浮上航行に戻る。昼間はおおむね潜航し、夜には浮上して水上航行する。敵の艦艇、航空機への対処は勿論、台風などの天候にも対処し苦難の進出が続いた。

 

青天の霹靂  戦い終わる

伊401潜は司令潜水艦であるので、外信傍受班が乗り組んでいた。8月12日ごろには、既にサンフランシスコやメルボルンのラジオの放送を聞いて、日本の降伏に関するやり取りを捕らえていたようである。だが艦長の「アメリカの謀略であろう」との判断から一切乗員には知らされていなかった。私たちも何となく「敗戦近し」の感じで司令や艦長の言動をみていたが、事実として敗戦を知ったのは16日の日没後に浮上してからであったと思う。艦長は「作戦行動をとりやめ呉に帰投せよ」という命を受けて初めて反転して内地に向う決意をされた。内地に向う途中意見や議論が交わされ、紆余曲折があったが、真面目にそうしようとしたことで記憶に強く残っているのは次の2つである。

一つには海軍総隊司令部から「艦艇はマストに黒球と黒の3角旗を掲げて帰投せよ」と通達されてきたが、これを無視する。即ち最早敵対行動をしないということを表明するための旗章らしかったが、米軍に捕らえられた場合グアムかハワイか米国に回航を命ぜられることも考えられる。潜航も禁止されたが、これも無視。敵を避け潜航を重ねて一路大湊に向った。

もう一つは、世界に冠たるこの潜水艦を敵に渡したくない。どのように処置すべきか。誰も敗戦の経験もなければ教えられてもいない。しかし、つきつめれば全乗員は助けて、潜水艦は沈めてしまう。相手に渡さないのが最も望まれるところ。しかし潜水艦が沈没しているのに乗員が命ながらえているのは不自然といわねばならない。このような思案が真面目に議論された。

三陸海岸のリアス式海岸で岸に近く深いところに沈座する。夜ごと夜ごとに浮上して乗員を何回にも分けてボートで岸にわたり長野方面の高原に集まる。芋でも作る集団となる。各人は名前を変えて自分の故郷にも生存を知らせない。最後に退艦する者が潜水艦に浸水をさせて沈める。以後は時勢の移り変わりを見て対処する。従って今から職名、たとえば航海長,砲術長などは使わないで名前で山本さんとか加藤さんとか言うことに慣れる。今日では笑い事とも馬鹿げたこととも思われるがその当時にはまともに議論していた。中には司令の全乗員の命を私に預けてくれという厳しい選択もあった。司令は太平洋に全艦殉職という思考があったようである。

ともあれ最終的には全乗員は潜水艦と共に挙って大湊に堂々と帰港することになった。いよいよ明日には入港という8月29日早朝、場所は三陸金華山沖、伊401潜は米軍潜水艦「セガンド」に発見されることとなり、ここから屈辱的な悲劇が始まるのである。われわれが日本近海に帰ったので油断もあったと思うが、それにも増して米軍は9月2日のミズリー艦上の調印式に備え、今なお太平洋を行動している巨大な潜水艦の所在を捕捉するために大捜査網を展開していたということである。

 

有泉司令の自決

伊401潜は米潜を見とめて直ちに潜航回避すれば離脱できたと思われるが、潜航は敵対行為になっていたので既に潜航しなくてもよかろうというのでキングストン弁(タンクの下側の弁で水の出入を管制制御する)は締め切っていた。従って急速な潜航は出来ないので潜航はせずに全速力で離脱をはかった。悪い時には悪いことが重なるものである。突然左のエンジンが故障してしまった.見る見る離脱ではなく追いつかれてしまった。海軍総隊から指示されたとおり既に魚雷も弾丸もことごとく海中に投棄しているので今や丸腰である。近づいた米潜はわが真横の胴腹に艦首を直角に指向し、いつでも魚雷を放せる態勢をくずさない。「機関全力待機」として相手艦に衝突戦法でもとりたいが、一回転して衝突するのは容易な業ではない。

「グアムに同行せよ。」

「燃料なし。天皇の命令でわれわれは大湊に帰る」

「それではマッカーサーの命令で横須賀に来い」と論争はつづく。航海長が米潜の要求によりボートで米潜にわたり折衝の末、下士官以下5名の米軍連絡員を伊401潜に乗艦させ「セガンド」に同行して横須賀に向うことになった。

有泉司令にとって、この不名誉は気に入らなかったことは当然である。8月31日午前5時を期して伊401潜は軍艦旗を降ろして米国星条旗に変えることとされていた。30日には乗員は傷心の中にもそれぞれ身の回りの整理をしていた。

終戦後のことであり捕虜ではないと自らに言い聞かせても何となく不安や焦燥を感じていた。反面生きて内地を踏むという安堵もあり複雑な空気であった。

私は31日午前2時から4時の当直で艦橋に立直していた。ここで私は奇しくも有泉司令と最後の言葉を交わすことになった。時間的に見て恐らく最後の会話であったと思う。おおむね3時45分ごろのことであった。その当時の私の追憶をたどることにする。

「砲術長 どうだ。変わったことはないか。」という声に、アッ、司令だと直感的にわかった「はい。変わった事はありません」とオーム返しに報告をした。海軍では前方を哨戒する当直中は誰から質問等の話しかけがあっても、常に前方の敵方向から視線を離さないように厳しくしつけられている。私は司令の顔を見ないまま返事をした。そのころ少し明るくなりほんのり薄明かりが感ぜられていた。若し司令の顔を見ていれば、その平静な顔の中にも秘められた決意の一端でも察知し得たかもしれない。いつもの鋭い眼光の中に何か訴えるものを感じたかもしれない。しかし偉大な指揮官であったから自ら深く期するところはその挙動にわれわれ凡人が感ずるような振る舞いは無かったかとも思い直す。いずれにしても「どうだ」という司令の一声は偉大な指揮官を偲ぶ忘れ得ない永遠の声となった。

また、他にも常にないことが起きていた。視界周辺を見ているので、見ようとしないまでも目に入るものもある。ソッと艦橋から白いこぶし大のものが艦外に捨てられた。ハツと思ったが司令が紙くずでも捨てられたのかと思い、そのまま気にもかけなかった。と同時に私の目に入った司令の後ろ姿は久方ぶりの防暑用のヘルメット姿であった。これは白色のため夜目にもはっきり印象づけられた。嘗て、インド洋作戦時代、当時赫々たる戦果の中で愛用されたものに違いない。熱帯地用の防暑ヘルメット、まさに汗と血で綴る武運の象徴とでもいえるヘルメットであろう。

あとで人心の機微に疎いわが身を攻めてみても既に遅い。ありえないことが起きているのに見過ごした。海軍軍人は甲板上から船のそと(舷外)にものを捨ててはいけないと厳しく教えられている。然るに司令は艦橋から紙くずを放棄された。おそらく遺書の書き損じの反古紙でゴミ箱にもとどめられなかったことと推察している。そして私が見た司令のヘルメット姿は20年数年にわたる海軍生活に悔いのない今生の艶姿であったと思われる。今回の作戦行動ではついぞ使用されなかったヘルメットであった。

すべてあとで思い当たる事でそのとき何故ボヤツとしていたのか。「司令がおかしい」と艦長に届ける如才と勇気がなかったのか。いや 気が回らなかったというべきだろう。若し私が気の効く行動をとっていれば、事後の展開は変わったものになったであろうと悔やまれる。

午前4時に当直を交代した私は士官室におりて一杯の湯茶でのどを潤し「ヤレヤレ」とベッドに腰をおろした途端に「ドン」という鋭い銃声の響き。

「しまった とうとうやったか」。

南部艦長が悲痛な声で艦長室を飛び出されたのと私がスツ飛んだのとほとんど同時であった。かねてから艦長はこのことを内々に警戒されていただけに残念さも一入であった。

机の上には9軍神の写真が正面に飾られ写真の前に横一文字に軍刀が置かれ左前方には幾つかの遺書が整然と積まれていた。軍装に身を正した司令の亡き姿は あくまで端然と椅子に座したまま。書き損じの反古紙など一枚も置き得ない清潔さ。それにしてもよくもまあこれだけ清潔な整理をされる間、誰も気づかなかったのか、驚いたり悔やまれたり沈痛な思いであった。

艦長は急いで遺書を取り上げられた。

「太平洋なくしては独立も存立も叶わぬ日本である。苦難の中にも将来の日本の再建と発展をこの太平洋で何時までも見守りたい。願わくは一番大きな軍艦旗と共にこの太平洋の底深く」「(星条旗が揚がる0500までに)

(「艦長は200人の乗員を郷里に送るまで無責任な軽率な行動は厳に慎め」)

これは艦長から聞いた内容のあらましで原文ではない。急いで水葬の準備をしなければならない。新しい毛布、軍艦旗をしっかり身体に巻いて漸く白みかかった東京湾南方の海底に、日本の玄関ともいうべき東京湾のすぐ前に、送る読経もなく手向ける花もないまま殉国の永遠の眠りにつかれた。

軍人倫理の葛藤は生涯の課題であり、それだけにわが身も厳しく責められるように感じた。司令の水葬をするのに大変困った。艦内のものは一切投棄してはならないと米軍から申し渡されていた。乗艦している米軍派遣員の目を盗んで前甲板のハッチを開けて水葬をした。ところが派遣員は気がつかなかったが、後方で監視している潜水艦が見つけて

「何を捨てたか」と厳しく聞いてきた。

「何も捨てない。」といってやり過ごしたが、横須賀に入港後司令の自殺水葬を知らせた。しかし後々何時までも司令の生存を疑っていた。

 

3隻そろって

 横須賀に導かれて港内に入ってみれば思いもかけず伊400潜、伊14潜、ともども係留していた。聞いてびっくり見てびっくりというところ。行動中終戦後も司令のもとに隷下の潜水艦から何の報告も入ってこなかった。従って被害を受けたのかも知れないと思っていた。結局被害を受けて沈没したのは伊13潜でここにあとの3隻が勢揃いしたわけである。

僚艦に聞くと両潜水艦とも米軍の大捜査網にかかったという事であった。こうしてここに多くの外国高官を引き寄せているのである。

このあと各艦ともわが潜水艦基地隊に陸揚げしてそれぞれの潜水艦の改修整備にあたり米軍に引渡し10月初めに復員の運びになった。こうして幻の大作戦は終わりを告げた。

 

終わりに  お詫びと余談

この記事は私の思い出としてまとめたもので戦史的には特別意義を持っていないことをお詫びする。それは日時的にも事実上も特別に調査したものではなく、私の記憶をたどっての一連の経過を紹介したものに過ぎないからである。また全然知らない方々にも理解してもらう積もりで、分かりきったようなことまで説明を加えた。余計なことであったかもしれない。

 

余談として、昭和24年ごろ私は東京明治ビルのマッカーサー司令部に出頭の話である。その取調べは厳しくはなかったがくどいものであった。

その第1点は有泉司令が本当に自殺されたかということ。事実に間違いないといっても何か証拠があるかとくどくどと質問をした。

第2点は「君は砲術長をしていて機関砲はどの様に使うか」と聞く。「潜水艦ではこれしか水上戦力はない。最後はこれであらゆる艦船に対応する」というと、「それは当然だ。それ以外にこんなことに使用したら効果的だと思うことはないか)」と。「ない」

「それではこういうことに使えと教えた人はないか」「ない」            

こんなやり取りが続いた。要するに捕虜を機関銃で撃つたことに関連する質問であった。「知らぬ。存ぜぬ」で終わった。その後追われている戦友の来訪がないか、警察が我が家の周辺をマークしていた。

終わりに平成6年 機会を得て能登半島七尾湾に思い出の旅路をたどった。当時海に山に殉職した人々たちに心から合掌して天を仰いだ。ここに立っている自分を思いながら七尾湾の平穏な海を暫くじっと眺めていた。

(なにわ会ニュース92号 平成17年3月掲載)

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