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伊367潜(多聞隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年 6月30日

伊号第三六七潜水艦は前回の振武隊作戦を終えて昭和二十年六月五日に呉軍港に帰着し、艦体の整備を終えたのち「回天特別攻撃隊・多聞隊」の母艦六隻中の一艦として七月十九日、大津島基地を出撃して沖縄南東方約四〇〇浬に向かった。任務は沖縄/グアム間の敵輸送路への攻撃である。

艦長は今西三郎大尉。

回天搭乗員は藤田中尉ほか振武隊のときと同じ顔触れが主であるが、発進した千葉三郎兵曹と小野正明兵曹の補充として二人が入り、次の編成となった。

藤田克己中尉  三期予備士官、    山口県

安西信夫少尉  四期予備士官、    神奈川県

岡田 純一等飛行兵曹 第十三期予科練 長野県

吉留文夫一等飛行兵曹  同 上     北海道

井上恒樹一等飛行兵曹  同 上     岩手県 の五名であった。

沖縄南東四〇〇浬付近を行動した。この季節のこと、荒天に翻弄される日が多かったが、二回だけ会敵の機会があった。

七月二七日頃、聴音で集団音を捉えたが、潜望鏡を水面上二米にまで揚げても視認できないほど遠く、そのうち目標は沖縄の方向へ遠ざかって行った。少なくとも三万米くらいは距離があった。夜間浮上して充電中は、対空レーダーによる警戒を重視するのは勿論であるが、砲術長が手に持って四周を捜索し、波長が短い敵のレーダー波を探知する「パラボラ・アンテナ」式の指向性逆探知器は有効であった。

二回目の八月七日頃に会敵した折りは、砲術長が夜間、敵の電波を遠距離で探知したので、艦長は敵のレーダーに探知されぬうちにと、早めに潜航した。ほどなく目標が聴音に入り、次第に接近してきた。

潜航後約四五分で敵の駆逐艦らしい二隻が、前後して頭上を通りすぎていった。攻撃は受けなかった。当日は暗い闇夜で、潜水艦としては回天にせよ魚雷にせよ、攻撃は困難な状況であった。この「糎波逆探」を艦橋に固定装備し、アンテナを旋回して捜索する潜水艦もそのころ出来た。日本の潜水艦は夜間、レーダーに探知されていつの間にか追い詰められるケースが多かったが、この装置を早くから活用すれば、潜水艦の大量喪失はかなり防止できた筈である。多聞隊作戦になって、この艦型の回天搭載潜水艦に哨戒区域を広く与えられ、行動の自由裁量権を与えられたことは、艦長としては有難い改善であった。

しかるに八月九日、第六艦隊司令部より突然、帰投命令が来た。今西艦長は先任搭乗員の藤田克己中尉に「どうする?」と考えを聞いた。藤田中尉は「私は帰れません!」と明快に答えた。艦長は搭乗員たちの心情を理解し「それでは、取り敢えずもう一日は続けよう」と、翌十日も索敵を続けたが、帰投命令がその日、重ねて入電したので、一度も回天発進の機会がなかったが、やむなく艦長は五基の回天を甲板に載せたまま、帰途に就いた。

豊後水道を通過し、八月十五日の正午、水の子灯台を通り過ぎた頃に玉音放送を航海長ほかが聴いたが、雑音が強く、殆ど聞き取れなかった。

一時間後に玉音放送の内容が機密電報で入ったので、今西艦長は状況を明確に把握したが、戦時の航海中であるので、乗員が心理的な動揺を来すことがないよう艦内伝達を抑え、そのまま航行を続けた。夕刻、大津島に到着して、回天搭乗員は上陸、クレーン船が来て回天を吊り上げて艦から下ろした。諸作業を終わってのち、艦長は乗員一同を甲板上に集め、戦争終結の玉音放送の内容を伝え、混乱のないよう訓示した。丁度そのとき、徳山湾の東の山陰から大きな月が昇ってきた。それが乗員に語り続ける艦長には深い印象として残った。

伊三六七潜は翌十六日午前八時、出港して呉に向かい、作戦行動を終えた。

大津島の基地では正午の玉音放送を全員に聞かせるようラジオ受信機を各所に用意したが、搭乗訓練と兵器整備作業は中断できないので続行した。

この基地は特攻最前線を意識し、獅子奮迅の練成を続けていたのであるが、突如迎えた終戦という思いも掛けぬ事態に混乱した。保有する回天全部を四八時間以内に実戦に使用できるよう緊急整備した。搭乗訓練は普段どおり何日間か続行した。

十六日、平生基地から回天特攻・神洲隊の伊一五九潜水艦が日本海に向け出撃していった。

その平生では十八日未明、橋口寛大尉が回天の操縦席で拳銃自決した。

終戦に反対し、決起を叫ぶ搭乗員たちが多かったが、呉鎮守府長官の金沢正夫中将が水上機で飛来して説得に当たったので、ようやく沈静化した。

各訓練基地、出撃基地の回天搭乗員たちは早急な復員を指示され、大津島でも二五日頃には殆どの人員が島を去ってゆき、活気に溢れていた大津島の回天基地も急に寂しくなった。

(小灘利春HPより)

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