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大津島の終戦 20年8月15日

小灘 利春

  急迫する戦局に、特攻最前線にある回天部隊として、奮迅の練成を続けていた第二特攻戦隊の大津島基地は、突如迎えた終戦にどの様な反応を見せたのであろうか。当時この島にいた人々には、刻まれた深い印象がそれぞれにあった筈である。半世紀を経た今、忘却の彼方に霞んでゆくのは止むを得ないが、後世に残す記録が誤っていてはならないので、この島から八丈島に出撃して、終戦時の大津島を見ていない私は、いろいろな人に訊ねてみた。

◎ 主計長であった窪添龍輝主計大尉によれば、

 大津島では基地の全員が、分隊毎に玉音放送を聞くよう主計科が手配した。放送を聞かせなかった、などと言うことは絶対にない。ただ、訓練に出ていた人員などが放送を聞かなかった可能性はあったであろう。しかしながら、玉音放送は聞き取りにくく、聞いていても意味がよく判らなかった。

 指揮官板倉少佐は全回天を、48時間以内に使用出来るよう、急速整備を指示した。放送の内容が判明したのは少しあとであり、その時期は今でははっきりしないが、大浦崎ですら暫くは実情を掴んでいなかった。回天急速整備の指示は、あとで解除されたとのことである。

 呉鎮守府司令長官の金沢正夫中将が、大津島に飛来されたのは8月21日であった。なお、第二特攻戦隊の本部がある光基地は、終戦前日の8月14日に隣接する光工廠が大爆撃を受け、大量の死傷者を出した直後で混乱状態にあり、停電もしていたので殆どが玉音放送を聞くことが出来る状態ではなかったという。

◎ また、大津島の第三分隊は回天10型の搭乗員であるが、分隊長足立喜次大尉は、

  8月15日正午、玉音放送を聞くように、予め言われていたので、大津島の士官宿舎の2階でラジオを聞いた。やや雑音が入ったが、意味は明瞭に判った。その前に、平生基地に転勤するよう命ぜられていたが、新事態でその必要があるのかと疑問に思ったので、大津島分遣隊指揮官板倉光馬少佐に、どうしたらよいかと相談したところ、『向こうで仕事がある筈だから、予定通り行け』との指示があって、17日朝出発、平生に着任した。同基地で、出撃の直前に終戦を迎えた同期生、橋口寛大尉に会ったと語る。橋口大尉はその翌18日未明、自ら搭乗する筈であった回天の艇内で自決して果てた。


◎ 木下。勝少尉によれば

 8月15日は、回天の搭乗訓練については平常どおり実施し、午後も訓練が行われたが、翌日からは打ち切られた。玉音放送の時刻に、私は見張り勤務に就いていたので、放送を聞けなかった。予科練出身の搭乗員が『民家で、戦争終結の放送があったと聞いて来た』と話すので、『妄りにそんなことを言ってはならぬ』と、注意を与えた記憶がある。搭乗訓練は8月18日まで、規模を縮小して続けられた。その日、和気政雄二飛曹は湯浅明夫特攻隊長を同乗させ、搭乗訓練を行った。との証言がある。


◎ 増田秀夫少尉はまた、

 同日正午頃は、回天訓練に追蹤艇に乗って出ていたので、放送を聞いていない。夕食の際、同席した人から初めて話を聞いたが、到底信じられなかった。同日夜、鈴木貫太郎首相のラジオ放送があった。それで事態がようやく判った。とのことである。

 

◎ 高橋一夫少尉には鮮烈な印象がある。

  終戦の日は、宮崎誠一中尉の操縦する回天に私が同乗して、午前中訓練に出たが.回天が目標艦に衝突、沈没したので、正午の玉音放送のときは丁度海底に沈んでいた。引き揚げられ、基地に戻った後で、私は話を聞いた。従って、追蹤艇や、本艇の救助に係わった人々も、玉音放送を聞くことは、当然ながら出来なかった筈である。

 

◎ 伊号第367潜水艦の今西三郎艦長のお話では、

.本艦は沖縄/グアム線上の作戦を終えて、8月15日午後、大津島に帰還した。搭乗員藤田克己中尉、安西信夫少尉、岡田 純、吉留文夫、井上恒樹各一飛曹は投錨して直ぐ、大津島に上陸した。豊後水道の宇和島沖あたりを航行中に玉音放送を聞いたが、内容がはっきりしなかった。詔勅がそのあと電報で入ったので、終戦であることは周防灘を走っている内に判った。搭乗員が上陸、回天を陸揚げしたのち、私は本艦乗員を甲板上に集めて、初めて終戦の旨を一同に知らせた。話している途中、東の方に月が昇ってきて、見事な満月であったことが印象的である。

 なお、藤田中尉の追憶文には

 8月15日正午頃、水ノ子灯台(注:豊後水道内)沖を徳山基地に向け北進中、『よくは聞き取りにくいが、終戦詔勅の如きものがラジオから聞こえてくる』との報告を桑原航海長から聞きました。と記されている。速吸瀬戸を通過した時刻を仮に正午として計算しても、同潜水艦の大津島入港は15日の17時頃になる筈である。仲間が帰って来るので、出迎えた大津島の搭乗員の中には、その記憶しか残らないという人もいる。

◎ 当時、回天整備に当たっていた搭乗員、白井善七一飛曹の回想記の一部には次の記述がある。

 終戦の詔勅は、私は聞いておりません。基地大半の人達もそうだったろうと思います。敗戦を知った経緯はいま詳らかではありませんが、基地分隊の山崎兵曹や太田兵曹等ラジオを聞けた人達や、搭乗員居住区前の通路を隔てた相向かい側に、通信科の居住区があり、甲十四期の通信科員等もおりましたので、話は聞き知ることが出来たと思っております。

−−中略−−

四期予備学生の菊池時郎少尉から『俺は士官室のラジオを投げ捨てたくなった』とか『投げた』とかいう、悔しい気持ちの表現や、他の人達の同様の気持ちの動きを聞くことができた。

 

 これらの話からみて、さらなる戦力強化を急務とした特攻部隊としては、搭乗訓練、追蹤艇や対空見張、また訓練に使う回天の整備などの業務を最優先しており、8月15日はこれらに終日忙殺されていたようである。それに加えて出撃中の潜水艦が帰還し、また沈没事故の発生、救難といった異変があったので、特に多端な一日であったことは確かである。回天隊の日中のスケジュ−ルはぎっしり詰まっている。また「走りだした回天を途中で停めて、追躡艇の中で皆が放送を聞く」という訳にいかないのは当然至極である。兵器整備の流れを途中で止めて、放送を聞く為に総員集合すれば、危険な酸素魚雷の大事故に繋がるかも知れない。従って、玉音放送のある時刻、基地全体の動きをすべて止めるのであれば、その前後、かなりの幅で作業を停止しなければならない。この日は殆ど休業状態となってしまう。敵側から「もう攻撃しない」と断って来たのでもなし、対空見張りもこれまた当然、欠かすわけには行かない。戦争中であるかぎり、あらゆる事態に備えなければならない軍艦が、航行中は総員の整列など到底やれないのと同様であろう。

 玉音放送の内容が「終戦である」と、予め判っていたのならば話しは別である。当時の情勢からは、国民を激励するための玉音放送であろうと予想され、現実にとぎれとぎれに聞こえるラジオから、当座はそのように受け取る者が多かったくらいである。激励であれば、訓練に従事する者は、後で内容の伝達を受けることになる。放送を聞いていて理解できた士官が「ラジオを投げ捨てたくなった」と言うのが当然と思われるほど、基地全員が使命感に燃えていたのであろう。苦境にある戦局を支える最前線の特攻部隊として、大津島基地が採った「訓練続行」は一つの選択であり、当時の状況に身を置いて考えれば自然な処置であったと思われる。

 玉音放送が予告されたのは当日の朝になってからである。その正午の前後は上記のように諸任務に就いていて、放送を聞くことが出来ない人々があったことは明らかである。しかし、仮にも「上層部が、故意に玉音放送を隊員に聞かせようとしなかった、などとという状況は全くなかった」ことは間違いない模様である。

◎ 庶務主任小牧幸雄主計少尉よりの書信 99.9.26 (要旨)小灘抜粋

1 玉音放送が予告されたのは何時、どんな方法であったか?

  ・8月15日早朝、暗号電報だったのではないかと考える。

  ・板倉指揮官から小生(小牧庶務主任)に対して7月末頃、「兵科士官は全員、回天の訓練を行うので、貴様は暗号を兼務しろ」と命令されていた。

  ・従って8月15日の電報も小生が解読し、指揮官の指示を受けたのではないかと思う。

2 終戦の放送であることが判ったのは何時か?

  ・玉音放送を聞くまでは、全く判らなかったと思う。

小生は上述の電報を解読しながら、これを終戦に結びつける事が出来なかった。

  ・終戦だとハッキリしたのは、15日の午後であった。

 士官宿舎ですれ違った予備士官の方に「戦争は終わったのだよ。軽挙盲動するなよ」と言われたのをハッキリ覚えている。

3 玉音放送をどんな形で聞いたか?

  ・ラジオの受信機は各所にあったと思う。全分隊が聞けるように、庶務の方で確認したのではないかと思う。

   ・正午に、手空き総員が集合して聞いたという記憶はない。私は主計課分隊の全員と一緒に聞いた。

  ・ラジオの状態が悪く、あまり良く聞き取れなかったので、陛下の全国民に対する激励だと受取った。

4 重大放送に伴う混乱の防止策が執られたか

    ・一切、聞いていない。

5 「放送を聞かせない」或いは「終戦の事実をしばらく伏せる」などの処置が執られたか?  また、あったとすれば、その解除は何時か?

  ・一切、無かったと思う。上記のとおり、各分隊で聞くようになっていた。

6 その他、思い出す事柄

  ・「回天48時間全力整備」について、指揮官の指示があったことはハッキリ覚えているが、《15日午後に》

部隊全員を集めて訓示のあとに命令されたのか、或いは整備長に下命されたのか、ハッキリしない。私は、前者であったような気がする。この命令が解除されたのは17日であった。

  ・15日の夜、ガンル−ムでは終戦を納得できないとの声が強く、代表数名(73、74期) が士官食堂の指揮官のところに出かけて行った。

    ・「二特戦の各基地の出撃者名簿」を作成するよう16日に指揮官から小生に下命があり、徹夜で17日の午後に仕上げた。

17日は主計課は全員の退職金の計算に大童であった。

18日小生は徳山の銀行に退職金のお金を受取に出かけた。

7本部建物について

  ・20年5月に私が着任した頃は、若手士官だけの宿舎が別棟になっていた。木造二階建てで、一階は食堂兼サロン、便所などで、二階が寝室になっていた。74期は一室に4〜6名。木製二段ベッドであった。

  ・本部二階は指揮官、特攻長はじめ各科長の個室だったような気がする。

(注:72、73期、3期予備士官の搭乗員の居室も二階にあった)

  ・本部棟の南側入り口の左側が庶務の部屋であった。

  ・士官烹炊所、医務室は別棟であった。

(小灘利春HPより)

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