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伊47潜(多々良隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年 2月22日

硫黄島に続き、米軍は昭和二十年三月二六日、那覇北西の慶良問諸島に侵攻して前進基地を作り上げ、四月一日を期して沖縄本島南部西岸に大兵力を上陸させた。

第六艦隊は二七日、伊号第四七潜水艦を始め伊五六潜、伊四四潜、伊五八潜の回天搭載潜水艦四隻で「回天特別攻撃隊・多々良隊」を編成、各艦は次々と瀬戸内海西部を出て、沖縄周辺の敵艦隊の攻撃に向かった。

伊四七潜は菊水隊、金剛隊に参加したのち、前甲板の十四糎砲を撤去して二基の回天を搭載する設備を新設し、合わせて六基の回天を積むことになった。食糧は二カ月分を積み込み、魚雷は二〇本を搭載した。

艦長は、昭和十九年七月に同艦が竣工して以来の折田善次少佐、

 搭乗員はさきの金剛隊で伊五六潜に乗って出撃し、発進の機会がなく帰還したチームの

柿崎 実中尉     (兵学校七二期、山形県)、

前田 肇中尉     (兵科三期予備士官、福岡県)、

古川七郎・上等兵曹  (水雷科下士官、岐阜県)、

山口重雄・一等兵曹  (同、     佐賀県)、新規に

 新海菊雄・二等飛行兵曹(十三期予科練、山梨県)

 横田寛・二等飛行兵曹(同、      山梨県)

が加わり、計六名であった。

伊四七潜 職員氏名(当時階級)(・印 戦後死去)

  艦長        ・折田善次少佐(兵59)

  水雷長     大堀  正大尉(兵69)

  航海長    ・菊池貞彦大尉(兵71)

  砲術長    ・田実春夫少尉(兵73)

  機関長      朝倉泰二大尉(機51)

  機関長附     佐丸幹男中尉(機53)

 伊四七潜は多々良隊の先頭を切って三月二八日朝の呉軍港のなかを大軍艦旗、加えて楠木正成の旗印「非理法権天」と「南無八幡大菩薩」の長い旗を翻しながら、工廠の多数の人々の盛大な見送りを受けて出港した。

司令塔の横に白く描き込まれた菊水の旗印が鮮やかであった。夕刻光基地に着き、回天六基を搭載して架台と、二本の交通筒が回天に密着するよう摺り合わせ作業を殆ど徹夜で完成、翌二九日諸試験ののち午後に出撃、沖縄を目指した。

豊後水道からは九州東海岸に近寄り、潜伏している敵潜水艦を警戒して第三戦速二〇ノットで之字運動を続けながら南下した。夕刻、宮崎県南部の青島沖に差しかかったあたりで、前方に数十機の小型機の編隊を発見、味方機と思って眺めていたところ、並航していた海防艦が対空射撃を開始したので敵艦載機と分かり、急速潜航した。約三十発の爆弾が付近に落下、伊四七潜は烈しい炸裂音に囲まれたが、艦内の電灯が明滅した程度で損害はなかった。これが出撃初日、早々に受けた爆撃である。

宮崎海軍航空隊が「爆撃により海防艦は瞬時にして沈没、大型潜水艦は行方不明」と報告し、その転電が同艦に入った。事実、この敵編隊は九州の南一二五浬の洋上で米第五八機動部隊の高速空母群から発艦して、沖縄上陸を前に九州周辺の日本の水上兵力を捜索し、攻撃する目的をもって飛行中の艦載機群であった。同日十三隻ほどの艦船を沈没、あるいは損傷させている。

暗闇の迫った頃に浮上し、丁度満月の月明を活かして二〇ノットで先を急いだ。途中、敵機に発見され、赤・青二色の照明弾が海面を明るく照らしたのて急速潜航し、回避運動に入った。

前方至近に投弾されたが、被害は受けなかった。これが初日で既に二度目の爆撃である。三十日に入って視界が悪くなるなかを浮上進撃中、種子島の東方約二〇浬あたりで〇二三〇頃、前面に突如、艦影が現れた。咄嗟に急速潜航したところ、潜水艦は艦首を下に向け、傾斜約五〇度で、感じとしては垂直に近く、七十米、八十米と急速に深く突っ込んでゆく。乗員は立っておれず、機械や突起物に掴まってぶら下がり、辛うじて身を支えた。浸水もはじまった。後部メインタンクのベント弁が油圧系統の故障で開いていないことが分かって、手動で弁を開け、ようやく沈下が止まり、艦は水平をとり戻した。しかし、航海長ほかの述懐によれば、そのあと直ぐに急浮上が始まり、急角度で水面上に、敵前でイルカのように跳び上がり、また沈んだとある。

目の前に現れた艦影は小さい駆潜艇の二隻であった。忽ち爆雷攻撃がはじまり、伊四七潜は深度六〇米に潜入、以後艦長は、音源の聴音報告を頼りに、右へ左への大角度の変針、深度の浅深変換を、速力は戦速、微速、停止と繰り返し変えて、必死の回避運動を続けた。何とか振り放そうとするが相手はいつまでも追尾して離れなかった。駆潜艇はしきりに頭上を通過して、かなり正確な爆雷攻撃を加え、至近の爆発が度々あったが、幸運にも直撃はなかった。投下された爆雷は約三十発を数えた。

潜航してから約十一時間に達して酸素は減少し、高圧空気が漏洩して気圧が上昇し、苦しい。艦内温度も摂氏四十数度に上昇し、管制盤室などは五三度の高温となって電機係は倒れた。艦内は極限の状態に近づいてきた。

折田艦長は腕を組んでジッと考え込んでいたが

「このまま敵の駆潜艇に、むざむざと殺られるのは如何にも無念である。大砲を陸揚げしたから砲戦はできないが、浮上して何とか体当たりを敢行しよう。自分も沈むが相手も沈めて、刺し違える」と、悲壮な決意を一同に示した。伊四七潜はメインタンクに損傷を受けていると思われ、浮上不可能の懸念が強かったが、何とか海面まで浮上したところ、駆潜艇は遠く去ってゆくところであった。

第五八機動部隊は沖縄を空襲するために、同三十日は沖縄本島の東方七五浬へ南下した。この駆潜艇は同機動部隊所属の対潜警戒隊であり、本隊の移動に伴って引き揚げたのであろう。駆潜艇は三吋砲または四〇ミリ機銃を備え、排水量が一〇〇乃至一五〇トン程度なので、一隻が搭載している爆雷は十数個である。おそらく爆雷は二隻とも全部使い果たしたであろう。

種子島南端に七浬まで近づいていた。浮上した伊四七潜の艦長は、敵艦載機飛び去った方向からも、敵機動部隊が五十浬乃至は百浬ほど前方にいると考えて、このような艦の状態にもかかわらず、決然と針路を南に取り、再び敵を追って高速水上進撃を開始した。しかし艦の後方を見ると、艦尾の白波のなかに黒い油の尾を引いていた。

燃料タンクの重油を別のタンクに移動したが、その黒い尾は消えなかったので、幾つもの燃料タンクが損傷を受けていると判断された。おそらく潜航回避中にも油紋が海面に浮かび続けていて、敵駆潜艇は容易に追尾できたのであろう。

又しても、敵の対潜哨戒機が襲来して急速潜航、潜り終えた直後に爆弾が炸裂した。直撃したかと思われるほど、これまでにない至近の爆発であって、続けての数発はいずれもかなり近かった。併せて二〇発ほどの洗礼を受けて、電灯は殆ど断線し、艦内は暗くなった。

敵機の姿が見えなくなって浮上したところ、艦橋の中に不発の対潜爆弾が1発、転がっていた。深度起爆方式の信管であれば、伊四七潜の潜航深度次第でこの爆弾が司令塔の上で爆発したことであろう。

これで、併せて四回もの爆雷、爆弾の攻撃を、出撃から僅か二日のうちに受けていた。ともかく運よく、まだ浮かんではいるものの、既に満身創痍の感である。これ以上の行動は無意味と思われたので、艦長は第六艦隊司令部へ、損傷により作戦行動が不可能になったと打電し、引き返して鹿児島県志布志湾の内浦に向かった。

三一日朝、湾内に入って停止したところ、艦の周囲一面に重油が二十米ほどの半径でサアッと広がって浮かび上がり、海面を汚い茶褐色に彩った。

艦のタンクには多くの凹凸ができており、外板の亀裂や鋲の弛みなども多数発生し、防探塗料は剥げ落ちていた。ここで第六艦隊から帰投命令を受けて作戦を打ち切り、月の明るい海上を北上、翌四月一日、光基地に入港して回天を陸揚げし、搭乗員は退艦した。二日朝出港、呉に帰着して直ちに入渠、大修理に入った。

折田艦長は第六艦隊司令部に、叱責を覚悟して出頭したが、司令長官の三輪茂義中将から意外にも逆に慰められたという。多々良隊は戦果が皆無の上、四艦中の二艦が帰らなかった。

種子島沖で急速潜航した際、急突入して海中深く沈み、なかなか回復しないという事態に陥った上、ようやく水平を取戻して潜航避退を続けている間も、執拗な制圧を長時間にわたって受け、艦内は切迫した状態になった。

潜航指揮官の、剛毅不屈で知られる歴戦の水雷長も遂に「もう駄目だ!」との声を洩らした由である。

艦長も「浮上、刺し違え」と悲壮な決意をした。折田艦長の手記には爆雷攻撃を回避して苦闘する状況は記されているものの、かほどまでの危機状態との表現はない。潜水艦ではこのような危険は日常茶飯事なのであろうか。

実際は紙一重、幸運にこれほどにも恵まれ続けなければ、生きては還れない沖縄作戦であった。

この間、交通筒がある回天は何時でも使えるのに、発進させて駆潜艇を吹き飛ばすことを、艦長、搭乗員をはじめ誰も考えた形跡がない。菊水隊以来の「回天は敵の有力艦を攻撃するもの」との観念が固定していたのであろう。

伊四七潜は多々良隊で出撃して僅か二日の間に連続して攻撃を受け、大きな被害を蒙ったが、甲板上に搭載された六基の回天は約百米の深々度の潜航、加えて爆雷攻撃にも堪えた。外皮は一部凹んだものの、内部機構には異常を来しておらず、使用可能な状態であった。回天が実戦の場で、どの程度の深度、衝撃に堪えられるか、実証できたことは立派な収穫であった。

 

付記:

(1)伊四七潜の多々良隊作戦についての同艦自身、また第六艦隊の戦闘詳報などの公式記録は防衛庁図書館をはじめ、一切現存しないという。多分、戦中これらが作成されなかったものと思われる。

 これまでは専ら折田善次艦長の各種雑誌などへの投稿が原資料となっていて、文章は面白く、緊迫感があるが、内容と日時には他の乗組の記録や記憶とはかなりの食い違いがある。

 多々良隊以降乗艦した機関長附、佐丸幹男中尉(当時)は戦中、日記を毎日、詳細に記しており、機関科でありながら海上模様、回天の発進状況、命中状況までについても正確、克明に記録していて、最も信顛度が高い資料と考えられる。よって、折田艦長戦記とは結果的に相違が大きくなるが、上記は佐丸手記を優先した。

なお、佐丸氏の出身地は富山県富山市。岐阜県高山市の飛騨中学校から海軍機開学校五三期生となった。

豊かな文才に恵まれているが、日本海軍潜水艦史と伊四七潜戦友会報、クラス会報の類以外には手記を発表していない。

(小灘利春HPより)

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