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伊44潜(千早隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成16年10月 6日

回天特別攻撃隊千早隊の伊号第四四潜水艦は昭和二○年二月二二日、回天四基を搭載して大津島基地を出撃、硫黄島方面に向かった。

艦長は川口源兵衛大尉。

回天搭乗員は

 土井秀夫中尉(海軍兵学校七二期、大阪府)

 亥角泰彦少尉(兵科四期予備士官、東京大学、京都府)

 館脇孝治少尉(同、       中央大学、福島県)

 菅原彦五・二等飛行兵曹(十三期予科練、宮崎県)

の四人である。

各搭乗員は第一特別基地隊附からそれぞれ同日付けで第六艦隊司令部附を発令された。

千早隊の伊三六八潜、伊三七○潜、伊四四潜の三艦に対する第六艦隊の命令は「硫黄島周辺に遊弋中の敵有力艦船の捕捉撃滅」であったが、さらに伊四四潜に対しては「奇襲決行後、同方面海域にて敵艦船攻撃を続行せよ」と命じた。三艦の攻撃決行予定は二五日から二八日の間と指示され、伊四四潜は他の各艦と同様、二月二六日の回天発進を予定して行動し、二五日夜、計画どおり硫黄島南西約五○浬の水域に到着した。しかし、忽ち二隻以上の駆潜艇の音源が接近して、深々度に潜航したが音源は消えなかった。

二六日に入って捜索艦艇の音源が増え、スクリュー音が耳一杯に聞こえて、いつ爆雷攻撃が始まるか分からない状況が続いた。

頭上の海面付近を艦艇が離れず、浮上どころか、潜望鏡深度まで上がることさえ出来なかった。

二七日朝、すでに三十時間以上潜航を続けており、酸素は欠乏、炭酸ガス濃度は大気の二百倍になり、乗員は呼吸に苦しんだ。艦内の一部では温度が五十度にも達した。この状況では敵泊地への接近は困難であり、艦長は警戒が薄いと思われる東側に迂回して攻撃しようと判断して、一旦遠ざかるように針路を南西に向け、水中低速で脱出をはかった。

二七日の夕刻まで逃避を続け、幸いスクリュー音が消え、夜間二二〇〇に浮上した。四七時間もの連続潜航の末の離脱成功であった。 

水上航走で充電しながら硫黄島の西から北を大きく廻り、昼間は潜航して二八日午後、硫黄島の北東約五○浬へ進出を果たした。しかし捜索艦艇のほか、哨戒機が絶え間なく飛来して充電する暇がなく、その線から三浬も近づくことが出来なかった。硫黄島の周辺水域に米軍は対潜水艦戦闘を任務とする多数の護衛駆逐艦と、護衛空母に搭載された対潜哨戒機とで、緻密な防御システムを展開していた。

一旦発見されれば高性能のレーダー、ソナーを装備し、対潜掃討の訓練と実績を積んだ、しかも数が多いこれら対潜部隊の執拗な追跡、攻撃に曝される。

水中速力が遅い上に、水中航続力が蓄電量で限られる潜水艦は、いずれ追い詰められることは明らかである。さらに、潜水艦の中心線上に搭載された回天には艦内と往来できる交通筒が装備されているが、左右の回天には交通筒がないので、発進前の或る時期、搭乗員乗艇のために浮上しなければならない。その制約からも、発進可能な水域まで到達して回天を発進させることは、この戦場では到底無理であった。遂に艦長は、回天による攻撃は、無念ながら不可能との判断に至った。

二八日夜間、敵に所在場所を確実に探知され、危険に陥るのは覚悟の上で、伊四四潜は短波マストを海面上にあげ、第六艦隊へ長文の報告を発信した。要旨は、

(1)硫黄島の南西約五○浬で二五日夜より敵艦の制圧を受け四七時間連続潜航

(2)硫黄島北から東部でも、敵哨戒機に制圧され接近不能

(3)硫黄島泊地に対しては回天による攻撃は不可能

艦長はこのような、攻撃が到底実行できない状況を、敢えて危険を冒しながら打電報告したのに返事が来なかった。

第六艦隊司令部が受信をミスしていたのである。

翌三月一日、伊四四潜は通信情報により敵機動部隊が沖大東島付近を行動中であることを知って、かねて同艦が受けていた「あと敵艦船攻撃を続行」の命令どおり、魚雷で機動部隊を攻撃しようとして「沖大東島に向かう」と打電した。

第六艦隊は伊四四潜の意図を理解できず、二日朝、同艦に「回天は発進したのか」と照会するとともに「指示どおり作戦を実行するよう」電命した。

 

三日、伊四四潜は「回天は発進していない。二八日の本艦電報を了解されたか」「改めて指令願う」と返電した。

司令部は受信洩れしていた電報の再送を命じた。

第六艦隊がミスした電報は、日本よりも遥かに遠いハワイの米艦隊司令部がキャッチして

「このような電報を傍受した」と、同文を放送していた。第六艦隊の一方的なミスである。

伊四四潜は四日、二八日発信済みの電報を再送した。

これを受けた第六艦隊は、事態を当然、把握できた筈であるのに「伊四四潜は好機あらば硫黄島方面敵艦船に対し回天を以てする奇襲を決行するよう」重ねて命令した。

しかし、上部の連合艦隊が六日、潜水艦による硫黄島方面の作戦中止を決定、伊四四潜は回天を搭載したまま三月九日大津島に帰着、回天を陸揚げし搭乗員は退艦、十一日呉に入港した。

 

千早隊の研究会は実質、川口艦長の命令違反を追及する査問会になった。席上、艦長は「警戒至厳な敵洋上泊地に進入して、一度浮上した上で回天攻撃を決行するという計画自体に問題がある。潜水艦と回天に犬死にを強いる無謀な作戦である」と、堂々と意見を述べた。

第六艦隊の某参謀は、川口艦長に向かって「卑怯、未練!」と、人々の面前で口を極めて罵倒した。この参謀はあと「潜水艦は沈んで来りゃあいいんだ。戦果は俺たちで作る!」と放言したとも伝えられる。

定かではないが、この参謀の在りようを的確に表現した言葉と言えよう。

通信を担当する伊四四潜の砲術長は即日退艦を命ぜられた。必死の思いの電報を第六艦隊司令部の側が受信洩れをしておきながら、退艦転任の辞令がその日のうちに出た。

 

日本海軍としては異例の敏速な人事処置である。

そして、川口源兵衛艦長は横須賀の桟橋に係留されたままの老朽潜水艦の艦長に左遷となった。軍法会議が開かれなかったのは、むしろ第六艦隊司令部にとっての幸いだったかも知れない。

のち交通筒は天武隊以降、全回天に装備された。

(小灘利春HPより)

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