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伊36潜(轟隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年 5月17日

回天の攻撃目標を洋上を航行中の敵艦船に転換した天武隊、振武隊のあとを承けて五月末、玄作戦・回天特攻「轟隊」が潜水艦四隻をもって編成され、沖縄に侵攻した米軍の補給ルートを遮断する任務に就いた。

大型潜水艦は伊号第三六潜水艦のみ。あとは旧式の中型潜水艦伊一六五潜と輸送潜水艦改造の伊三六三潜と伊三六六着の計四隻であった。伊三六潜は回天六基を搭載して昭和二十年六月四日、光基地を出撃してマリアナ諸島東方海面へ向かった。

艦長は神武隊以来の菅昌徹昭少佐。

回天搭乗員は振武隊、多々良隊の両作戦に伊五八潜で出撃した四人、

池淵信夫中尉(兵科三期予備士官、日本大学、大阪府)、

園田一郎少尉(兵科四期予備士官、東京大学、神奈川県)、

入江雷太一等飛行兵曹(第十三期予科練出身東京都)、

柳谷秀正一等飛行兵曹(同、       北海道)

に加えて、

金剛隊の伊五三潜と天武隊の伊三六着で発進できず帰還していた

久家 稔少尉(兵科四期予備士官、大阪商大、大阪府)

新たに野村栄造一等飛行兵曹(甲十三期出身下士官、東京都)の二名が入って、六名編成になった。

伊三六潜は天武隊に参加した後、呉で修理を終えて五月十七日から光基地で訓練用回天を搭載し、発進と急速潜航訓練を重ねた。

初日の五月十七日、入江一飛曹が大津島沖合で伊三六潜から発進し、航行中の目標艦に向かって襲撃訓練中、

目標艦に衝突して沈没し、同乗中の坂本豊治一等飛行兵曹とともに殉職した。

補充に多々良隊の伊四七潜で出撃し帰還していた横田 寛一等飛行兵曹(甲十三期出身、山梨県)が任命され、

同艦は回天発進、襲撃の訓練を二三日に終了した。呉に戻って燃料、食料を積載し、二八日呉発、光基地に戻り、六月三日、実用頭部を装着した回天六基を搭載した。

沖合で深々度潜航をして諸試験を実施したのち四日、第六艦隊司令長官醍醐忠重中将の訓示を受けて〇九〇〇、光を出撃した。

六日〇二五五、早くも敵機を発見、急速潜航したが、以後概ね〇四〇〇から一八〇〇まで潜航し、夜間浮上して、東へ航走し、十七日頃配備海面のマリアナ諸島東方の水域に到着した。六月十七日の日本時間〇六一〇、潜望鏡で大型輸送船三隻を発見し「魚雷戦・回天戦用意」発令、直ちに回天一号艇(池淵中尉)、五号艇(久家少尉)が発進用意を整えた。方位角左七〇度、距離一万七千米、速力一〇ノット。回天には恰好な目標であって、発見時の態勢は良かったが距離があり、遠ざかって行って発進を中止した。

二十日一七二〇に浮上直後、大型輸送船一隻を発見して急速潜航、魚雷戦用意。一八二二、伊三六潜は浮上して後方から追跡に入り、速力十二ノットの輸送船の前程に第一戦速二〇ノットで進出を図って、二一日〇三一五に潜没し、この目標を待ち受けた。ところが〇三四〇、大型タンカーが新たに出現したので、これに目標を転換し、艦長は前甲板の回天二基に「発進用意」を命令した。

方位角左七〇度、距離六千米。しかし五号艇(久家少尉)次いで六号艇(野村一飛曹)とも機関が発動せず、そのうち態勢が後落してしまい、攻撃を中止した。

この場所の日出時刻は日本時間で〇四一〇である。また新しく感度が入り右三〇度、感四。艦長は「戦闘・魚雷戦」の号令をかけた。方位角〇度、距離七〜八千米であった。

〇四四〇、方位角二〇度、距離一五〇〇米で魚雷六本を発射。四五秒後に命中音二。

相手は一時機関を停止したものの、全速力で遁走した。艦長が予想時刻に潜望鏡を挙げると、魚雷一本が艦首に命中し、水柱が甲板に落下するのが見えた。あと一本は磁気信管付きの頭部で、艦底の下を通り過ぎた後に反対舷で爆発した。

戦後、この目標はLSTを改装した工作艦「エンディミオン」一六五三トンと判明した。撃破した地点は北緯一二度四二分、東経一五六度二一分であった。

六月四日の出撃以来、すでに洋上を行動した日数が長くなっており、現実に二基の機関が発動しなかったので、

搭載回天を点検したところ、全機に故障が発生していた。

二二日は配備点を一時退去して、回天の故障箇所の復旧作業に努め、二四日には一、二、五号艇の修復ができた。

しかし他の三基は使用不能であった。二六日の深夜から両舷第一戦速で南下し、ブラウン島と硫黄島を結ぶ配備点へ急行した。

マリアナ諸島の東方水域は久しく日本潜水艦が行動していないので、米軍艦船は船団を組まず、護衛艦もつけずに単独航行しているものが多く、洋上で会徹する機会が多かった。哨戒機の飛来も疎らであった。

六月二八日も潜航してブラウン島とサイパン島の線上を哨戒していたところ一一〇〇、単独航行中の大型輸送船を発見した。

方位角右九〇度、距離六,五〇〇米、速力十二ノットであった。魚雷発射には遠すぎるが、回天には絶好の目標である。海上は平穏で、しかも昼間。視界は良好であった。池淵中尉の回天一号艇が「成功を祈る」「あとを頼みます」の電話連絡を最後に、一二〇〇発進した。

速力二十ノットで接近し、約十二分後に目標の手前五百米に占位して、突入する筈であるが、輸送船はその頃から速力を上げ、急速転舵で回避運動を続けながら砲撃、銃撃する様子が潜望鎧で見えた。

それらが海面に着弾する昔が潜水艦の水中聴音器にも入った。

菅昌艦長は潜望鏡を上げて、池淵中尉の成功を祈りながら奮闘ぶりを観戦し、命中の瞬間を確認したいと、心を奪われて見守っていた。

聴音員が輸送艦と回天の推進器音とは別の機関音が入っているとしばしば報告、その度に艦長は潜望鏡を廻しても輸送艦以外は見えなかった。

一三〇〇頃、緊迫した声の聴音報告に、艦長が急いで潜望鏡を後方に向けると、駆逐艦が視野一杯に、のしかかるように迫っていた。

「潜望鎧下ろせ。深さ四十、急げ」と艦長は叫び、辛うじて体当たりを回避できたが、駆逐艦は頭上を通過し、直後に爆雷約十発が至近で爆発、あと繰り返し直上を通過しながら連続爆雷攻撃を加えた。駆逐艦は速力を落として潜水艦の位置、針路、速力を測定したのち、速力を上げて突進してきて爆雷を投下する。

艦長は敵の測定中は微速で直進し、接近が始まると潜水艦も速力を上げ、舵を一杯切って、敵の進路を横に受けるように変針した。

また爆雷の衝撃を艦の後部に受けても、前部には受けないように努めた。潜水艦の前部には蓄電池群があり、破損すると悪性ガスが発生する危険があるからである。

その行動のため後部の被害が重なり、浸水が多くなって、補助タンクやツリムタンクでは調整がつかず、潜舵、転舵の操作で水平を保った。

久家少尉が爆雷攻撃が始まった頃、回天発進を進言してきたが、艦長は即座に拒否した。しかし頭上の二隻と見られる駆逐艦の爆雷攻撃がさらに激しくなって、二回目の久家少尉の進言があった。艦長は若し艦と運命を共にしたら、回天の搭乗員としての今までの努力が無駄になると考えて、使用可能な五号艇(久家少尉)と二号艇(柳谷一飛曹)の発進用意を命じた。しかし、両艇とも電話が通じなくなっていた上、整備員から五号艇の電動縦舵機が故障して使用不能と報告があり、艦長は二人の発進を中止し、退艇を命じた。

爆雷の爆発圧力は水圧にプラスするので、甲板搭載の回天が浸水するのを懸念し、艦長は深度を浅く、四十米に保ったまま回避を続けていた。六回目の爆雷攻撃で後部の浸水が急増して、艦は次第に沈下をはじめ、深度七十米に、仰角は十五度となり、米袋を乗員が担いで艦内を前部へ移動してツリムの修正に努めたが追いつかず、敵前では厳禁であるがメインタンク内の海水を高圧空気で少しづつ排出せざるを得ない窮状となった。

士官室に座っていた久家少尉はすっくと立ち上がり「自分の回天発進を」と、重ねて要請した。電動縦舵機故障、すなわちコンパス(羅針儀)が役に立たない回天を出すことになるので、艦長は苦悩していたが、潜水艦が離脱できる見込みがもはや乏しく、回天が道連れになるとの思いが強まって「行ってくれるか」と、両名の乗艇を認めた。電話が不通なのでハンマーで合図し、深度七十米の、仰角が十五度かかった潜水艦から、柳谷一飛曹の二号艇は後甲板、久家少尉の五号艇は前甲板を離れてゆき、海面上に浮上してから機械を発動した。あれだけの爆雷攻撃を受けながら、二基とも機械が順調に起動した。発進後十数分で、回天命中の大爆発音が轟き、一隻の駆逐艦の音源が消えた。一基の回天の音源は遠ざかってゆき、駆逐艦もいなくなった。

二基の回天が発進したお蔭で伊三六着は惨愴たる窮地から蘇り、応急修復作業を急いだ。夜の二一三〇になって浮上したときは放電量一二〇%、高圧空気の量は浮上一日分しか残っていなかった。第六艦隊司令部に状況を報告したが、打電の二時間後から終夜、そして翌日の夜まで敵哨戒機が上空を捜索飛行し、時折り爆弾を投下した。

昼間は水上艦艇が探索し、爆雷を落とすので、捜索が終わるまで充電航走も十分にはできなかった。

池淵艇が攻撃した大型輸送艦は排水量一一、三八〇トンの「アンターレス」であった。

六月二五日、サイパンで揚荷を終えて出港、ハワイに戻る途中で、之字運動は黎明時のみ行い、このときは航海速力一五ノットで直線航走していた。

「アンクーレス」は日本時間一二二九、潜望鏡を右舷後方一〇〇ヤードに発見して面舵一杯、取り舵一杯の急激な魚雷回避運動を始め、速力を全速に上げた。

 

総員が配置に就き、装備する五吋砲二門、三吋砲四門、二〇耗機銃八挺で航跡波へ向け砲撃、銃撃を開始した。

同艦の航海日誌によれば、一二三七「魚雷または小型潜航艇」が艦尾五ヤードの、すれすれの至近距書を通過していった。

後、左舷後方に雷跡を発見、艦尾から僅かに一〇ヤード離れて魚雷が通りすぎた。そのあと、同艦は転舵回避を続けながら、潜望鏡と雷跡を度々発見したが、一三一四、北方の左舷正横三六〇〇米に大型潜水艦が浮上するのを発見し、五吋砲で砲撃した。海面に着弾したとき潜水艦は急速潜航したので、砲撃を中止したが、回避運動は続けた。一三三〇に救援の駆逐艦「スプロストン」が到着し、繰り返し突進して潜水艦を攻撃するのを遠くに見て、一三四三から通常の航行に戻り、之字運動を続けながら現場から逃げ去った。

実際は、伊三六着はこのとき南の右舷方向、遠距離にいて、そこで駆逐艦の攻撃を受けていた。他に潜水艦がいる筈はなく、砲撃した「左舷の大型潜水艦」は浮上した池淵艇を誤認したものである。それ以後も「アンターレス」は回避、遁走を続けるうちに見失った。爆発を見たとの報告もない。

同艦はこのとき「大型潜水艦一隻以上、小型潜航艇一隻以上、人間魚雷一基以上と交戦、また魚雷数本を回避した」と記して戦闘詳報を提出した。

戦闘詳報は航海日誌に基づいて戦闘終了後に作成されるが、航海日誌は航海中は艦橋に備えられ、当直将校または担当士官が刻々の出来事を記入してゆく。

これが艦の正式記録になるが、急迫した事態であれば、後で纏めて書くことになる。ときには思い込み、勘違いもあろう。艦尾五ヤード、また一〇ヤードとあるが、艦の中央にある艦橋から見ていて、艦尾からの僅かな距青が判定できるものか、奇妙に思える。

先年、当時乗組であった通信士から来た連絡によれば、艦橋で休憩していたところ突然、海面下を魚雷が足元へ真っ直ぐに走ってきた。「命中、爆発」と観念したが、魚雷は艦橋の真下をくぐり抜けていった。一同が仰天し、大騒ぎになったのはそのあと、反対舷に抜けた魚雷が、何とUターンして再び艦の中央に向けて突進してきたことである。当直の操舵手は戦争の全期間、一貫して同艦の舵取りを勤めた熟練者で、左右一杯の転舵を繰り返し、時には急減速して、次々と魚雷をかわしていった。見事な操舵が同艦を救ったと、乗員たちは彼に感謝している。

日誌の記事は、艦橋にいた士官がおそらく「魚雷が命中すれば爆発する筈である。その爆発がなかったから、多少後方へ逸れたのだろう」と解釈して、適当に処理したのではあるまいか。或いは、池淵艇の最初の突撃が記録されなかった可能性も考えられる。

ともかく、故・池淵信夫少佐の航行艦攻撃の操縦ぶりは見事であった。しかし相手の喫水に問題があった。「アンターレス」は当時としてはかなり大型の輸送艦であって、満載状態ならば喫水は七.五米あるが、このときは完全な空船であり、船体がすっかり浮き上がっていた。

空転状態のスクリューが大きな飛沫を撥ね上げていたので、これが幸いして潜望鏡の観測を妨げたと「アンターレス」は評価している。空船のため船が一層大きく見える一方、喫水は却って浅くなる。貨物を積む船の喫水が積荷の有無で大きく変化することに、日本海軍の軍人は潜水艦乗員を含め認議が薄かった。

どの場合も、艦長が回天搭乗員に目標の喫水、または突入深度まで、指示した例はなかったようである。遺憾ながらこのために、搭乗員たちが如何に正確な突撃を繰り返しても、艦底通過になったと考えられる。「アンクーレス」のほうも「魚雷は設定深度が深すぎたため、何本かが艦底を通り抜けた」と判定し、報告しているのである。

この「アンターレス」は、昭和十六年十二月、日本海軍が真珠湾を攻撃した日の早朝、現地時間七日の〇六三〇、たまたま湾口の沖合で入港待ちをしていたが、真近かに特殊潜航艇を発見して通報、哨戒中の駆逐艦「ワード」が駆けつけ、砲撃して撃沈した。これが空襲が始まる〇八〇〇の前に起こった日米最初の交戦である。すなわち戦争の火蓋を切ったのは米国側であったが、その端緒を作った有名な艦である。この戦闘で「アンターレス」は、二十ミリ機銃の弾丸が自艦に当たって炸裂し、また主砲の砲撃による爆風で、士官三名を含む乗員十二名が負傷した。

大型駆逐艦「スプロストン」二一〇〇トンは沖縄戦に参加していたが、定期修理のためサイパンで燃料を補給して六月二七日に出港、単独で力ロリン諸島の「エ二ウ工トック」環礁経由、米西海岸に向かう航海に就いていた。

「アンクーレス」から一三〇〇、探照灯を使った発光信号で「潜水艦の攻撃を受けている。救援を頼む」と要請してきたので、針路南、速力二五ノットで駆けつけた。

付近に到着して速力を落とし、ソナー探索をはじめていたところ一三三四、潜望鏡を左前方近距離に発見して、

これを乗り切ろうとして左に転舵し、速力を上げて突進した。大型の潜水艦が海面下にはっきりと見えたが、旋回圏の内側に入って、僅かに数フィート外れた。

中深度に設定して用意していた爆雷十一発を投射、あと折り返しながら爆雷投下を続けた。一四五二の第六回目の爆雷攻撃で手持ちの爆雷二種類、計五五発を全部、使い果たしてしまった。「アンターレス」は既に逃げ去って「スプロストン」一隻だけとなり、潜水艦を攻撃する兵器もなく、魚雷攻撃を恐れながら、ほかの駆逐艦の来援を待とうと、接触を保っているうち一五五六、左舷艦首六十度から魚雷の航跡が接近するのを発見した。

取り舵一杯で魚雷を左舷にかわしたあと、潜望鏡が左舷後方を反対方向に進むのを見た。これが魚雷を発射した小型潜航艇であると見て、五吋砲五門の水平射撃を距龍四五〇米で開始、十回目の一斉砲撃が命中したらしく、大爆発が起こって潜航艇は沈んだ。この潜航艇は海面浮上後に機関を発動したあとの回天である。

もしも久家艇であったならば、電動縦舵機が使えず、人力縦舵を懸命に操作して特眼鏡で観測しながら、思うに任せぬ操縦で突撃する苦闘の攻撃だったであろう。爆発は、おそらくは敵に接近しての自爆ではなかったかと推察される。「スプロストン」はあと、通報を受けて来援した小型艦艇三隻を指揮して、隊形を組んで一六三〇から翌二九日の夕刻まで、広範囲の警戒、潜水艦捜索を行った。護衛駆逐艦三隻も途中から加わり、哨戒飛行艇も到着して「スプロストン」の誘導で潜水艦を捜索し、爆弾を投下したが、潜水艦の所在を確認することは遂に出来なかった。

「スプロストン」は戦訓として「大型潜水艦と、それに搭載された小型潜航艇がコンビを組んで魚雷攻撃して来る戦法は、水上艦船にとって極めて危険である。

大型の駆逐艦は動きが遅く、対応できないので、彼らの魚雷の餌食になる」と警告、また「潜水艦は十二ノット以上の高速で水中を走っていた形跡がある」と分析した。

潜水艦、小型潜航艇、魚雷と、姿を見せずに次々と現れる敵に同艦は混乱し、恐怖を覚えたのであろう。同艦の交戦場所は北緯十二度五八分、東経一五四度五九分であった。グアム島の東方約六〇〇浬の洋上である。 

伊三六潜は帰投命令が七月二日になって入り、戦場を離れた。

六日、七日は昼夜を問わず飛行機を発見しては急速潜航を繰り返し、八日未明からは敵潜水艦が潜伏する海面なので第三戦速で水上突破した。

九日一〇三〇、ようやく豊後水道に入った直後に、敵潜水艦の魚雷三本の攻撃を受けたが回避して、逸れた魚雷が島に当たって轟然と爆発した。

一五〇〇、光基地に入港し、発進できなかった搭乗員三名は退艦、故障した回天を陸揚げして、一〇日の朝出港、呉に帰着した。

同艦は満身創痍の身を癒すため、次期の回天作戦「多聞隊」には参加できなかった。

(小灘利春HPより)

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