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 第二御楯隊の碑

青木(旧姓岩下)泉蔵

 昨秋の十一月一日、第二御楯特別攻撃隊の碑が硫黄島の摺鉢山頂にある日米顕彰碑に隣接して建立され、除幕、開眼供養、遺族代表として第二御楯隊長の村川弘大尉令兄の村川澄氏の慰霊のことばが捧げられた。

 南硫黄島附近にスコールが見えたが、摺鉢山頂は快晴で暑く、海面は平穏で此の地が第二次大戦中の最大の激戦地であったとは、到底信じられない状熊でした。

 昭和二十年二月十九日から始まった硫黄島に於ける戦闘は、周知の通り日米双方とも二万名以上の戦死者のあった熾烈な戦闘で、第二御楯隊は、血みどろの戦闘をしている我が陸海軍部隊を援護する目的で編制された六〇一空の戦爆雷連合の三十二機。六十名の搭乗員による特別攻撃隊であった。

 第二御楯隊の編制の概略

第一攻撃隊 彗星艦爆(500キロ爆装)4機

  隊長兼総指揮官 村川 弘大尉(70期)

第二攻撃隊 彗星艦爆(500キロ爆装)4機

 指揮官 飯島 晃中尉(72期)

第三攻撃隊 彗星艦爆(500キロ爆装)4機

 指揮官 小平義男少尉(予13期)

第四攻撃隊 天山艦攻(800キロ爆装)4機

  指揮官 定森 肇中尉(予13期)

第五攻撃隊 天山艦攻(雷装)    4機

  指揮官 櫻庭正雄中尉(72期)

直掩零戦12機の指揮は小生が担当しました。

  二月二十一日〇八〇〇、香取基地を発進した攻撃隊は八丈島基地で燃料を補給した後、一二〇〇頃より進撃を開始し、夕刻から薄暮にかけて硫黄島東南東海上で米機動部隊を攻撃し、空母二隻を含む十隻近い米艦船に体当り攻撃を以て撃沈破した戦果を挙げ、硫黄島の我が陸上部隊の士気を大いに鼓舞し、米軍の心謄を寒からしめたものである。

 硫黄島には我々二号当時の二十九分隊監事の赤田邦雄少佐が二十七航戦参謀として奮闘されていたが、三月十七日に敵陣へ斬込みを敢行し戦死されている。

 硫黄島で玉砕された陸海軍将兵の御遺族と協会の趣旨に賛同する方々で組織されている硫黄島協会(会長、和智恒蔵氏、五十期)では今回、戦跡を永久に保存する為に島内各地の数十箇所に「道標」を建立中であります。

地域的な関係で、関係各省庁との間に難しい問題もあって「道標」なる名称を使用していますが、実質的には御影石製の碑です。

 テレビで御覧になった方もあろうかと思いますが、私は昭和五十五年五月に御遺族八十名及びテレビ朝日のスタッフ一同と共に、東海汽船のおがさわら丸で硫黄島に赴き慰霊事業に参加した折に、和智会長に第一及び第二御楯隊に就いてお話しした処、詳細をあまり御存知なかった会長は非常に感動されて是非とも第一、第二御楯隊の碑を建立したい意向を示され、関係各省庁の許可を得て冒頭にのべた建碑となった訳です。

 前述したように硫黄島は地域的に種々難しい問題もあって、あまり大きいものは建立出来ないのが残念でしたが、碑は正面に第二御楯特別攻撃隊、向って右側に昭和二十年二月二十一日東南東洋上散華、左側に硫協(硫黄島協会の略)第一号と刻み、台座は第一より第五攻撃隊を表はす為、五段となっています。

 建碑に際しては、硫黄島協会長及び会員、元六〇一空搭乗員の有志、海上自衛隊第四航空群硫黄島派遣隊、たまたま同島内で作業中の鹿島建設等、皆さんの御協力を得られたことに深く感謝して居ります。

 尚、大村謙次隊長の指揮した第一御楯隊の碑は、第二御楯隊の碑と並べて本年十月中に建立する予定になっています。この建碑に関して硫黄島協会では、一口(千円)以上十口を限度とする寄附を有志の方々より求めて居ります。クラス諸兄の御協力を得られれば幸いと考えています。

送金先 略

 

(附一  第二御楯隊の戦闘概要)

当時の六〇一空は、攻撃第一飛行隊(彗星艦爆)攻撃二五四飛行隊(天山艦攻)戦闘三一〇飛行隊(零戦)の三隊が主力で、二十年の一月中に総員が伊予灘で「葛城」によって発着艦訓練を終了して、攻一と攻二五四は松山、戦闘三一〇は岩国で訓練を続けていた。

戦況の変化に応じて、攻一と攻二五四は、二月十二日迄に香取基地への移動を完了し、二月十六日に戦闘三一〇は香取基地への移動が命ぜられた。

二月十六日〇九〇〇、岩国基地を発進した戦闘三一〇飛行隊(隊長香取大尉七十期)は香取基地到着直前、折しも米機動部隊より発進して関東方面に来襲中の艦載機群と遭遇し、之と交戦して数名の戦死者を出した。

二月十七日、再び来襲して来た米艦載機群を迎撃した戦闘三一〇飛行隊は、空戦により隊長自ら四機を撃墜した他、列機も多数の敵機を葬ったが、地上の攻撃機数機が破壊された。

二月十八日〇六〇〇クラスの杉江克己中尉と共に、夫々三機ずつ引率して上空哨戒に発進したが、この日は敵機の来襲がながった。

二月十九日一〇〇〇、第三航艦長官寺岡中将が来られて命名式が行なわれた。

 第二御楯隊の編制 ( )内は各隊指揮官

第一攻撃隊 彗星艦爆(500キロ爆装)4機

  隊長兼総指揮官 村川 弘大尉(70期)

直掩零戦4機 岩下中尉(72期) 全般指揮兼務

 

第二攻撃隊 彗星艦爆(500キロ爆装)4機

 指揮官 飯島 晃中尉(72期)

直掩零戦4機 茂木中尉(予13期)

 

第三攻撃隊 彗星艦爆(500キロ爆装)4機

 指揮官 小平義男少尉(予13期)

直掩零戦4機 柳原中尉(予13期)

 

第四攻撃隊 天山艦攻(800キロ爆装)4機

  指揮官 定森 肇中尉(予13期)

 

第五攻撃隊 天山艦攻(雷装)    4機

  指揮官 櫻庭正雄中尉(72期)

 第四、第五攻撃隊は薄暮又は夜間攻撃となる為、直掩戦闘機なし。

さて、ここで直掩戦闘機の二五〇キロ爆装について論議されたが、その場合には増槽が装着出来ず、八丈基地で燃料満載しても、硫黄島まで約六五〇浬の航程中に敵遊撃戦闘機群に遭遇する場合を当然考慮しなくてはならないし、その場合には搭載爆弾を捨て、経済速力で飛行する時の何倍もの燃料を消費する空戦を考えると、攻撃隊が硫黄島に到達する迄の掩護は覚束なく、本来の直掩の目的は達せられなくなる。そこで種々検討された結果

「直掩戦闘機隊は増槽装着、銃装。攻撃隊を最後迄掩護してその戦果を確認後、父島へ帰投して報告、父島よりの第二次攻撃の際、爆装して体当りを遂行すべし」との任務が与えられた。そして午後、飛行長武田少佐引率のもとに隊員一同は近くの香取神宮に参拝して、攻撃の成功を祈願した。

二月二十日〇九三〇、第二御楯隊の戦爆連合三十二機六十名は硫黄島を目指して香取基地を発進し一路南下したが、八丈島を目前にして、悪天候の為飛行困難となり香取基地へ引返した。

二月二十一日○八〇〇、昨日同様に香取基地を発進して全機八丈基地に降着。ここで各機とも燃料を満載した後に二十二空の基地隊に招待され、第二御楯隊の成功を祈って用意された酒肴や赤飯等の昼食を戴き充分に腹ごしらえをした。

各攻撃隊は、敵迎撃戦闘麟による被害を少なくする為に十五分間隔で発進して分散攻撃隊形をとることになっていた。そして木更津基地からは敵戦闘機群を誘導する目的で、硫黄島西北方面に電探欺瞞紙撒布の為、数機が発進している旨も知らされていた。この日、零戦一機と天山艦攻一機が故障の為使用不可能となり、搭乗員四名八丈島基地に残留となった。故障した艦攻は指揮官桜庭中尉の搭乗機だったので、桜庭中尉とペアの二名は四番機に移乗して発進した。

 以下第一攻撃隊について述べると、一二〇〇発進、雲量一〇、雲高二〇〇〇雲下を針路一七五度で飛行し鳥島上空で一五〇度に変針、一五〇〇頃父島を逢か右前方に見て一八〇度に変針、この頃より雲に切れ間が出て来た為敵機からの奇襲を警戒する。約一時間飛行後、右へ九〇度変針、針路二七〇度とした。

硫黄島まで九〇浬となった所で直掩隊は増槽を落下し、二機ずつ二隊に別れて艦爆隊の上空に「之字運動」を開始した。約十五分後、右前下方より攻撃隊に向うグラマソF6F二機を発見、一番機目掛けて反攻態勢で射撃した。敵機の避退した方向は運良く我が攻撃隊と反対方向だった。その時、前下方の海上を南下中の空母戦艦を中心にした十数隻の巡洋艦、駆逐艦の輪型陣を発見、隊長槻がバンクを振り一斉に突込んで行った。直掩隊も銃撃しながら一緒に突込んで、予て命じておいた通りに三千米位迄引き起した。空母は隊長機の他二機が体当りに成功した。空母は大火災を起して居り沈没は確実と判断して、戦果報告の為父島へ帰投した。この空母は後日「ビスマルクシー」であることが判った。この日、進撃中に父島附近で敵戦闘戦群と遭遇し、空戦後、狭くて滑走路が無く凹凸のひどい父島飛行場に不時着して大破した我方の損失は、

天山艦攻一機、彗星艦爆一機、直掩零戦2機(搭乗員七名)で、使用可能槻は彗星艦爆一機と零戦3機だけになってしまった。

 六〇一空司令杉山利一大佐著「杉山部隊懐旧」によれば、第二御楯隊の戦果は次の通りである。

 空母一隻轟沈(第五攻撃隊)

大型空母一隻大火災撃沈(第一攻撃隊)

 戦艦二隻撃沈(攻撃隊不明)

 巡洋艦四隻撃沈又は撃破(攻撃隊不明)

 輸送船四隻以上撃沈(第二、第四攻撃隊)

 艦種不詳一.隻撃沈(第五攻撃隊)

 F6F一機撃墜 一機撃破(第三攻撃隊)

硫黄島に於いて確認されたものは、戦艦二隻轟沈、巡洋艦二隻轟沈、巡洋艦二隻炎上、船種不詳一隻沈没(硫黄島南海岸にて観測)火柱合計十九本(二十七航戦司令部通報)となっており、硫黄島部隊指揮官の市丸少将からは「友軍航空機の壮烈なる特攻を望見する等により士気益々昂揚、必勝を確信、敢闘を誓いあり」と又、母島警備隊司令からは「当隊員も二十一日一七五五特攻隊戦果の火柱轟音を見聞し士気旺盛敢闘しつつあり」との機密電が届いた。(以下杉山部隊懐旧より)

 二月二十二日、第二次攻撃の直掩零戦隊は、二五〇キロ爆装で敵艦船に体当り攻撃の命令を受けていたが父島にはその懸吊用器が無く、且、硫黄島守備部隊からの要望もあって、死角に入っている東海岸の米水上部隊に対する銃撃に変更された。然し降雨激しく出撃不可能となった。

二月二十三日、正午頃迄降り続いた雨の為に飛行場は泥紹状態となり、飛行機の発進は不可能となった。夕刻、エンジンの試運転をして洞穴へ格納する際、地上滑走中に零戦一機が片脚を飛行場の凹所に突っ込み、プロペラの先端を曲げて使用できなくなった。

二月二十四日 〇四二〇、父島飛行場発進、二番機を待って上空を旋回中、二見港の海面に向って探照灯の照射が始まったので二番機の事故を直感、単機で南下し暫くして機銃の試射をしたが故障で全く発射しないため引返した。上空から見た父島は未だ闇に包まれており、暫くして六個のランプが矩形状に用意された。着陸角度を示す青赤の指導灯はいつになっても点灯されない。敵機来襲前に機銃の再点検をせねばならないし、二番機のことも心配で着陸を急いだのが悪かった。

飛行場の東西が切り立った崖になっていることを忘れて、右翼を崖に接触して墜落し、飛行機は大破、自らは不名誉この上ない重傷を負って海軍病院行となってしまった。

三月一日 一六〇〇、最後の特攻機となった彗星艦爆一機が父島の飛行場を発進した。500キロ爆装で、この小さな飛行場からの離陸は懸念された。まして当日は無風状態であったので尚更である。案の定、離陸直後揚力不足で危うく二見港に突入かと思われたが、辛ぅじて墜落は免かれ、徐々に上昇して上空で180度旋回して南の空へ消え去った。

輸送船に体当りを敢行したものと思われるが、その戦果は不明である。

以上が第二御楯隊の戦闘概況であるが、総指揮官村川大尉は次の辞世の歌を残されている。

古の防人たちの ゆきしてふ

道を尋ねて 我は行くなり

 

 

 

(附二 第−御楯隊)

銃撃後、強行着陸のパイロット

第一御楯隊の戦闘概要についてはニュ−ス322024〜頁西村友雄氏の手記を参照されたい。その後、西村氏は強行着陸をしたパイロットについて次の様に追記している。

     ×   ×   ×

 このパイロットは大村中尉といわれる。昭和二十一年の春、復員庁で来日中の米戦略爆撃調査団の応接に当っていた樋口 直海軍大尉が、若い米海軍中尉から、サイパン飛行場で着陸してピストルで射合って死んだ零戦搭乗員がいて、救命胴衣の縫いとりから名前が判った。それはオームラ・ケンジとあったと聞かされ吃驚した。というのは、樋口氏は大村中尉と海兵同期であったからである。

 それから七年後、厚生省の遺骨収集団がサイパンに寄った時、復員局の富士信夫事務官(海兵65期)は、アギガン基地に葬られていた日本兵の遺骨発掘に立合った。墓標の傍に英文の埋葬報告書を入れた青い硝子瓶が立ててあった。その中に「Lt.kennji.Omural」というのがあった。無名の遭骨を乗せた日本丸が竹芝棲椅に入港したのは昭和二十八年三月十九日である0多数の遺族が出迎えたが、追悼式が終って遺族に引渡されたのは十六体にすぎなかった。その遺族の中に大村中尉の母堂キヌさんの姿があった。奥歯にはめこんだ金冠の位置を記憶していて、遺骨を最終的に確認したのはキヌさんであった。従って強行着陸した搭乗員が大村中尉であったことを証拠づける公式記録はないが、前記の過程からほぼ間違いないものと思われる。

 (資料提供協力者、西村友雄、衰郁彦、渡辺洋二、根本正良の各氏)

(なにわ会ニュース号頁 昭和年9月から掲載)

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