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伊47潜(多聞隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年7月15日

七月はじめ、回天特別攻撃隊・多聞隊が潜水艦六隻で編成された。各艦は光、大津島、平生の各基地で回天を搭載し、次々と出撃していった。伊号第四七潜水艦は六月三十日、修理を完了して呉工廠を離れ、出撃前の単独訓練を実施したのち、七月五日光基地に入港した。

訓練頭部をつけた回天を搭載し、搭乗員、整備員も乗艦して、六日から光沖で回天の発進と攻撃の訓練を繰り返したのち、十三日に黎明発進の訓練を済ませて呉に戻った。

呉の市街は七月一日夜の大空襲で焼け野原となっており、艦船用の燃料は在庫が少なく、他の潜水艦から重油を積み移した。

十七日呉を出て光基地に着き、実用頭部を装着した回天六基を搭載して十八日には沖合に出て試験潜航を実施した。

翌七月十九日午後、いよいよ光基地を出撃して沖縄東方海域に向かった。

艦長は昭和十九年七月の竣工以来の折田善次少佐が五月十五日付で潜水学校教官に転出し、あと鈴木正吉少佐が着任していた。

回天搭乗員は光基地の次の六名で編成された。

海軍中尉   加藤 正 機関学校第五四期 広島県

海軍少尉 相沢鬼子衛 四期予備、日本大学 北海道

一等飛行兵曹 石渡昭三 十三期予科練   栃木県

同      河村 哲 同      ) 北海道

同      新海菊雄 同        山梨県

       久本晋作 同        長崎県

豊後水道を出てからは第三戦速の之字運動で南下し、日出前に潜航した。

そのころ内地は盛んに敵機動部隊の空襲を受けていたが、伊四七潜は不思議と敵航空機とは出会わなかった。電探にも入らないので、装置の故障ではないかと疑われたほどであった。

七月二三日、沖縄/パラオ間、沖縄本島から三〇〇浬の水域に到着して哨戒を開始した。前回の天武隊のときと略同じ哨区であるが、そのときとは異なって、敵艦船とは一向に会わず、敵側の哨戒も閑散としていた。飛行機の飛来もなかった。

従って急速潜航をするような機会はなく、天候も連日の好天であった。しかし某日昼間、敵船団を遠距離こ発見して潜航、「回天戦用意」の号令がかかって搭乗員全員が乗艇した。潜望鏡を高く揚げて観測したが敵艦の姿が見えなくなり、遂に浮上して水上航走で索敵を開始したが発見できなかった。

回天戦用意は解除されて搭乗員たちは艦内に戻った。

七月二九日、比島北東方面の新たな哨区への移動を第六艦隊司令部から指示してきた。この水域では台風に突っ込むことになる。やはり翌三〇日からは海上は大時化となった。

浮上航走で西方へ移動中、暴風圏に入っているので、巨大な波が壁のように頭上に迫り、崩れて艦橋に倒れ込む。砕けた海水が艦橋のハッチから滝のように艦内に落下した。怒涛のため航走充電が出来ないので潜航、三一日も荒天で浮上できず、放電量が限度に近づいてきた。

八月一日も潜航していても艦が揺れていたが、夜になって浮上してみると、うねりは大きかったが風力は落ちていたので、終夜充電に努めた。

充電が完了したのは強風が去った二日に入ってからである。

この荒天で後甲板に固縛されていた回天一基が流失してしまった。ほかの回天も多くが浸水していた。荒天に阻まれたのち、会敵の機会がなく、敵の攻撃もなかったが、回天が活躍する場面もとうとう起こらなかった。

八月四日、第六艦隊司令部から哨区の変更を再び指示してきた。大馬力機関を装備し速力の速い伊四七潜に対しては実に頻繁に配備点の変更を司令部が命じたが、五日新たな指定水域に到着したところ、海上は穏やかなのに、敵影が全然見えなかった。六日、呉に帰投せよとの命令が入電して帰途に就き、八月十三日正午、光基地に帰着した。搭乗員六名と回天五基を下ろして、十四日呉に帰着した。

流失した回天は一号艇、即ち隊長加藤中尉の乗艇であった。伊四七潜の後甲板の最後端に頭部を突き出して搭載されるため、浮上中は巨浪の衝撃をことさらに強く受けることになる。

同中尉は、光基地では勇猛で鳴らした機関学校五四期生のなかでも随一の、体躯も大きく威勢のよい青年士官である。それが、自分の乗艇がこともあろうに流失してしまって深刻に悩んだ。部下の搭乗員に向かって「俺と代われ」とは、如何に豪勇の加藤中尉であろうとも、言い出しかねた。

搭乗員の心情としては、自分の回天を譲るような話は、たとえ隊長の命令であろうと、到底受け付けないであろう。それがよく分かるので、中尉は回天発進の際は誰かの艇に入り込んで一緒こ出て行こうと、秘かに決意していたという。

なお、多聞隊の伊四七潜が七月二二日、魚雷攻撃により米海軍の弾薬輸送艦「マラソン」を撃破したとの記述が一部の戦記にあるが、伊四七着が当日魚雷を発射した事実はなく、また「マラソン」が損傷を受けた地点は沖縄本島東岸の中城湾内である。

同艦自身が「人間魚雷の命中による」として戦闘詳報を提出したのであるが、この時期、この場所で潜水艦若しくは回天が攻撃したことはない。日本海軍の一式陸攻が四月の夜間、中城湾に航空機雷を投下しているので、これによる戦果と推定される。

(小灘利春HPより)

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