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伊58潜(多々良隊)回天の戦闘

小灘 利春

平成17年 1月26日

昭和二十年三月、米軍の大部隊が沖縄周辺に集結して侵攻の意図が明らかになり、三月二七日、「回天特別攻撃隊・多々良隊」が伊四四潜、伊四七潜、伊五六潜、伊五八潜の四隻で編成された。

中国に大帝国「元」を築いたモンゴル(蒙古)が十三世紀の鎌倉時代、二度にわたって大船団を組んで日本へ襲来した。その「元寇」第二次の「弘安の役」では兵力十四万人、軍船四千四百余隻に及んだ。

このとき日本の武士団は博多湾の「多々良浜」ほかで上陸して来る侵攻軍を迎え撃ち、ことごとく撃退した。

元の大軍は陸地を占領できないまま、佐賀県北部の鷹島周辺に一団となって固まっていたところを大型台風に直撃され、大船団は覆減して「生きて還る者、僅かに三人」と伝えられるほどの惨状となった。全軍の七〜八割の人員を失ったという記述もある。

この暴風が「神風」であるが、偶然の台風襲来という幸運だけで日本が勝ったのではない。

「多々良隊」の名はこの古戦場から採られた。

伊号第五八潜水艦は回天四基を搭載して、沖縄本島に米軍が大規模の上陸作戦を開始した日の四月一日、光基地を出撃した。

艦長は昭和十九年九月に伊五八潜が竣工して以来の橋本以行少佐であり、回天作戦金剛隊、神武隊に続く出撃である。

回天搭乗員は

 池淵信夫中尉(三期予備士官     兵庫県)

園田一郎少尉(四期予備士官    神奈川県)

入江雷太・二等飛行兵曹(十三期予科連 東京都)

柳谷秀正・二等飛行兵曹(同      北海道)

 の四名。

前回神武隊と同じ顔触れであった。目指すは前日大津島から出撃した伊五六潜と同様、沖縄本島の西方海面であった。

豊後水道を出て、昼間は潜航して種子島東方を南下、屋久島の南を西に抜け、電探で飛行機を発見する都度潜航退避しながら四月六日、ようやく奄美大島の西方に出た。沖縄西方海面に近づくにつれて天侯が悪化し、白波が立つ荒天となった。暗雲が低迷して天測が出来ず、自艦の位置さえ不明であった。回天を発進させるには不適当な状況である。

艦長は敵の艦船が集結する慶良間諸島東方の那覇沖の海面ならば平静であろうと考え、西方に迂回してのち突進して沖縄本島に急接近し、敵泊地に向け回天を発進させようと企図した。しかし、荒天のため自艦の位置は不明、視界も相変わらず不良、電探にも陸地の影が入らない。七日も続いて天候が悪く、推測位置に頼るのみであった。

潜水艦の水中進出速力はせいぜい一、五乃至二ノットの低速であるのに、平均一〜二ノットで北東方向へ流れる「黒潮本流」の中に入れば偏流が大きい筈であるが、自艦の位置を知る手掛かりがなかった。重ねて、飛行機が昼夜を問わず絶え間なく飛来する。短波マストに装備した無指向性の対空電探を潜航中に先ず海面に上げて、上空に飛行機がいないことを確認してから浮上し、浮上中はこの電探および指向性のある十三号対空電探(一号三型電波探知器)で警戒しながら航走、充電し、飛行機を探知すると直ちに潜航退避するのであるが、一回の浮上時間は最大でも二時間以下にとどまり、充電のための浮上時間が十分に取れない状況の連続であった。潜航に必要な充電をするのに四〜五時間、十分に充電しょうとすれば六時間くらいはかかるのである。

戦艦大和が率いる第二水雷戦隊の旗艦軽巡洋艦矢矧と

駆逐艦冬月、涼月、朝霜、初霜、霞、磯風、雪風、浜風の併せて十隻の、いわゆる水上特攻艦隊が、回天基地大津島の西岸に接する三田尻沖で待機していたが、四月六日午後沖縄に向かって出撃、豊後水道を通って七日、東支那海へ出た。

伊五八潜の橋本艦長は大和出撃の通知を聞いたので、その艦隊の後を付いて行き、一緒に突入すれば沖縄に辿り着けると考えて艦隊を待った。しかし徳之島沖の東支那海で米第五八機動部隊は艦載機およそ八百機を発進させ、その連続攻撃を受けて大和、矢矧と駆逐艦四隻は沈み、作戦は中止となった。

一方、連合艦隊司令部からは「決死突入せよ」との厳命が来たので、伊五八潜は意を決して浮上進撃に移ったが、忽ち哨戒機に遭遇するほど警戒態勢は厳重であった。

艦長は四月十日、第六艦隊司令部へ

「七日以来、西方より突入を企図したが、悪天候と敵の厳重な警戒のため回天の発進に不適、自艦の位置も五日以来わからない。敵の制圧下では回天の整備が出来ない上、哨戒機にも発見されており、一時離脱して再挙を期す」旨報告した。

伊五八潜は一時九州の近くにまで引き返して、天候の回復を待つとともに充電を十分に行った。自艦の位置を確認したところ、推測位置との誤差は四五浬であった。

回天の整備を十分に行って、十一日から再び沖縄に向かった。天候は依然として回復せず、飛行機は絶え間なく飛来し、回天発進の機会は掴めそうにはなかった。

第六艦隊司令部は伊五八潜の報告から、このままの作戦を続行することは徒に被害を受けるのみで成功の見込みが乏しいと判新して、四月十四日、多々良隊各艦へ一旦太平洋側に出て、沖縄とマリアナを結ぶ線上で敵輸送ルートを航行する艦船を攻撃するよう命令した。

伊五八潜は西に大きく迂回し、台湾近くを通って太平洋に出た。沖縄東方三〇〇〜四〇〇浬付近へ北上したが、飛行機以外とは会敵せず、そのうち四月二五日未明、

伊五八潜が潜航中に突如爆雷音を連続して九発聞いた。

やがて駆逐艦三隻が接近してきたので、回天を搭載したまま深さ九○米まで潜入して避けた。推進機音が頭上を通りすぎていったが攻撃はなく、かなり遠ざかってから爆雷音一発が聞こえた。この作戦で伊五八潜が最悪の天敵、駆逐艦に会ったのはこの一回だけであった。

太平洋側のこの付近が補給路であり、回天の使用に適当であろうと、橋本艦長は判断したが、そのあと敵艦船に会う機会がなかった。既に第六艦隊から帰投命令が二一日に出ていたので帰途に就き、同艦は天長節の四月二九日、光基地に到着して回天四基と搭乗員を陸に揚げた。

日本海軍の潜水艦は大量の喪失を相次いで重ね、伊四〇〇型など航空攻撃用の特殊潜水艦は別として、残った大型潜水艦は回天搭載潜水艦だけの四隻となっていた。

あとには少数の旧い中型潜水艦と、輸送用の潜水艦しか残っていない。

内地帰着後の第六艦隊の研究会では、潜水艦が警戒厳重な敵根拠地、または攻略海面に進入を試みても成功の見込みがないので、沖縄戦で初めて出た意見ではないが、今後は沖合に出て敵の交通路を狙うほかないとの結論に到達した。

多々良隊作戦でも、回天と潜水艦の艦内を結ぶ交通筒は、艦の中心軸に搭載した二基の回天にしか着いていなかった。この作戦でも、回天を発進させる前に敵の警戒網のなかで潜水艦が浮上しなげればならないという困難な前提条件があったが、その制約を別としても、厳重な敵の警戒網の前には、泊地攻撃では回天の発進できる機会を掴むことは不可能に近かった。

対策として先ず、警戒厳重な海面で作戦行動をするには潜航したままでの充電を可能にする必要があり、そのため「シュノーケル」装置の導入を図ることが決まった。

これがあれば、潜水艦は潜航中、空気パイプを上に伸ばし、先端だけを海面上に出して吸排気を行ない、主機のディーゼルエンジンを運転して充電、航走ができるのである。

第六艦隊も、これで米軍の厳重な対潜水艦警戒態勢、防御能力をようやく認識したのであろう。

前回の千早隊では、回天を発進させずに帰還した伊四四潜の川口艦長は面罵侮辱と退艦左遷の憂き目にあったが、同じ苦境を戦った伊五八潜の橋本艦長にはお咎めはなかった。

(小灘利春HPより)

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