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平成22年4月18日 校正すみ

伊13潜と伊14潜

高松 道雄

伊14潜水艦 高松 道雄


プロローグ

111516日と広島で50回忌慰霊前夜祭、引き続いて江田島での慰霊祭が行われたが、その10日前、能登穴水で、伊13潜の50回忌があった。嘗て伊13潜の乗組であった鈴木(脩)が主催し、第1潜水隊各艦の砲術長、即ち伊400潜の名村、伊401潜の矢田、伊14潜の高松、それに能登在住の潜水艦乗り藤田(直)がそれぞれ参加した。

5日の前夜祭の際、鈴木が私に伊13潜について、彼の退艦後の事について色々話してくれと頼まれたが、会場には慰霊祭関係の遺族の他に全く関係のない一般客が、別グループの形で会場を分け合う具合に座を占めていたので、とても話しの出来る雰囲気でなかったのでこれを断り、翌日会場であるお寺(徳昭寺)へ行く途中のバスの中で、伊13潜の状況と、それに関連して私の乗艦、伊14潜の出撃状況について話すこととなった。

この事について、予ねてから書き記す機会があればと思っていたが、平成7年は終戦50周年の年に該当する事でもあり、これが戦記を書く最後と思われ、又なにわ会のニュースに潜水艦の事について、コレスの佐丸幹男や、山田(穣)、泉 五郎、左近允が最近記述しているだけで、これと言った記事が少ないように思われるなど、又、若し潜水艦の期友が沢山残っていれば、おそらく各自の奮戦振りを競って書いて呉れたであろうが、それも適わぬ今日では、此等期友に代って、第1潜水隊の作戦を伊13潜と伊14潜に焦点を当てて、述べてみたいと思ったのである。

今一つ、11月5日の前夜祭の際、伊13潜の女性の遺族から、伊14潜、伊13潜の出撃が予定通りであったら、伊13潜は沈む事はなかったのではないか、との質問を受けた。太平洋戦争の終末期の戦況や、潜水艦作戦の実態が本当の意味で判らない遺族には、至極単純、当然の質問のように思われた。

これ等の事が、本稿を書く動機に拍車をかけることになった。

13潜と伊14潜の出撃

第1潜水隊の嵐作戦、光作戦については、既になにわ会ニュース第49号(昭58・9・15)で触れた。即ち、伊13潜、伊14潜で大湊からトラック島に彩雲2機ずつ計4機を輸送し(光作戦)、トラック島からの彩雲によるウルシーの偵察情報に基づいて、伊400潜、伊401潜が同島南部から晴嵐6磯による特攻奇襲攻撃を行なう嵐作戦である。

この作戦に基づいて(伊13潜は昭和20年7月11日に、伊14潜は7月17にそれぞれ大湊を出撃した。最初の予定では、伊14、伊13の順で出撃する予定であったが、伊14潜のモーター係が軸受パッキンに行くオイル輸送バルブを締め切ったままにして置いた為、推進軸艦外貫通部が熱を持ち、とても長期の作戦に堪えられない事が判ったので、修理の為ドック入りする事となった。その為予定を変更、伊13、伊14の順で出撃することとなった。此の事が単純に遺族に誤解を与えることになったのだと思う。ここで伊13潜の行動について、木俣滋郎著、「孤島への特攻」(副題ウルシーは燃えているか)の記述を借りて記してみることとする。


当時の戦況と伊13潜の行動

13潜の出撃の9日前、フィリピンのレイテ湾から北上した米国の小艦隊があった。護送空母「アンチオ」を中心に、第72護衛隊の護衛駆逐艦5隻の対潜掃蕩部隊である。

10ヵ月前、ウルシーを最初に偵察しようとした伊177を打倒したのは護送空母を中心とする潜水艦狩りグループであったが、この「アンチオ」を中心とする部隊は、まず伊41(土井 仁乗組)を沈め、昭和20年2月には呂43(白木常雄乗組)と伊368(溝上正人乗組)を硫黄島の北方で撃沈、5月30日には「回天」を積んだ伊361(安東種夫乗組)を沖縄の南東方で沈めている。

今度の任務は日本の南方で待ち構え、潜水艦を片端から殲滅することである。

13が小笠原諸島東北東を航行中の7月16日午前7時7分、「アンチオ」の哨戒機は浮上して南下中の同艦を発見、ロケット弾を発射した。空母に搭載された「アヴェンジャー」雷撃機と〔ワイルドキャット」戦闘機は、直径12.7センチ、重量28キロのロケット弾8本を翼の下に吊していた。

13の艦長、大橋勝夫中佐は、開戦時、シンガポール沖で英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」を発見したヴェテランであるが、エレクトロニクス兵器の立ち遅れはどうしょうもない。「急速潜航!」大橋中佐は叫んだ。数十秒後、海中に姿を没したが、時既に遅く、ロケット弾が命中し重油が漏れ始めた。米軍哨戒機は燃料がなくなり、母艦へ帰らねばならなくなったので、母艦に連絡、替わりの哨戒機と交替した。

2番目の哨戒機と共に、護送駆逐艦「ローレンス・C・テーラー」と「ロバート・F・ケラー」も現場に急行、追撃を引継いだ敵機は、海上に流れる重油を辿って伊13の潜航海面に到着した。敵機は攻撃を再開、9時20分、伊13は又損傷を負った。11時には哨戒機に誘導された「テーラー」が、対潜兵器ヘッヂホッグ弾24発を一斉に発射、初弾から命申し、轟音が2度海底を揺るがした。

15分後、ケラーが、ソーナー(水中探信儀)に反応する海底の目標にヘッヂジホッグ弾を射って見たが全く手応えがなかった。伊13は粉砕されていたのである。

以上が伊13潜の死斗の経緯であるが、私は此の原稿を書いている時、初め日本の潜水艦名のみに留めようと思っていたが、その内、乗組員は誰なのか、の発想に変り、その中から期友の名が次々に出て来たのを見た時、愕然とした。後でも述べるように私自身も体験するのだが、恰(あたか)も雨、霰と飛んで来る弾丸の中を目掛けて、飛び込んで行ったように映ったからである。

 

艦長による乗組員の評価

私にとって、伊14潜は今次大戦中唯一の潜水艦となったので、他の艦の事は判らないが、清水艦長(58期)は乗員を高く評価していた。之を艦長自身の言葉で表わすと次のようになる。

私は7隻の潜水艦乗りを経験して、第8番目に伊14潜水艦長として着任しました。

19年の暮れも近い寒空に、着任した川崎の艤装員事務所では、乗員全員のマラソン競技が行われていました。何れの顔も溢れる若さと元気に充ち、これは行ける、と先ず安心したのであります。事実日時の経過と共に、幹部を初め乗員揃って優秀で、然もチームワークの強い協調性のある者の集まりであることが判りました。

私も過去の経験とあらゆる戦訓から、最良と信じる短期速成の教育訓練計画を立てて実施したが、皆よくこなして寸分の隙も不安も無いどころか、潜航訓練にも飛行機発艦訓練にも、従前の攻撃型潜水艦にも優る成績を示していたのであります。

更に有難く思っていた事には、岡田先任将校(69期)を初めとする各乗組員の賢い配慮によるものか、艦内の気分が極めて明朗で、然も積極心が旺溢していたのであります。

要するに私の経験した数多い潜水艦に照らしても、乗員一同の鉄の結束と訓練とによって、伊14潜という、古今東西第一等の水中戦闘艦が組み立てられたものと確借致します。…以下略……

また、同艦発行第1号誌で次のようにも述べている。

艦長の当時の気持と言うものは、あらゆる点に少なからぬ影響を持っていたので、特にこうした点に絞って述べることと致します。

私の一番重要だと考えた事は、任務を全うし得る精強な伊14潜を育てることであった。それには高い練度と全員の水も漏らさぬ団結が必要であった。訓練については自ら計画したが、その実施と全員の団結については、殆んど岡田先任将校以下にお願いした。全行動期間を通じ、乗員の錬度等、内的方面に不安を覚えたことなく、対敵情況判断やその処置に全神経を使ったので、とても幸福な艦長であった。 

   ・・・以下略・・・

それでは乗組員はどう感じていたか、乗員の一人、N兵曹は言う。

何はともあれ、伊14潜の乗組員は、軍隊生活としては士官から兵に至るまで和気藹々と.意気の統合したよい艦であった。新兵当時9ケ月程駆逐艦に乗った事があるが、比較にならない。

昭和1911月から昭和2010月1日の復員の日まで、1ケ年足らずの短期間一緒に生活した訳だが、未だに14潜会が続けられ、当時の事を共に語り合うことが出来るのは、日本海軍数多い中で誇りとしたい。・・・途中略・・・

当時2030台の紅顔の美青年達も頭にはマニラ麻が多くなり、ハゲやシワも次第に多くなって老齢化はしてきたが、何時も伊14潜の乗組員時代を思い起し、若さを失わず頑張って行きたいものと考える。

 

私自身も艦の雰囲気は悪くないと思ってはいたが、それではそれが実戦にどのように反映されたのであろうか、また、全く問題が無かったのであろうか。作戦中に起こった事故や、問題行動などに絞って眺めてみることにする。

 


検証伊号第14潜水艦

その1

出撃前の推進軸々受パッキンの事については既に触れた。出撃後に起きていたら、万事窮す、であったろう。モーター室係員が従兵長を兼務していたので、士官室に呼ばれその後すっかり開けるのを忘れていたという。

彼の2年先輩、そんなに度々モーター室に来る兵曹ではないが、排水配管関係の系統を点検している時、バルブが閉まっているのを発見してくれたのである。

 

その

潜水艦経験者にはお馴染みだが、潜水艦の沈降を速めるのに「ネガチブタンク」を持っている。このハプニングについて間接法で述べるよりも直接法で記述した方がよりリアルなのでそれに従って記述することにする。

(原文のまま)

敵警戒線のサイパン、グアムの沖合でのハプニングを皆様に紹介し、よくぞ命永らえたものと、今でも思い出して冷汗の出る思いです。それは某日の補機室の当直勤務もそろそろ交替時刻の時の事、掃除も終り各部の点検をし、引継準備中の時、ヒョイと見ると「ネガチブタンク」の「空気コック」から海水がジャバ、ジャバ、ジヤバと出て来た。「アッッ」と思い水面計を見ると満水である。

(急いで空気コックを閉めて)「さて、どうしょう。潜航長に報告して排水して貰おうか」と一寸迷っている時も時、なんと急速潜航のベルがけたたましく鳴り始めた。T兵曹、S兵曹がドカドカと入って来て戦闘配置に就いた。私はT兵曹に小声で訳を話し、自分の戦闘配置である発射管室へと急いだ。

艦の一番前へ来てみると、相当の傾斜でグングン深海へと、突っ込んで行く様な気がする。息詰まるような、重苦しい気持、そして死に直面して抱く恐怖と諦めが脳裡を交錯する。今頃は排水ポンプで必死の排水作業をしているのかと思うと、胸がドキドキしてこのまま海底に突っ込んで行くのではないか、と不安でたまらなかった。

発射管室の人々は、「艦長思い切った急速潜航するじゃねえか」とか、「やっぱり訓練の時と違って戦争だなあ」と言っていた。後日此の様子をT兵曹から聞く所によると、百数十米も潜航したと言う事でした。運命の神、伊14潜を捨てず、南十字星輝く常夏の島トラック島に無事入港した。

これを当時の哨戒長であった名和航海長(70期)の側から見た記述によれば、次の様になる。彼はこれを自慢話として載せている。

トラック島に向けて航行中の時、当直勤務中レーダー近距離に敵飛行機を探知、急速潜航を発令した。ところが「ベント」を開いて深度計を眺めていると、針は深さ405060と異状な速さで刻んでゆく。潜舵、横舵共に上舵一杯、之は大変だ。「ベント閉め」「メインタンク ブロー」。でも艦は沈んで行き、たしか深さ140でやっと止りました。額は汗一杯。一刻判断を間違ったり躊躇したりして発令が遅れたら全員がお陀仏だった処。

原因は知らぬ間に「ネガチブタンク」が満タンになっていました。50年も経過していること、私の哨戒直での出来事でなかったこと、等でこの様な事があった様な気がするが、鮮明ではない。

戦後この事に就いて話しをする度に「よくもまあ、命があったなあー」と話し合っている。

 

その3

トラック島に着いたのは8月4日であるので、大湊出撃以来17日程の戦闘航海だが、同島到着の前々日の事である。三直交替(本出撃の直前になって通信長(71期)が退艦したので三直交替で戦闘航海に対処した。)と全員配置の繰り返しで乗組員の疲労が最大になっている時のことである。伊14潜水艦の最も貴重な記録を提供してくれた安保兵曹の記述を借りて述べて見ることとする。

0200 当直、無線連絡にてブラウン島より敵哨戒機発進の情報あり。

0300 移動電波30粁電探に感度あるも敵機影を認めず。

強速力にて南進中、突然第一ベント弁全開、「急速潜航」の令がないのにどうした事か、みるみる艦首が海面から沈んでいく。伝令の間違であろうか、確かめる余裕も何もない。哨戒長、哨戒員一斉に艦内へ突入しての無理やりの潜航、驚き入った次第である。

0400 ヂーゼル音探知、感度が高くなったり低くなったりで、乗員の心中も上ったり下ったり。

1800 浮上一路トラックをめざす。

 

別の日の日誌を見てみよう。

スコール物凄く1時間濡れ鼠だ。0700 日試潜航 0840 浮上せんとして高圧ポンプを発動したところ海水逆流、直ちに高圧空気でブロー浮上せんとしたが大傾斜、「総員配置」、発令所で先任将校がツリムの調整に懸命だが、一向に復旧しない。

ダウン30度で沈下しつつある。海底に突入するのではないか。搭載物の艦内移動、全員異常に緊張する。やがて徐々に浮上、ホッとする。潜水艦は平時だろうと戦時だろうと、常に危険が一杯である。水上艦艇なら90点でも合格であろうが、潜水艦ではどんな小さなミスも許されない。一つ間違うと命取りになる。

この他悪天候と敵情とで4〜5日天測が出来ず、時期を見て天測をした処、何度やっても位置が150哩程東に偏って出て来る。よく調べて見るとジャイロが2度狂っていた。

トラック島に近くなった頃、夜間当直中、操舵員が居眠りをしていて(自動車居眠り運転と考えればよい)、艦が同じ処をぐるぐる廻っていた話など、戦後の笑い話になるような物もあるが、詳しいことは省略して置きたい。これが潜水艦の実態なのである。

 


  

13潜、伊14潜は他の潜水艦と違って、艦橋と発令所との間が長く、哨戒直に立っていると、丁度梯子の頂上に立っている様な感じがする。海が凪いでいる時はそうでもないが、荒天になると特に横ゆれが酷い。作戦中、あまりの荒天で横揺れが酷く、引っくり返る(横転)のでないかと感じて、思わず「両舷停止」を令したことがある。反対に海が平静で天気が良ければ、これ程気持の良いものはない。

特に南へどんどん航海してゆくと、暖かくなって来るし、自艦の速力が微風を起して、顔に気持ち良く当たる。会敵の心配さえ無なければ、時々戦争をしているのを忘れる程だ。

こんな状態で単独の敵商船に遭遇する機会が2回ばかりあった。艦長に「攻撃しますか」と尋ねたら、「伊14潜の任務は、まず彩雲機をトラックに輸送するのであるから、その任務を達成してから攻撃することにしよう」との事で、攻撃を見送った。

水平線に敵商船を見ると、なるべくこれを艦尾に見るように変針、又なるべく遠ざかるよう航路をとった。相手の商船も本艦を見ている筈である。「ジャップの浮上潜水艦発見。北緯〇〇度、東経〇〇度、針路〇〇度、速力○○ノット、トラック島へ向うらしい・・・」等と打電していたかも知れない。商船は潜水艦にとっては恰好の餌食だ。だが攻撃しない。商船は一旦どんどん近付いて来るが、その限点を過ぎると、どんどん離れてゆく。

「お前は俺の攻撃を受けなくて良かったなあ」と心に思い乍ら商船を見送った。一度釣った魚を逃がしてやるような感じだった。だが「攻撃すれば簡単に沈められるのに」と惜しい気もした。

然し、何時もこんな日が続くわけではない。最初の会敵は、ハワイ、ミッドウェイ、ブラウン、サイパン、ウルシーを結ぶ略々直線上(最短距離)の航路を横切る時にやって来た。

 

その一

「左45度黒いもの!」

私の当直の時であった。日没後約1時間または1時間半も経った頃であったろうか。艦首前方水平線より少し上った処に、右から左に移動している飛行機を見つけた。しかも赤灯、青灯を付けている。トラック島に近い事だし、最初トラック島からの味方哨戒機でないかと思った。

あれ程はっきり赤灯、育灯を見たのだから10キロはないのではないか。7キロ、8キロ或いはもっと近かったのではないか。飛行機はゆっくり飛んでいる。そのうち雲間に入ったのか、死角に入ったのか、灯を消したのか判らないが、急に見えなくなった。灯を見ていれば飛行機の位置が判るので、「シマッタ」と思って焦り気味で飛行機を探していた。

周囲は真っ暗である。それから10分か、それ位の感じであろうか。左前方の見張員が叫んだ。

「左45 黒いもの・・・」緊張したこの声は、今でも忘れない。普通なら直ぐこれで急速潜航に入るのだが、自分の目で必ず一度確かめたいと思った。「見せろ・・」と言って20倍の双眼鏡で見ると、先頭に駆逐艦、その後に艦種不明で駆逐艦の3倍大の船体の黒いシルエット。後の艦には煙突もマストもない。甲板が平坦なのだ。此れは何だろう。

一瞬判断に迷った。そのうち直ぐ「空母だ・・」と(ひらめ)た。反航の態勢にある。一瞬「雷撃・・」の考えも頭に浮んだが、射点がもう過ぎてに合わない。敵の速力はそんな早くない。巡航速度の様だ。距離は粁と言ったところでないか。敵の方位がどんどん落ちてゆく。敵は少しも気が付いてない風だ。

灯火管制も厳重で灯一つ洩れていない。黒いシルエットが音を立てない忍者の様に走り去る。このまま進めばお互いに遠ざかる。早く距離が遠のいてくれれば良いのに、と思いつつ注意して見張る。変針したか、しなかったか今は記憶にない。

敵は気付く風はなく、段々遠ざかる。このまま行ってくれ、このまま行ってくれと思っている矢先だった。「先程の飛行機、突込んで来ます」左後方の見張員の声。もう愚図愚図してはおられない。

「両舷停止、潜航急げ!」「機械よし」「ハッチ良し」「ベント開け」

13、伊14潜型は「ベント開け」から全没するまで、かなりの時間がかる。「機械よし」でベントを開いても「ハッチ」を閉めるのにそんなに時間も掛からないし、問題もないのだが(此れが伊13潜型の欠点だと日頃から思っていた。)、規定通りに行なった。

比の時程、早く沈め、早く沈め、と思った事はない。敵飛行機の機銃掃射か(ロケット弾の攻撃は頭になかった。) 駆逐艦の攻撃を覚悟したが、それらしい攻撃は受けなかった。

 

その二 

敵大艦隊に遭遇、敵艦頭上に

前項に続く伊14潜の対敵行動については、A兵曹の記録がより写実的と思われるので、それに従って記述してみよう。

急速潜航1時間後浮上、電探により2、3粁に敵機を発見したので、またまた潜航、精密聴音及び電探による索敵で異状なしを確認して約1時間30分後浮上、ハッチより飛び出し肉眼で上空を見、次いで水防眼鏡で担当海上区域を見張る。当直交替20分後、突如として左90度、距離10,000米に敵航空母艦、駆逐艦1を発見、怒鳴るような哨戒員の声が上ずっている。

見る見る艦首が右に廻る。敵を艦尾にして退避又猛進、ところがである。またまた敵機発見右210度、距離20,000米。空母搭載機に違いない。運の悪いことだ。止むを得ない。再び急速潜航、深度85米。「無音潜航」。恐らく発見された事であろう。

艦内に 「爆雷防御」が下命された。各区毎にハッチが閉鎖される。これで10数人又は20数人毎の小さな2重の缶詰が誕生したわけだ。無音潜航で敵駆逐艦の動静を聴音探知しているが、一向に.近寄る気配がない。逆に「だんだん遠ざかる」という報告が入って来る。優秀な電波兵器をもっていながら、本艦を発見出来なかったとは、実に不思議な夢みたいな話だ。当直員がサボっていたのだろうか。或いは味方の潜水艦と誤認したのかも知れない。

いずれにしろ0415遂に音源消滅、敵さんとしては誠に惜しい獲物を逃したものだ。本艦の当面の目的は輸送任務にあるのだから、見敵必殺の戦法はトラック入港以後のことになる。一息ついていると、またもや新しい音源が、右に左と、しかも前後という具合にやってきた。これは大変だ。

感(1)、(2)、(3)、すぐ最高の(5)になって直上、聴音から叫ぶように声が飛んでくる。大艦隊の真中に入ってしまった。こうなれば後はただ敵の爆雷攻撃を待つばかり。駆逐艦のスクリュー音がシュッシュッと頭上を走る。シャガタンシャガタンと云う連続音は何の音だろうか。           既に潜航25時間余、炭酸ガスが充満、頭が朦朧として手足も痺れを覚え呼吸困難となる。

肩で呼吸している私に対して艦長が小さい声で「A兵曹 頑張れ、頑張れ」と2回言われたが、その艦長もまた羅針盤と深度計を睨み乍ら、非常に大きな呼吸で苦しそうに見られた。航海長の顔が油汗で光っている。音を立てないよう海図にデバイダーと定規を当てていたが、突然艦長のそばによると「艦長、本艦の位置はブラウンとサイパンの線上です」と報告、軽く艦長が頷いた。

今まで経験したこともない長時間潜航、空気清浄装置の発動、循環通風の実施、しかし空気も電池もそろそろ限度にきた。身体をできるだけ動かさないように努める。大きく呼吸すると苦しいので呼吸もなるべく小さくする。何糞と力んでみるが替えって苦しい。

後続部隊の音源が新しく聞えてくる。深度85米から徐々に浮上、18米にて艦長が第1潜望鏡で海上の敵艦を視認。時々潜望鏡が止まる。「これ駆逐艦」との艇長の発言で、信号長がすかさず方位の目盛りを読み取って記録をとる。

既に午前0時を過ぎて31日を迎えた。潜望鏡による探知で8隻の敵艦が記録に残る。空母、巡洋艦、武装商船、艦首不明の大型艦に先の駆逐艦などである。とうとう来るべきものが来た。電力が底をついてしまった。また浮上用の高圧空気もなくなってしまった。万事窮す。遂に水中充電装置が発令された。急いで充電が始まる。そして艦内の換気も同時に行われた。

艦長は第1、航海長は第2の潜望鏡で監視を続ける。先任将校がラッタルを静かに上って来て、司令塔内の空気を見てそのまゝ無言でまたラッタルを下りてゆく。艦の後方を見張っていた航海長が「艦長駆逐艦近づきます」と報告。直ちに「水中充電止め、深さ60、急げ」 の下令、深度計の目盛が急速に下り、艦はぐんぐん沈下してゆく。

水中聴音でまたまた浮上して充電、そして、敵艦の接近で急いで潔く潜入、これを繰り返すこと実に前後3回に及んだ。2330精密聴音実施、厳重哨戒のもとに浮上、敵の制海空下を反転、原速力にて北上、そしてこの海域からの離脱を図る。

会敵以来の潜航は実に44時間の長時間に及ぶ。艦、人共にその疲労は極限の状態、大気を全身に味わう。

A兵曹の記録は以上であるが、精密聴音そして浮上の際、艦長の声は震えていた。前任艦伊165潜の記憶を想い出したのである。

 

要約すれば次のようになる。

昭和19年の夏スラバヤにいた伊165潜は、ビアク(ニューギニアの北西)の食糧輸送と司令官救出の命令を受けた。艦の行動予定を詳細に打電、その通り実施したが、暗号は全部解読されていた。同島に接近した処、予定海面には2隻の米駆逐艦が待ち受けていた。

米駆逐艦の爆雷攻撃は峻烈で、安全潜航深度の2倍まで潜航、最も至近弾と見られる爆雷攻撃の時、発射管からポロ片、空気を、重油タンクから油を、そして甲板に搭載した食糧のドラム缶を一斉に放出、同時に針路を変更した。米駆逐艦はこれ等を見て伊165潜を撃沈したものと考え、海面を去って行ったのである。敵を欺瞞したのである。

浮上して見ると、最後の爆雷攻撃の被害の為か潜舵横舵が利かず、潜航不能となったので、浮上のまま、アンボンまで帰還、内地で大修理する事となったのである。艦長の敵情判断と決断が艦の命運を左右する。自分の判断が正しいかどうかは、浮上して見れば答が出る。声が震えるのである。

 

その3

「キーン」.「キーン」−「キーン」悪魔の叫び

私が本作戦で一番怖いと感じたのは、これから述べる時の事である。

いよいよ明日トラック島に着くという前日の朝の3時半だった。日本時間の3時半は現地の4時半に相当する。東の空はまだ日の出には間があったが、赤く染まっていた。吾々は西側で日の出を艦尾に見る位置にあった。左後方の見張りが叫んだ。

「黒いもの!」左何度とも、距離の報告もないが、それは緊急を知らせている。「一寸見せろ!」赤く染まった東の空の方向水平線一寸手前に、針鼠の様な黒いシルエット。

大きい艦ではない。小型の駆逐艦か哨戒艇のようだ。我々はトラックの東方に居て同島に向け西進中、敵は我々の東方、こちらが先に敵を見つけたと思っていたがそうではない。敵の方位角と方位から判断して、我々は追尾されていたのだ。すぐ潜航だ。「両舷停止 潜航急げ!」

14潜を水上に見失った敵は、水中の位置を求めて北に南に速力を早めて探し廻る。

こちらも水中速力を遅くしたり、早めたり、敵に悟られないように針路を変える。又、敵の水中探信の電波効果を少なくする為、深度を浅くする。その内敵の水中探信が始まった。

当時日本の出撃潜水艦は電波兵器対策として、艦体に防探塗料を塗っていた。また、水中電波兵器として水中探信儀の研究を進めていたが、日米双方期せずして17.4キロサイクル波長の水中探信儀(ソーナー)を開発していた。敵は探信の一方、こちらは受信の一方。

同じサイクルの兵器だから敵が探信した時、その音が高い金属音で「キーン」と聞える。こちらが発信すれば自分の位置を知らせる様なものだから一切発信しない。敵はソーナーを360度回転しているので、1回転した頃に又「キーン」と金属音が聞える。同時にこちらのブラウン管に高い山が映る。

初めはこの金属音は1回だけだったが、そのうち「キーン」「キーン」と連続して入って来る。精度が高くなって来ている証拠で、「この方向に何かある筈だ、何かある筈だ」と探りを入れているのだ。それが「キーン」「キーン」「キーン」と3回に鳴る。「これに違いない、これに違いない」とブラウン管の反応をみているのである。それが4回となり5回となってきた。

ここで正確に方向と距離を測定されれば、もう潜水艦は逃れる術はない。あとは爆雷攻撃を受ける丈だけである。爆雷攻撃を受ければ、浮力の少ない本艦型はもう浮び上れない。もう駄目だと思った。何とか、ここから逃れたいと思う気特と、先にネガチブタンク事件での感想のように、目の前に迫る死への恐怖と諦めの気持、心臓が高鳴り、喉が渇く。結果は判っている。もう最後か!

ところがである。金属音5回を最高に次は4回、次に3回、次に2回、1回と段々少なくなってゆくではないか。「シメタ!」

敵は正確に本艦の位置を把握していないのだ。同じ波長の兵器を使っているので、敵の探信状況がよく判る。ブラウン管に一寸山のような反応が映るが、それ以上の反応がないので諦めたのだろうか。それともトラック島の近くだし、そろそろ夜が明けてくるし日本の哨戒線に近付き過ぎるとでも思ったのであろうか、探信をやめて遠ざかって行った。

この状況について知っているのは、私と聴音関係のT兵曹2人だけである。他の乗組員はそんなことは判らないから、暑い艦内で褌一つ裸になって団扇で涼を取っている。知らぬが仏とはこの事だ。怒るに怒れない。戦没潜水艦乗員の多くは、こんな恐怖に直面して散っていったのである

 

トラック島での日課手入れ空襲

トラック島に入港して真っ先に心配したのは、伊13潜は何処だ、ということだった。何処にも姿が見えない。我々より1週間先に出撃している筈だから、もうトラックに着いていて不思議はない。然し姿は見えない。直ぐに「沈」したと直感した。

大湊出撃以来トラック島に来るまでの苦労を思うと、今度出撃したらとんでもない事になるぞ、と背中に冷たいものが走った。勿論「彩雲」を揚陸したわけだが、その時の感想を艦長は、トラック島に着いて飛行機の発進準備を終えてその旨打電した時の喜びは生涯忘れ得ない、と言っている。

トラック島では毎日1回必ず米軍機の空襲がある。新米航空兵の爆撃訓練目標になっているとの事だった。我々は日課手入れと呼んでいた。潜水艦ではその対策として、午前8時の軍艦旗掲揚が終ると直ぐ鎮座を行う。やがて空襲が始まったのであろう。突然バリバリバリと艦内が響く。今まで駆逐艦の爆雷攻撃は受けなかったが、爆雷攻撃もこんなものではないか。雷みたいだ。距離はかなり遠そうだ。士官室には艦長と私と2人だ。「各区」「浸水箇所調べ」念の為点検を発令する。やがて潜航長が「各区異状ありません」と報告してくる。

艦長が在艦の時の鎮座は別に怖くはないが、3分の1の当直で私が当直長になった時は随分心配だった。後にも先にも経験がない。鎮座そのものは、余り心配はないのだが、次に巧く(うまく)浮上してくれるか、どうか、が心配なのだ。その時非常に嬉しかったのは、経験不足の私に対して艦内で一番潜水艦に造詣の深い潜航長を附けて(配して)くれていたことである。

空襲が終って安全になった事をどうして水中の潜水艦に知らせるのかな、と思っていたが、潜水艦の真上に来て鐘を鳴らすのだ。鐘の音は艦内に良く聞こえる。

本作戦を通じて潜水艦乗りとしては非常に良い経験をした。もし、海軍の解体が無かったら素晴らしい潜水艦長になっていた事だろう。そうなって欲しかったが。

 


むすび

8月15日はトラック島で迎えた。その時の残念な気持ちは既に本誌49号(58・9・15)で述べたのでここでは繰り返さないが、あと一ケ月戦争が続き、第2の作戦をしていたら、これだけ米軍の水中兵器が開発されていた時だったから、対日対潜水艦作戦体制の整備と相侯って、とても生還の見込みは無かったであろう。          

ネガチブタンクに満水の時、経験豊かな航海長ではなくて、私が哨戒長だったら、適時適切にメインタンクブローの号令を出せたであろうか。

任務を第一とする艦長の出撃方針と敵情判断、ジャイロコンパスの東寄りの誤差、昼間でなくて夜間の敵飛行機との接触、敵空母との遭遇でもし敵が吾々の存在に気付いていたら、敵小型哨戒艇に追尾された時、我々が日の出側で敵が視界不良の西側にあったら、敵を発見することが遅れ、とても哨戒艇の探信から逃れられなかったであろう。その何れを採っても最大のピンチになる前に、これを回避できる組合せ.にあったのである。

14潜会誌の回想で艦長曰く、「神戸、呉、松山、下関、浅虫等、あの間一髪のところで空襲を免れた。作戦行動中も数回そうした危機に見舞われた。・・・中略・・・昔から天祐神助と云う事と符合する様に思われて、14潜会の皆さんに合掌して敬愛の誠を捧げ、私の想い出を終ります」と。

14潜はラッキーだったのである。

平成7年1月の時点で、清水艦長、岡田先任将校、名和航海長、千葉電機長、トラック島で私を補佐して呉れた上原潜航長、それに忘れられない記憶のある沢山の乗組員が鬼籍に入り、兵学校出の士官は私一人となった。

終戦直後トラック島から母国に帰る時、次の日には大湊に着くという日に米軍の駆逐艦に拿捕されて、敵艦に行く士官1名に私が選ばれた事と併せてこれが前世からの約束だったかも知れない。72期の期友に50年前の本艦の作戦状況を披露すると共に、本編を上記の方々に捧げご冥福を祈りたい。

(なにわ会ニュース72号15頁 平成7年3月掲載)

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