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平成22年4月15日 校正すみ

比島沖海戦記第一遊撃部隊の戦闘

都竹 卓朗

都竹卓郎 戦艦大和

 

昭和19年6月の「あ号作戦」(マリアナ防衛戦)が無惨な失敗に終った後、第2艦隊の大部と第10戦隊からなる第1遊撃部隊は、栗田健男中将統率の下にマラッカ海峡の南端赤道直下の訓練地リンガに回航、復讐の一念を固く胸に秘めつつ日夜戦力の錬成に努めていた。有力な空母部隊の再建が最早絶望に近い状態に落ちこんでいた日本海軍にとって、戦艦5隻、重巡11隻を基幹とするこの艦隊は残された唯一の水上決戦兵力であり、来るべき比島方面の迎撃作戦では敵攻略部隊の泊地に挺身突入してこれを撃滅する任務を課されていた。

当時私は第1戦隊(司令官宇垣纏中将)の旗艦大和乗組の中尉として通信士の配置に在り、兼ねて戦隊司令部の幕僚事務補佐(というとエラそうに聞えるが、実は通信参謀「ツサ」末松少佐の小間使い)を命ぜられていたが、戦局の急迫に伴う青年士官層の夥しい損粍の結果、このような大艦のガンルームにおいてすら同期生は唯一人、僅かに機関科コレスの高脇圭三(沖縄で戦死)を持つのみという有様であった。(二人きりという連帯感の強さもあって、高脇とは実に仲よく暮らした。妙な連想だが今もテレビで例の高橋圭三というアナウンサーの出演番組を見る度に、高脇の邪気のない風貌が痛いように胸に蘇ってくる。)

   

9月初旬西カロリン群島への進攻作戦に姿を現わした敵機動部隊は、同中旬と下旬の2回圧倒的大兵力を以って比島方面のわが航空基地を襲い、越えて10月中旬には台湾沖縄方面にも大規模な空襲の傘をかぶせて来た。

連合艦隊司令部は12日朝、まず基地航空部隊に対して捷一、 二号作戦の発動を下令、以後5日に亘って所謂台湾沖航空戦が展開された。そうこうする間に1017日早朝、レイテ湾口を扼するスルアン島見張所は敵艦隊の近接、次いで上陸開始を伝えて間もなく消息を絶ち、同時にルソン島一円に3度目の大空襲が加えられるにおよんで、遂に「捷一号作戦警戒、第1遊撃部隊は速かに出撃、ブルネイに進出せよ」とのGF電令作が飛来した。

17日は可燃物の陸揚げ、格納等の出撃準備に慌ただしく暮れ、同夜深更、正しくは翌18日の午前1時、10戦隊を先頭に各艦逐次抜錨、ペンゲラップ水道を東に抜け、暗黒の南支部海を一路ブルネイ湾(ボルネオ北岸の前進根拠地)に向った。
 
(先頭で出撃したのは10戦隊と書かれているが水戦の誤り。本人が書いた次にの記事有り。(リンガ出撃時の先頭は10戦隊とばかり思っていたが、池田の話からするとどうも2水戦であったらしい。)

18 大ナツナ群島沖通過、捷一号作戟発動下命。

19 敵攻略部隊レイテ湾に進入、タクロバン海岸に上陸開始。

201200 前後してブルネイ湾入泊。油槽船の来着に先立ち戦艦より駆逐艦、巡洋艦に対する給油を行なう。

大和には17駆の各艦が横附け、浜風に磯山醇美を尋ね歓談。夜に入って摩耶横附け、甲板士官たりし東郷良一、両手一杯にビールをぶら下げ「おい、クラス会だ、クラス会だ」と連呼しつつ入来。遅くまで語り合う。相も変らぬ彼の腕白談を肴に、且つは笑い、且つは飲み、最後に「糞っ、アメリカの奴!」と拳を振り振り帰って行ったが、それが私の網膜に映った彼の最後の姿となった。

21 油槽船八紘丸他1隻入港、給油作業完了。愛宕に各級指揮官参集。

22 0800 2水戦、第4、5、1、10、7、3戦隊の順に出港、パラワン島北西岸に沿い進撃開始。目標はレイテ湾、突入予定は25日未明。

1023日、痛恨の朝が明けた。黎明警戒の配置に就いて間もない0925、うっすらと明け初めた左前方の海面に、つんざくような爆発音が起った。素早く右に転舵しつつ件の方向を見やれば、艦隊の総旗艦愛宕が左に大きく傾きやがて覆没(重森光明(機)戦死)、2番艦高雄も白煙を上げながら停止している。まぎれもない敵潜の奇襲である。やんぬる哉と嘆息する暇もなく「雷跡!」という見張員の絶叫、今度は大和の左301,000米近辺から艦首を右に変わった4本の雷跡が、5戦隊の後尾に在って左に回頭しつつあった摩部の左舷に炸裂、轟音と爆煙の中に美しい艦影を覆い隠してしまった。(東郷はこの命中時の爆発で一瞬の間に倒されたという)。

こうして作戦の初動において早くも大きな挫折を喫した遊撃部隊ではあったが、幸い栗田長官以下の指導部は.駆逐艦岸波に救助され夕刻大和に移乗、新に将旗を掲げて進撃を再開した。熱帯地の常でつるべ落しの夕日が沈むと忽ち夜気が立ちこめて来る。その夜は美しい月明であった。金色の海を黙々と進む艦隊の姿は一種荘厳の気配さえ湛えて、決戦の前夜は粛々と更けて行った。

 1024日未明、ミンドロ島を左舷に望みつつタブラス海峡に差し掛かる。ここから先はフイリッピンの瀬戸内ともいうべきシブヤン海である。8時過ぎ敵触接機出現、1040 第1波の雷爆連合30機来襲、撃墜3機。我被害如何と見返れば妙高、武蔵各被雷1、前者は早くも落伍して西方に避退、前途多難を思わしむ。

正午過ぎ第2波24機来襲、こちらに直衛機のないことを見越してか機種は専らTBF。武蔵更に被雷、方位盤の破損を訴え、速力もやや低下気味。

1330 第3波30機、今度はSB2Cも交え大和に攻撃を集中、水柱と爆煙に包まれ他艦の認識すら困難となる。武蔵は艦首沈降して遂に脱落、清霜護衛の下にマニラに向うこととなる。

1430 第4波50機、1510 第5波60機。更に第6波80機と畳み込むように来襲、各艦被弾累増して苦戦に陥る。沈没艦はないものの駆逐艦の中には虎の子の発射管を損傷した艦も相当ある模様。

輪型陣外に孤立した武蔵は集中攻撃を蒙り被雷累計20本、左に大きく傾き黒煙を吐きつつ停止するに至る。これらの状況から見て、敵機動部隊に対する基地航空部隊の策応攻撃未だ奏効せずと判断した艦隊司令部は、狭水路における対空戦闘を避けるため一時西方に離隔を図った。

だが、1800 「第1遊撃部隊は今より全滅を期して進撃、明朝タクロバン泊地に突入、敵船団を殲滅せんとす・・・」との電を発すると共に再び反転、暮色迫るシブヤン海を後に東進を再開した。

1937 武蔵遂に沈没の報来る。

25 0030 サンベルナジノ海峡突破、東方洋上に出で、直ちに右折、サマール島沿いに南下。風浪俄かに強まり、前夜とはうって変った雨模様の海を艦隊はまっしぐらに進む。予定より遅れる事、実に7時間、レイテ湾口到達は0900、泊地突入は1100という。昼間の強襲とあっては敵水上部隊の迎撃は勿論、昨日以上の大空襲を覚悟せねばなるまい。正に満目の敵、十中八九は生還を期し得まい。いよいよ明日は俺も戦死という訳か、余り不様な死に方はしたくないものだが・・・、尤も皆死んでしまうのなら同じことかな・・・暗黒の海を見詰めながら、こんな取り止めもない事を私は考え続けていた。不思議に恐怖感とか悲壮感といったものは全くなかった。昨朝来の戦闘で頭が幾分痺れていたのかも知れないが、割合平静な気配であった。

    

運命の朝は白々と明け初める。空はどんよりと曇り、海面には幾本ものスコールの柱が天を支えるように突立っている。この雲が一昨日来敵空母群を友軍機の目から覆い隠しているのだ。

0645 縦陣列から輪型陣への隊形変換が下命されようとする直前、

「左60度マスト、反航」と叫ぶ見張員の声が艦橋の静けさを破った。「4航戟じゃないか?」、「イヤ違います、駆逐艦のようです、あ、空母もいます、飛行機を出しています」

敵だ! 艦橋は俄かに色めき立った。直ちに列向130度最大戦速で近迫、 0658距離31,000米で先ず大和以下4隻の戦艦が一斉に砲門を開く。7時過ぎ水平線上に早くも大黒煙昇騰、射撃指揮所は空母1隻撃沈、1隻大火災と報ず。この頃空母4隻、軽巡、駆逐艦各数隻からなる敵兵力の全貌を視認、5戦隊、7戦隊の重巡も全速力で突進、スコール中に遁入せんとする敵に猛射を加えた。

敵護衛艦は中々勇敢であった。わが攻撃を受けるや直ちに煙幕を展張、空母の陰蔽を図ると共に非力ながら砲雷撃を以って応戦、特に8時少し前、一戦隊の右前程に迫った6本の魚雷は、大和をして非戦側に転舵の余儀なきに至らしめ、その後の追撃に大きな遅滞を齎すことになった。

0830 敵との距離は22,000米となったが、スコールと爆煙に遮られて目標の視認定かならず、右舷3,000米には落伍した敵空母が大きく傾斜して炎々と燃え盛り、又少し離れた海面にも撃沈された護衛艦の乗員と覚しき敵兵が浮遊している。

0850 敵に最も近迫猛撃中の鳥海被弾により舵故障、32駆逐隊より藤波を警戒艦として派遣、続いて筑摩被爆、一時航行不能となり、4駆逐隊より野分が援護に向かったが、その後右4艦とも遂に還らなかった。

絶対的な制空権を持つ敵機は、撃墜寸前まで追い込まれても尚豊富な掩護の下に基地に帰投、少なくとも乗員の殆んどは救助されるのに、わが艦は僅かの損傷で隊列を離れたが最後、孤立無援の悲況に陥る。皮を斬らせて肉を斬るというが、皮を斬られたらもうお仕舞いである。

鳥海乗組であった西 金蔵、同じく筑摩の高橋英敏と精島勝義、藤波の実吉安志、野分の小林正一、服部健三(機)等は何れもこのような悲況のもとで勇戦奮闘の末、悲壮な最期を遂げたのである。

0905 それまで本隊の北西方に在って機を窺がっていた10戦隊は、西方に避退しつつある敵を捕捉して距離6,000米より雷撃を敢行、空母3隻の撃沈を報じて来た。

0924 これ以上の追撃は実効を得ずと判断した司令部は各隊に集結を下令、太平洋戦争最後の水上戦闘はここに終りを告げた。

  

この戦闘は比島沖海戦における最大の山場であった。遊撃部隊はその後北方の敵主力を求めて決戦を意図したが、逆に延11回、500機におよぶ大空襲を蒙ったのみで会敵し得ず、夕刻再びサンベルナジノ海峡を通過帰路についた。

26日も敵艦上機およびB-24 150機の追尾攻撃を受け、この間に鈴谷(吉岡慶治戦死)、能代の両艦を失った他、大和以下の生存艦も大小の破孔数知れずという程の苦戦の連続であった。

24日朝以来、我々を襲った敵機は延19回、約1,000機という並大ていの戦術常識では考え得ない突撃行であった。

1028日夜、燃料かつかつでブルネイ湾に帰投した艦艇は、出撃時の約半数、17隻に過ぎなかった。

(なにわ会ニュース9号10頁 昭和41年9月掲載)

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