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伊53潜(金剛隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成16年 6月12日

回天特別攻撃隊金剛隊の伊号第五三潜水艦は昭和十九年十二月二八日、呉から大津島基地に回航し、回天四基を搭載して三十日出撃、パラオ諸島のコッソル水道に向かった。

搭乗員は 

久住宏中尉(兵学校七二期)

伊東修少尉(機関学校五四期)

久家稔少尉(兵科予備四期)

有森文吉上等兵曹(水雷科) であった。

パラオ諸島南部のペリリュー島は既に米軍に奪取されていたが、日本国の南洋政庁があったパラオ本島内に海軍第三十根拠地隊がいて、同島北部のコッソル水道にいる敵艦隊の状況を内地へ報告していた。

二十年一月六日の視認情報では在泊艦船が輸送船三三隻、駆逐艦三隻、浮ドック二基、小型艦艇三二隻であった。

伊五三潜は十一日、コッソル水道の周辺に到着して艦位を確認、敵情を偵察した。コッソル水道はパラオ島の北端に続く泊地である。東西十浬、南北十二浬にわたる四角形の環礁が広大な礁湖を抱え、珊瑚礁が太平洋のうねりを吸収するので水面は穏やかである。

その南寄りは浅所や暗礁が多いが、北半分は海底が概ね平坦な、水深二三乃至四十米の良好な泊地であり、米国艦隊は比島に繋がる前進基地、修理補給基地として活用した。

その珊瑚礁は、最干潮時には泊地を取り巻く防波堤のような姿を現すが、すべてが平均水面より下にあり、高潮時には完全に水没する。

外洋との水路は西と北にもあるが、東口は約三浬の幅があり主要出入口であった。しかし椰子の木一本生えていない珊瑚礁であるから、潮が満ちてくれば目印になるものが何ひとつなくなる。干潮時以外に出入する艦船は航路を示す浮標や立標に頼ることになる。各水路とも防潜網を当然展張し、常時警戒艦艇を配置していたであろう。

回天が発進する地点は、コッソル水道東入口の真東五浬から十浬南に下がった場所であった。一月十二日午前零時頃、搭乗員二名が甲板上から乗艇、伊五三潜は潜没して発進予定地点に進出し、到着すると回頭、回天を搭載した艦尾を真北に向け、潜望鏡深度を保って最微速で南下しながら0349、回天の発進を開始した。

しかし、久住艇は発進直後に艇尾の機械室で気筒爆破が発生した。火炎を噴きながら浮上して約五分後に沈没、潜望鏡を覗いていた艦長によれば視野一杯が火になったという。この異変のため、間隔を短縮して急ぎ発進作業を進めたが、続く筈の久家艇は漏気及び艇内に悪ガスが発生し、搭乗員が人事不省になっていた。大きな呼吸音が電話で聞こえるばかりで応答がなく、艦長は発進を取り止め、0353伊東艇、続いて0356有森艇が発進していった。潜水艦は直ちに、敵前であるが危険を覚悟で浮上、ハッチを開けて失神している久家稔少尉を引っ張り揚げ艦内に担ぎ込み、急速潜航して南へ退避した。

伊五三潜は伊東艇、有森艇が発進して約一時間半経った0520及び0525「回天の命中による大爆発音二つ」を遠距離に聴いた。

 

プロメテウスに向かった回天

米海軍の戦車揚陸艦「LST-225」は東口から三.五浬入った礁湖内で錨泊していた。天侯は晴で視界良好。東の微風があり、艦首方位100度。丁度湾口を向いていた。

日本時間0645頃、前方で停泊中の僚艦「LST-131」の後方海面に筋を引く波を乗員が発見した。魚と思って見ていたところ「LST−131」が0701突如砲撃を始めたので潜望鏡と気付き、「LST−225」も艦首前方八百米に来た回天へ射撃を開始した。浮上したまま水面上を滑るように進む回天の進路上には米海軍の8,940トンの大型工作艦「プロメテウス」が停泊していた。

回天は「LST−225」の艦首を右に替わり、横五百米を通り過ぎようとしたので、同艦は装備する三吋砲一門、四十ミリ機銃五門、二十ミリ機銃六門、撃てるものすべての砲火を懸命にこの回天に撃ち込んだ。命中弾が多数あったようであるが、0703回天は浮上のまま向さを変えて「LST−225」に真横から接近し、四五米まで追って0705猛烈な爆発を起こした。

黒い水注が百米も立ちのぼり、同艦は大きく揺れてハッチ蓋は吹き飛び、甲板上の乗員達は薙ぎ倒された。

回天は指示されたとおりの航法で、発進地点から北へ十浬、そこから西に変針して五浬、計十五浬を常用速力十二ノットで航走すると所要時間は連続で一時間十五分、湾口通過は0510頃になる。その手前で浮上し位置を確認、狭水道を通航して泊地内を敵艦を求めて三.五浬航走すれば、この「プロメテウス」を目前に爆発した回天の場合では、所要時間が順当であれば0530頃になる筈であるから、0520と0525に爆発を聴いたという時刻は予想どおりと言える。

しかし、この回天の爆発は0705であった。一時間半ほど余計に時間がかかっているのである。

当日、月齢27.0の月が出るのは0412であったが、日出は0618であるから、水道東入口に近づいた時刻0510頃はまだ暗い。その上、当日の高潮時は0639。潮高は148cmであるから、かなり前から珊瑚礁はすべて水没している。

水面上には何もない。しかも暗闇のなか、どうやって自分の位置を知ることが出来るであろうか。

泊地に入って攻撃したこの回天は、時間をかけてでも幸い水路の通航に成功したものか、或いは珊瑚礁の上を満潮が幸いして乗り切ることが出来たものか。泊地攻撃用の回天は上下の縦舵、左右の横舵の先端、計四箇所に後方に伸びた防護金具を取り付けている。

防潜網を突破する為のものであって、多少の障害物からは推進器を護ることが出来るが、大きな衝撃には耐えられない。

曲がれば舵と推進機が動かなくなって、却って災いの因となる。珊瑚礁の上を越えたとすれば、通航した場所と時刻の両方で余程の幸運に恵まれたと言えよう。

いずれにせよ、時間がかかったことは種々の障害があり、それを克服してきたためと思われ、すでに航続力、体力が限度一杯に来ていたであろう。

敵弾も受けながらも浮上航走を続け、潜入して接敵、突撃をしなかったのは、恐らくは燃料が尽きたためであり、敵艦を目の前にして自爆を遂げたものと推察されるのである。

回天の実用頭部の1.550キロの炸薬は海軍最高の九八式爆薬であり、安定性が極めて高い。回天自体の命中以外、滅多なことでは爆発しないので、弾丸が頭部の小さな爆発尖に命中した場合よりも、自爆であった公算が高いと思われる。

なお、この型のLSTは三吋砲を艦尾の高い砲台に上に装備しており、水面上の目標があまり接近すると撃てなくななる。

他の一基については今なお資料が発見されていない。

別な場所で交戦した可能性があり、或いは航行不能になって自爆したかも知れないが、聴いた爆発音は或いはその回天の終末を示すものであろう。

戦車揚陸艦に損傷を与えた回天の搭乗員が伊東修少尉であったか、有森文吉兵曹であったか、それも知る術がない。

 

一号艇の自沈

母潜水艦の甲板上の一号艇が艦を離れ、搭乗員が発動操作を行って後に気筒が破裂して火を噴き、その海中の火光は暗黒の潜望鏡の視野一杯に見えた。やがて回天が海面に浮かび上がると、闇の視野のなか噴きつづける純粋酸素の火炎は「爆発した」と感じるほどに、更に強く輝くであろう。

その火炎は搭乗員が操縦席の起動弁を閉鎖して、高圧酸素の送気を停めるまでは噴出が止まらない。炎を上げながら離れ、やがて火が消えた一号艇は、母潜から約二百米離れて水没した。

久住中尉が事態を調べ、あらゆる処置を考えた上、起動弁を閉め、自沈を決断するまでの時間約五分のうちに、

潜水艦は深度を維持するための微速力で南へ前進を続けていた。一方、北を向いたまま全く動けぬ回天はだんだんと離れてゆき、沈むときは距離が約二百米に開いたものであろう。

搭乗員の判断は、このまま浮上を続けていたら、

() 続いて発進してくる後続艇の邪魔になる。  また
() 敵に探知、発見される。  
最悪の事態は、
() 潜水艦が彼を救助するため浮上することである。

若しそうなれば、一艦全体の危機を招く。

それらすべてを避けるため、自ら艇内に水を入れ、従容として自らの身を海底に沈めたと推察される。久住宏中尉はそういう人物であった。

回天の機械を発動する時機は、菊水隊、金剛隊の頃までは「離脱浮上発進方式」を採っており、発進命令のあと固縛バンドが全部外れ、艇が少し浮き上がった後に、搭乗員が座席背後の発動桿を押して起動した。

気筒爆破とは回天の火薬の爆発ではなく、推進機関の気筒が始動後間もなく破裂する事故で、基地での訓練中にも発生することがあった。

回天の二重反転プロペラの推進軸は中空になっており、排気管を兼ねている。その出口に鬢付け油を塗った木栓を打ち込んで水密にしておき、発動と同時に排気ガスの圧力で栓が飛び、口が開くのであるが、ここから海水が浸入すると気筒爆破の一因になる。

気筒爆破は機関が発動し艇が走り出した後には通常発生せず、起動桿を押した瞬間から三、四秒後の時機が多い。したがって推進器は殆ど廻らず、艇は全く動かない。

回天は発進時の浮力をプラス百キロに調整してあるので、固縛バンドを解放すると自然に海面まで浮上する。

金剛隊のあとは、回天の機関が正常に発動し、冷走や気筒爆破を起こさなかったことを潜水艦側で確認して

のちに回天の固縛を解く方式「固縛発動、滑走発進」に切り換えられた。

これによって艇が故障した何人かの搭乗員が帰還できた。金剛隊でこのマニュアルを採用していたら、久住艇自沈の悲劇は防ぐことが出来た。

 

久家少尉の人事不省

久家少尉は、その当時は潜水艦と回天との交通筒が整備されていない時期であったから、約三時間余り前に伊五三潜が半浮上して回天に搭乗させている。

かねて長時間の高温に加え、浸入した海水ビルジが油と混合して悪ガスが発生して、そのため大阪商大のスポーツマンも人事不省となった。艇内空気の換気のため吸排気筒が装備されているが、それでは足りないほど空気が悪化していたと思われる。彼は収容後、二時間たって意識を回復した。

伊五三潜が急速浮上して久家少尉を救出したとき、真っ暗闇であるが艦橋の見張員が大型双眼望遠鏡で黒い艦影を発見、急速潜航した。幸い攻撃は受けず、そのまま南へ潜航離脱を続けた。

ペリリュー島の南を迂回してパラオ島西方洋上に出た次の夜、艦長は甲板上に一基残った久家艇の海中投棄を決意し、回天の固縛バンドを解放して急速潜航を試み、浮上したところ回天は架台から外れただけであった。何度か急速潜航を繰り返して、ようやく切り難すことが出来た。

伊五三潜水艦長は連合艦隊、第六艦隊の各司令長官あてに、戦闘状況を簡明に打電報告した上、「不慮の事故を生起し、攻撃力半減誠に申し訳なし。特に一号艇久住中尉の尽忠を察れば断腸の思あり」と加えた。

伊五三潜は命により帰投、一月二六日呉に帰着した。

二月七日の金剛隊作戦研究会の席上、第六艦隊司令部は伊五三潜の戦果を「大型輸送船二隻轟沈」と報告、第六艦隊戦闘詳報にも

「第三十根拠地隊に於いて十二月十三日コスソル水道東口に対する敵艦艇及び飛行機の哨戒特に厳重なるを視認せる等の状況に鑑み二基とも攻撃成功、当時在泊中なりと認めらるる輸送船三三隻(一月六日第三十根拠地隊視認)中、大型二隻を轟沈せるものと認む」と記載して連合艦隊に提出した。

(小灘利春HPより)

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