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平成22年4月22日 校正すみ

伊勢・熊野・梨・初桜

左近允 尚敏

戦艦 伊勢 巡洋艦 熊野 駆逐艦梨を引揚げ自衛艦になったわかば

太平洋戦争は、194112月の日本海軍空母機による真珠湾攻撃をもって始まった。当時私は海軍兵学校の生徒で2年目に入ったところだった。           

真珠湾から半年は、日本軍の進撃が続いた。即ち、マレー、蘭領東インド、フィリピン、ビルマなど南東アジアの大部分を制圧し、南はニューブリテン島のラバウルを占領後、更にはソロモン諸島に進出、ニューギニア各地にも上陸してポートモレスビー攻略を目指した。

しかし、余りにも手を拡げ過ぎた上に慢心増長した。42年5月の珊瑚海々戦によってポートモレスビー攻略の企図は挫折し、6月のミッドウェー海戦敗北で一挙に虎の子の空母4隻を失った。

8月、連合軍は反攻に転じた。ガダルカナルに上陸したのである。激しい消耗戦となって彼我の国力差がはっきりと出てきた。日本軍は失った搭乗員、艦艇、航空機の補充が出来ず、兵力は先細りになっていったのに対し、米軍は喪失分をはるかに上回る搭乗員、艦艇、航空撥を続々と太平洋に送り込んだのである。

43年2月、日本軍は遂にガダルカナルを奪われ、4月には山本連合艦隊司令長官搭乗機が撃墜されて山本長官は戦死した。暗号解読による待伏せだったが、海軍当局は解読される筈はないという盲信を変えなかった。

私は9月に兵学校を卒業して戦艦「伊勢」に乗り組んだ。この月にはイタリアが降伏している。

トラック輸送を含む乗艦実習を終えて1115日「伊勢」を退艦、19日には飛行学生となっていたクラスメートも合同して拝謁があった。この頃、米軍はギルバート諸島のマキン、タラワに上陸、激戦の後占領した。

私たち南方赴任組は空母「翔鶴」に便乗、12月初旬トラック着、私は重巡「熊野」乗り組みとなり砲術士を命じられた。下旬にはニューアイルランド島のカビエンに陸兵、補給品を輸送した。

44年2月、米軍はマーシャル諸島のクェゼリン、ルオットに来攻して占領し、次いで連合艦隊の主要基地、トラックを空襲、日本海軍は甚大な損害を被った。3月に私は航海士を命じられ、戦闘配置が艦底に近い主砲発令所から艦橋に変わった。

米軍は5月にビアク島に上陸、次いで6月には大部隊を以ってマリアナ諸島に来攻した。日本海軍は連合艦隊の大部を投入、マリアナ沖海戦が生起した。「熊野」は小型空母群を中心とする前衛部隊の一艦として参加した。

結果は日本海軍の惨敗だった。米艦2、3隻に損害を与えたものの搭載機は殆んどが撃墜され、空母「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」が撃沈された。

米軍はサイパン、テニアン、グァムの飛行場を整備してB-29を配備し、やがて日本本土に対する空襲が始まる。9月、米軍はモロタイ、ベリリユー、ウルシーなどの諸島を攻略した。

10月、米軍はフィリピンのレイテに侵攻し、日本海軍は小沢、栗田、西村、志摩の各部隊を投入したが、戦艦「武蔵」を含む多数の大型艦を失い、侵攻阻止の目的を達することなく終わった。連合艦隊は実質的に消滅したと言うことが出来る。「熊野」は33日間に及ぶ苦しい戦いを続けた。日本海軍の歴史を通じて、これ程激しい戦いを繰り返したフネをほかには知らない。

1024日、栗田部隊の一艦としてシブヤン海で対空戦。10余機と交戦、4番砲塔に爆弾1発が命中したが不発。

1025日、午前水上戦(対空母、駆逐艦)、対空戦。米駆逐艦の魚雷1本命中、艦首飛散、死傷者多数、戦列から落伍。単艦で引き返す途中、2回にわたり味方機に誤爆され至近弾1発。夕方サンベルナルジノ海峡において、30余機と交戦、至近弾多数、死傷者若干。

1026日、ミンドロ島沖で30余機と交戦、前、中部に爆弾3発命中、一時航行不能、死傷者多数。

1030日、マテフ港で約20機と交戦、死傷者若干。

11月6日、ルソン西岸沖で米潜4隻の連続攻撃を受け、4隻目の魚雷2命中(前部と中部)、4つの機械室すべて浸水、全くの航行不能となる。死傷者多数。曳航されて7日サンタクルーズ湾着。

 1119日、16機と交戦、死傷者若干。

1125日、約40機と交戦、爆弾4発、魚雷5本命中、沈没、戦死者累計498名。

その後、約600名の生存者の大部はマニラの陸戦隊に編入され、更に497名が戦死、戦争が終わった時点での生存者は1割に満たなかった。私は12月4日に帰国し、呉で戦闘詳報の作成など残務整理に当たった。

1945年・敗戦まで

45年を迎えた日本は経済的にも軍事的にも末期的症状を示していた。1月9日、米軍はルソン島に上陸した。マリアナからのB-29が毎日のように日本の都市や軍事基地を空襲した。2月19日、米軍は硫黄島に上陸し激戦が始まった。

この頃私は神戸の川崎造船所で艤装中の「梨」の艤装員(航海長予定)に発令された。戦時急造型の「松」型駆逐艦で、樹木から名をとったところから雑木林″と呼ばれていた。基準排水量1,250トン、速力28ノット。兵器は12.7センチ砲3三門、25ミリ連装機銃4基、4連装魚雷発射管1基だった。

「梨」は3月15日に竣工して海軍に引き渡された。翌16日、神戸を発して呉に回航、第11水雷戦隊に編入された。同水戦の任務は、「第1訓練部隊として内海西部にあって新造駆逐艦の急速戦力錬成に任ずるほか、一部艦艇は海上護衛作戦に協力」することであり、軽巡「酒匂」、「月型(防空)駆逐艦2隻」と「雑木林」が10数隻だった。

19日朝、呉を出港して大畠泊地に向かおうとしていた時、米空母機多数が呉に来襲した。「梨」は対空砲火を打ち上げながら出港したが、港内や江田島沖には空母「葛城」や戦艦「伊勢」などの大型艦がいたから、攻撃は受けなかった。

3月26日、米艦隊は沖縄沖に出現して艦砲射撃を始めた。連合艦隊司令部は、11水戦を第1遊撃部隊に編入した。この部隊は戦艦「大和」などの第2艦隊で機会をみて沖縄に突入することになった部隊である。しかし、「雑木林」はすぐに除かれた。訓練も殆んど出来ていないようでは、戦力にならないと判断されたのであろう。

4月1日、米軍は沖縄本島に上陸した。「大和」と軽巡1隻、駆逐艦8隻からなる水上特攻部隊は、4月6日豊後水道を出撃して沖縄に向ったが、翌7日、米空母機の攻撃を受け、駆逐艦4隻を残して撃沈された。

「梨」は4月、5月には内海のあちこちで訓練したり、呉に入ったりしたが、燃料の割り当てがごく僅かだったから、主として停泊訓練だった。乗員約290名の中には第一国民兵と呼ばれた年配の者がかなりいて、泳げない者も多かったので、私が引率して4月末から近くの海岸で水泳訓練をやった。

5月20日、「梨」は第31戦隊に所属する第52駆逐隊(「松」型6隻)の1艦となった。同戦隊は「海上挺進部隊」で「内海西部にあって訓練整備に従事する」となっていた。沖縄は既に米軍の手中にあり、次に来攻するのが日本本土であることは明らかだった。

6月中旬に海軍総隊(連合艦隊が変わった)司令部が決めた海上挺進部隊の作戦要領にはこうあった。

「各駆逐艦は回天1〜2基、花月は8基を搭載、交戦前極力米来攻部隊に近接して、回天を発進せしめたる後、挺進部隊は主として敵輸送船団を求め、夜戟をもって決戦する」

「回天」は人間魚雷である。時期の記憶がはっきりしないが、「梨」は「大和」を建造した巨大なドックに入って「回天」を搭載出来るよう、後甲板を改装した。

7月1日、「梨」は呉の係船堀に横付けしており私は当直将校だったが、夜になってB-2980機が来襲、低空から呉市街に焼夷弾を投下し、街の大半が焼けた。

いよいよ燃料がなくなり、第52駆逐隊の「梨」と「萩」以外は海岸近くで偽装して息をひそめ、乗員は交代でこの二艦に乗って訓練することになった。(結局実施されることなく終わった)。

「梨」は7月中旬には「回天」突撃隊が所在する平生の沖で「回天」の発射訓練を実施、20日と24日には「イ36」潜水艦が発射する回天の目標艦になっている。

7月25日牛島沖で錨泊中、グラマン10数機が来襲し2機を撃墜した。従来の経験からしてこれは特筆すべき戦果だった。夕刻カタリーナ飛行艇が「梨」の大砲の届く少し先に着水し、搭乗員を拾い上げてから飛び去った。鈍重な飛行艇が悠々と瀬戸内海に着水したのであり、日本の防空体制がいかになめられていたかが分かる。

7月28日、「梨」は山口県平郡島沖で錨泊していたが、朝からグラマンの波状攻撃を受け午後2時ごろ沈没した。岡一男上等兵曹の手記から。

『急遽、艦橋上部にある戦闘部署にかけ上がる。ほどなく掛津島上空方向より敵グラマンが襲いかかる。砲術長の指示に従い目標を捕捉、照準鏡に入れる。つるべ落としに降下する敵機の機銃弾の閃光の間に、一際大きい閃光がロケット弾で、直撃弾を受ける度に艦が一瞬大きく揺れる。

第2回の空襲で機関部に直撃弾を受け、動力の機能も破壊された。後部砲塔付近も直撃弾により火災が発生、付近に積んだ石油缶などがボンボンと発火し、海中に落下するのが見えた。機械室の火災により大量の煙と

蒸気が立ち上ぼる』

後甲板火災で気になったのは、爆雷が誘爆するのではないかという事だった。やがて一個がすさまじい勢いで紫色の煙を吹き出したが爆発はしなかった。30余名が戦死した。

平郡島の人々は、乗員の救助に努めてから温かく迎えてくれた。握り飯と熱い味噌汁が振舞われたが、あれ程うまい物は口にしたことがないように思う。深夜に「萩」が来て乗艦、翌29日呉に着いて「梨」の乗員は海兵団に収容された。

8月6日朝、快晴の空が一瞬さらに明るくなった。北側の窓に何人か集まっているので行って見ると、きのこ雲が湧き上がっていくところだった。広島の弾火薬庫が爆発したと思ったが、後から原爆だと知った。

この日、高田艦長、宮原通信士と私は休暇をとって九州の実家に帰ることにしていたので、夕方呉駅で列車に乗ったが、海田市で動かなくなった。

やがて日が暮れ、3人は暗闇の中を駅にして7ツ目の二十日市まで(時刻表によれば21.9キロ)歩いた。(目にした広島市内の惨状は書くに忍びない)。かなりの放射能を浴びてしまった筈である。

15日付だったか、横須賀にある「梨」と同型の「初桜」航海長に発令されて14日呉発、大阪の水交社に一泊して翌15日正午の玉音放送で戦争が終わったことを知った。

敗戦後

終戦翌日の8月16日、横須賀の「初桜」に着任した。「初桜」は間もなくやってくる米(英)艦隊の出迎えを命じられた。

27日、軍令部と横須賀鎮守府の参謀、水先案内に当たる若い士官計40名ほどを乗せて出港、館山に仮泊して翌28日朝出港、大島南東18マイルの会合点に向かった。グラマンがマストすれすれの示威飛行をくり返す。

北上してくる大艦隊より、先行した駆逐艦が接近してきたので、「初桜」は停止し、内火艇で便乗の一行を送った。一行は駆逐艦からハイラインで戦艦「ミズーリ」に送られ、次いで巡洋艦などが「ミズーリ」の両側についてからハイラインで水先案内の士官を受け取っていった。海上自衛隊ではしょっちゅうやっているが、日本海軍にはハイラインはなかったから感心してみていた。

「ミズーリ」から拡声機で、

「初桜、初桜、右601,000メートルに占位せよ」

と、日本語で指示されたのにも驚いた。

「ミズーリ」のそばには英戦艦「キングジョージ五世」もいた。「初桜」は江ノ島沖に次々と投錨する大艦隊を後にして横須賀に帰投した。

間もなく私は帰省したが呼び出され、「初桜」で1年間、復員輸送に従事した。南方が多く、遠くはラバウルまで、バンコクにも行った。

197811月、遺族、生存者、元乗員の人達によって呉の海軍基地に軍艦熊野慰霊碑が建立され、81年には『軍艦熊野』(533頁ある)という立派な本ができた。一昨年9311月には、國神社で遺族を交えての最後の五十周年慰霊祭が行われた。

私はこれまで年に一度は呉に行く機会があり「熊野」慰霊碑と隣の駆逐艦「島風」の慰霊碑(兄が砲術長で戦死した)にお参りしてきた。今年は6月に第4回航隊(55年の「あさひ」、「はつひ」)40周年の集いが呉であったので翌日お参りした。

 「熊野」の数少なくなった生存者の戦友会は、まだ暫くは続けられそうである。今年は5月に淡路島の南部で18名が集まり鳴門の渦潮の見物などもした。

「梨」の慰霊碑は、先に手記の一部を紹介した岡一男氏ら生存者と平郡島の人々の大変な努力によって87年に建立された。沈没海面を目の前にした平郡島の海岸である。柳井港から便船で1時間半ということもあって、私は毎年7月の慰霊祭にはたまにしか参加していない。

94年には参加したが、その際生存者の一人から「梨」の大砲が江田島にあるということを聞いた。8月末に江田島に行く機会があり、戦艦「陸奥」の砲塔の横に「梨」の12.7センチ砲と魚雷発射管が据えられているのを確認した。

私は73年から74年にかけて1年間江田島に勤務したし、何十回も訪ねているが、気づかなかった。随分と迂闊な話である。

「梨」は竣工後4カ月半という短い生涯だったが54年に引き揚げられ、56年に海上自衛隊の護衛艦「わかば」として再生、71年までの15年間、2度目のご奉公をした。こうした例は「梨」だけである。

(追記)

「熊野」についての拙稿『重巡』「熊野」死闘の軌跡』は、「月刊朝雲」の78年8月号から79年4月号まで連載され、後に光人社刊「巡洋艦戦記」(1990年)に『われらが軍艦、重巡「熊野」の最期』、として所載。

「梨」についての拙稿『駆逐艦「梨」内海西部に没す』は、雑誌「丸」別冊(90年7月)に所載。

(なにわ会ニュース7314頁 平成7年9月掲載)

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