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平成22年4月17日 校正すみ

江田島を去って四十年

中川 好成

昭和58年9月15日、丁度我々が卒業して40年、あの卒業式の日の様な快晴の暑い日だった。菊の御紋章が錨に変わった外は、生徒館も松林も昔の面影を留めていたが、何故か昔日の活気に欠けている様に感じた。参考館では72期戦死者の銘牌に黙祷、そして其の後の壁に刻まれた特別攻撃隊員の銘牌に、クラスを始め私自身も今一歩で出撃する筈であった沖縄で散華した数多くの戦友の名を見つけて感無量であった。

40年前、我々は20才、溌剌(はつらつ)と人生に対する使命感を持って江田島を巣立った。既に戦局は我に非、しかし軍人、特に海軍将校としてこの大戦争に参加出来る喜びと期待に溢れていた。しかし待望の実戦参加は中々やって来ず、卒業後1年以上も経った1911月1日、厚木(302空)でのB29邀撃(ようげき)戦が私の初陣だった。丁度、下士官、兵の定期進級伝達式で、全員本部前に整列していた最中、『空襲警報発令、敵大型機来襲』『各飛行隊、準備出来次第発進』の命が出た。厚木は、勇名を馳せたラボール航空隊が内地に引き上げ、19年4月から編成された帝都防衛航空隊だったので、一応準備は出来ていた。

すぐ私室にすっ飛び、軍帽、短剣を投げ棄て、飛行服に着替えて列線へ、彗星に搭乗、直ちに発進。全力上昇30分、やっと9千米に達したかと思う頃、遥か上空を、飛行雲を引きながら飛び去るB29を見送った。

それからは連日、『防空戦闘待機』となり、飛行学生卒業直後の8月1日着任したクラス、コレスの戦闘機5名(塚田・山根・福田・片山・大塩)、陸偵3名(長尾・済田・中川)、夜戦2名(大山・柴田)、整備1名(広田)が、4名ずつ3つの続いた部屋に居を定めていたが、12月半ばには、殉職、戦死、転勤と5名に減って、航空戦の烈しさを知らされる日々となった。その中、私もサイパン戦の戦訓に基づき編成された実戦機の錬成航空隊210空(明治基地)に移ることになった。

一応、第2線配備となったが、名古屋附近には海軍防空戦闘隊は不在なので、厚木から移った連中を中心に、B29の名古屋来襲の毎に、私も3号爆弾(空から空の爆弾)を抱いて愛機彗星を駆って何度か邀撃に上った。一度、絶好のチャンスを掴んで、17機編隊の正面上方から、菅野式(70期菅野大尉、沖縄戦で戦死)の攻撃を行ったが、爆弾は落ちず被弾(座席後方30糎を貫通)、以後は本職の偵察隊錬成に戻って、予科練、予備学生出身者の訓練に専念していた。此の間、東海地震に会い、若い男子のいない基地周辺の村が壊われたのを、隊員等を出して救援作業したのを憶えている。

 

所が、やっと錬成航空隊編成1箇月という2月に、硫黄島戦が始まった。朝起きると、敵艦上機、関東、東海地方に来襲と云う事態で始まったこの戦は、直ちに聯合艦隊司令部から、『敵空母撃滅の好機、関東、東海方面所在各航空隊発進』の命が出された。しかし、防空戦闘に参加していた戦闘機隊以外は、戦闘準備はなく、更に地震で新装機の製造がストップした我々は、洋上進出450浬の索敵に準備出来る飛行機は2機であった。何れにせよ、各飛行隊は戦闘準備を徹夜で進め、索敵隊の全艦隊用電波発振器(水晶片)は東京から夜行で届けるという次第で初日は暮れた。

この日(2月16日)敵状は全く不明で、クラスの堀江の索敵機が打って散った『敵駆逐艦・・・』と、八丈島の電探が『敵機動部隊らしきもの、50浬東方海上』が唯一の情報だった。何れにせよ、関東、東海に来襲している以上、敵は八丈島から潮岬沖合海上ということで、4機進出を決め、かき集め、艦爆隊から71期児玉大尉(沖縄特攻で戦死)1機と、夜戦から1機に、やっと準備出来た陸偵隊2機(私が索敵隊長)の彗星を準備した。同時に、艦爆隊は即時待機、艦攻隊は2時間待機(出撃の際豊橋で魚雷装備)の態勢となり、全ては偵察隊の敵発見を待つ態勢に入った。

黎明攻撃の定法に従い、偵察隊は日出3時間前発進となり、午前3時離陸した途端、片方の落下増槽が落ちた。2番機も同様で墜落大破、私はやっと回って、飛行場に滑り込み不時着大破、忽ち出発停止。問題は、この頃は優秀な整備員を、ラボールから南洋、比島、台湾に置き去りにして来た為に、実際整備に当たれるのは、もっぱら下駄、かんざしの職人といった国民兵だった。そこに急いでの戦闘準備。しかし偵察隊の意地にかけてもと、次の飛行機を準備、午前6時半頃、『敵艦上機来襲中』の放送を聞きながら、三河湾の松すれすれに海上に出た。もう二度と日本を見ることはないだろうと思いながら索敵線に乗る。私は会敵公算最大の八丈島南方海面『八丈島、グラマン40機来襲中』を聞きながら南下、海は2月の季節風で波立ってはいたが、快晴。索敵線先端に近づくと左手は八丈島から続く不連続線で以東は豪雨、此処でグラマンに会ったら、雨の中に飛び込んでと一寸気が楽になりながら先端到達。南西に変針して小笠原諸島に向う。この頃、偵察員から『分隊士、2番機がヒ連送』(ワレテキセントウキノツイショウヲウク)と伝えられ(2番機は未帰還、戦死)いよいよ会敵に備え落下増槽を落す準備に掛った。同時に雨から離れたのと、エンジンは快調といえないので高度を積雲の下迄上げた。ミッドウェイでは雲の上から敵を見落したから、我々は雲の下を飛んでいた。するとエンジンが止った。『バタ・コック』(エンジンがバタッと止ったら、燃料コックを切換える)直ちに胴体タンクに切換えてハンドポンプを突く。もう駄目かと思った瞬間にエンジンが掛った。見ると12気筒の半分が油を吹いている。恐る恐る上昇。さて何処か降りる処はと後席に問い合せると、降りられそうなのは『八丈島、180浬』。後席はベテランの飛曹長で落着いている。ついで『分隊士、電報』と言うので、『我発動機不具合反転す』『索敵線上敵を見ず』を発信、一路八丈島に向った。苦闘1時間半、やっと八丈島に辿り着いた。途中捨てられるものは捨て、ゴムボートも半分ふくらました。着陸すると南より小型機北上中で空襲警報、その小型機は私の飛行機とわかり解除。八丈島には210空硫黄島分遣隊の夜戦月光2機とその整備に派遣されたコレスの梅本中尉がいた。この月光隊は硫黄島夜間爆撃阻止のため出されたが、3機の中1機が青ヶ島沖に落ちて、搭乗員死亡、一方硫黄島戦が始まって困っていた所であった。当時八丈島は、既に島民は本土に疎開、船は半年前から不通とかで、玉砕覚悟の陸軍と海軍基地要員、館山航空隊の対潜警戒の分遣隊等がいた。全ては防空壕の中で、飛行機も山をくり抜いたドームに収容した。飛行機は点検の結果、故障箇所続出、『良くまあこんな飛行機で飛んで来た』と感心されたが、作戦中、攻撃精神は旺盛、何が何んでも基地に帰らなければ、明日の索敵に差し支えると整備を急いだが、新型機彗星の補用品はなく、結局基地迄部品を取りに行かなければ飛べないと云うことになった。一応電報を打ったが、一日音沙汰なし。ではと連絡を兼ねて明日月光で基地迄補用品を取りに行くことを決め、第一波空襲の後の9時出発となったが、飛行場に向う途中、月光が爆弾の穴に突込んで逆立ちしてしまった。引き起したが、プロペラは曲ってしまった。一つは交換、他は前に大破した零戦のベラがあると云うのでそれで応急処置、出発となったが、梅本が私を呼んで、『一本は保障するが、もう一本は50浬持つかだ』と云う。兎も角離陸。暫く行くと、操縦員から『我片肺飛行中』と伝えて来た。そして新島に降りたいと云う。新島は陸軍の飛行場で補用品はないから、せめて藤技か大井迄頑張れと伝えたが、御前崎は敵機来襲中、結局駿河湾の真ん中を北上、やっと赤石山脈に辿り着くと、『もう、基地迄帰る』と云うので、そのまま明治基地。着陸の時60度位のバンクで着陸。基地では9時発なのが現われないので撃墜されたかと思っていたとか。

着陸後、飛行長、司令に報告。直ちに八丈迄補用品を持って取って返りたいと云うと、

『貴様の一存で海軍の飛行機は飛ばせん。作戦中だぞ』と大目玉を喰った。結局、翌日夜戦の彗星で八丈迄行き、自分の飛行機を持って返った。この戦で、210空の戦果は、歴戦のベテラン特務中尉以下の紫電隊が、浜松上空でグラマン20数機を落した事で、最初の日以降、グラマンは沖合遠くに退いてしまった。尚八丈を発つ時、明日硫黄島特攻(飯島 晃、桜庭正雄)が八丈から出掛けると聞いた。

この直後、73期の中尉がドッと着任して忙しくなったが、訓練は地味な索敵より特攻準備訓練的な気配を帯びて来たと思う。そして沖縄戦。比島、台湾沖の戦果不確認から、偵察隊は戦果確認のため出動と云うことになった。210空は、紫電は松山343空に吸収され、零戦隊は特攻隊となった艦爆隊と艦攻隊の直掩の任務が与えられた。偵察隊は前回の失態にこりて、彗星の整備に専念、やっと出発という4月10日、既に艦爆隊全機、艦攻隊は1機を残して菊水作戦に失われ、210空は沖縄戦参加指定より解除となった。

この時5棟以上の兵舎、100名以上いた士官室は全て空になった寂しさは、まだ戦を続けようとする者達に取ってたまらないものだった。何れにせよ、これで彗星偵察機時代は終り、彩雲に切り換えというので、私は彩雲の研修と受取りのため木更津の加藤孝二の所に派遣された。丁度、東京大空襲の翌日で、汽車は品川駅前でストップ。死臭の漲る街を叔父の家に向ったが、焼失。幸い近所の人が近くの居所を教えてくれ、頼んで一泊。翌日、横空から木更津に着いた。1〜2週間だったと思うが、加藤の隊から3機彩雲をもらって帰ると、偵察隊は名古屋空(挙母、今の豊田)に移るという。そこで着陸、210空退任、名古屋空に同日着任となった。

6月大尉に進級。空襲が烈しく東海地方では海上を飛べないので、小松に行っては日本海上で訓練と云った日が続いている中に、210空で戦死していなかったのなら、というので、723空、神風特別攻撃隊彩雲隊転勤となった。この部隊は始めから特攻隊として編成された本土決戦特別部隊ということであったが、特攻隊命名後は、事故でも二階級特進とかで、実際に命名されたのは8月12日の終戦3日前であった。因みに、721空は神雷部隊(沖縄で全滅)、722空は神雷攻(銀河に神雷を積む)、723空は彩雲特攻隊、724空は橘花(ターボージェット機)、725空は櫻花(火薬ロケット機、トンネルに貯え、鉄道線路上から射出)という特別部隊であった。

8月15日木更津基地で終戦。しかし8月20日、白塗りに緑十字をかいた一式陸攻が降伏調印のため沖縄に出発したのを見送ったあと、土佐沖に米艦隊出現とかで、第5航空艦隊編入、第2徳島特攻基地進出を命ぜられて四国に移った。そして22日夜、解散命令を受けて翌23日、飛行機で復員して戦は終った。

江田島の思い出が何時の間にか、我が戦記になって申し訳ないと思うが、今、戦後38年、あの短かったが、充実した青春の思い出は、其の後の私等の人生に何かを求め続けさせる原動力になったと思う。率直に云って、卒業式の感激と使命感のまま死んで行ったクラスメート等は、或る意味で最も充実した人生を送ったと思う。終戦で我々の一つの人生は終り、()()、新しい何か満されない人生を生きて来たのではないかと思う。今や我々も還暦を迎え、第一線から退き第3の人生に踏み出そうとし始めているが、私が戦後アメリカで一緒に働いた多くの友人が、ガダルカナル、硫黄島、沖縄の戦を体験し、ベトナム戦の時に、何故戦争が起るか、戦争とは何かを改めて問い直した様に、我々も真剣に、この間題を考えて良い年になったのではないかと思う。

纏りなくなってしまった一文ですが、冨士の命で、40年振りで訪れた江田島の思い出に拙文を用意しました。

(なにわ会ニュース5014頁 昭和593月掲載)

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