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特攻断章・固定観念 

平成16年10月30日

小灘 利春

 戦後の昭和二六年、私は新造の外国航路タンカ−の航海士になり、ペルシャ湾に向かった。インド洋を渡って湾内に入り、バ−レンの沖を通り過ぎてサウジ・アラビアの原油積出地「ラスタヌラ」に入港した。現地の石油会社の事務員と荷役の打合せが終わり、本船の事務長が何気なく「日本の山々は緑の樹木で覆われている」と語ったところ、相手の事務員はいきなり怒り出した。

「でたらめを言うな! 山に樹が生えるわけがない!」と、しばらくの間、真剣な顔で睨みつけていた。我々は呆気にとられたが、見てきたばかりのペルシャ湾岸の風景を思い出し、なるほどと合点した。航海してくるとき双眼望遠鏡で陸岸を眺めると、入り口のオマ−ン国も、北のイラン側も、南のアラビア側も、一面の砂漠か、岩山であった。岸にたまに木が見えても、一本づつ疎らに立っているだけである。山は裸の岩ばかりで、草も生えていない。そのためかレ−ダ−の映りが凄く良い。実に殺風景であって、日本に帰って来ると山野の和やかな風景に全くホッとしたものである。山に樹がないのは砂漠の国の常識であった。自分の土地しか知らない現地人の、無知からくる思い込みであろう。まだテレビがない時代でもあった。

 

日本でも先日、似たような思いをした。某テレビ局の女性レポ−タ−から取材を受けて「何故、特攻をやったか」と、二時間半あまりもかけて懸命に説明した。「戦争末期、日本の行く手には破滅しか見えていかった。この国と民族、文化、伝統が地上から消滅しないよう護るためには、我が身を弾丸に代えてでも侵攻する敵艦を沈め、日本本土の陸上戦闘を防ぎ止めることで、多くの人々を救うほか手段がない。一人の捨身が多数の日本人の身代わりになると判断したからこそ、若人たちは自らの生命を捧げる特攻の道を選んだのである」と繰り返し力説したが、相手は一向に納得しないでイライラしていた。挙げ句の果て、「人間が、他人のために死ねるわけがない!」と、ポンと蹴飛ばすような捨て台詞を残して「馬鹿みたい」という顔つきで離れていった。

 

自分一個の権利ばかりを主張して、公を否定する、占領軍指導の戦後教育が「国のため、世のための意識を拒絶する固定観念」を植えつけた。その観念からは、生命を捨ててでもの「献身」を理解することなど、およそ無理なのかも知れない。しかし世を善導すべきマスコミが、無知から来ているとは言え幼稚な先入観にとらわれたままでは日本の将来を誤る。どこの国でも、どの時代でも、常に人間が一番、護りたいのは自分の家族であるが、その家族の運命は当時、日本人全体の運命と共通であった。国家、国民を護ることが、同時に身内を護る手段である。

 

 従って、最善の家族自衛策が特攻であったのである。惨憺たる殺戮をもたらす敵侵攻軍の上陸を防ぐ方法は、もはや特攻以外にはなかった。

 

「多くの人のために」という発想が消えたままでは、日本人はいずれ、平和な国家はもとより、安全な社会さえも維持できなくなるのではないか。

神風、回天の特攻攻撃に手を焼いた米国は、これ以上の自国民の損害を避けるためにカイロ宣言、ヤルタ密約の「無条件降伏」から、昭和二十年七月二六日のポツダム宣言では「有条件降伏の対日勧告」に切り換えた。そして終戦後、占領の基本政策として自らの安全を優先し、「将来日本がアメリカに歯向かうことができないような憲法」を押しつけ、マスコミと教育を厳しく統制した。当然、特攻も効果がなかったとした上で、非人道的なな蛮行であるとして否定した。日本人自らが占領の呪縛を、戦後いつまで経っても解かないようでは、民族の資質を問われるであろう。 

 

付言

私が乗船した日本水産の「松島丸」は第五次計画造船の適用を受けて建造されたばかりの、制限一杯の大型船であった。進駐軍は戦後何年か経って日本に商船の建造を許可したが、昭和二五年当時はタンカ−の最大船型を総噸数1万2千トン、載荷重量屯で1万8千トンに制限した。

被占領国を殊更に苛めたわけではなく、それまでの米国はじめ世界各国のタンカ−が大型でもその程度のサイズであった。私は戦後、京都大学を卒業し、トロ−ル船の末席漁船員を経て、この船の航海士を命ぜられ、アラビア湾航路の原油輸送に従事した。あと「捕鯨母船・図南丸」に乗り組んで南氷洋捕鯨に参加したほか、オフシ−ズンにはこの航路と北米西岸から日本への重油輸送に従事した。アラビア湾には合計5回往復した経験がある。

図南丸はトラック島の海底から引き揚げられ、昭和二七年に再び捕鯨母船に帰り咲いたが、総噸数2万トンの同船は戦後相当の期間、日本最大の船舶であった。この大きな内湾は歴史的に「ペルシャ湾」の名で親しまれていたが、現在ではサウジ・アラビアの強制によって「アラビア湾」と呼ばないと港に入れず、郵便も届かなくなっている。

積荷を全部揚荷すると、重い機関室が船尾にあるタンカ−では、平均喫水の9米以上に沈んでいた船首が水面を離れて高く浮き上がるのである。船首喫水がマイナスになって、安定した航海ができないから、バラストの海水をタンクに漲らなければならない。

 機関室が船体の中央にある船型ならば船全体が水平に浮き上がる。戦後商船乗りとなってこの事実に初めて接し、私は愕然とした。商船、輸送艦というものに関心が薄かった日本海軍は、貨物を運ぶ船が満船と空船とでは、これほどまでに喫水も、船の姿も違うことに認識が乏しかった。

回天搭乗員は満載喫水の見当は大体つけることが出来ても、船が目的地行きと帰りで喫水が違うことまで知らなかった。「軍艦でなければ輸送船」とだけで、作戦実施部隊の第六艦隊司令部も、潜水艦長さえも、商船の特性を知らず、搭乗員にも教えなかったが為に、正確に攻撃しても空しく艦底通過に終わって、折角の搭乗員の献身が戦果に結びつかなかった例が多々あった。これも我々の無念のひとつである。

 

特攻断章

特攻は民族としての生存権、防禦権、自衛権である。即ち生存権である。誇りをもって死ねるならば結構。やりたいことの全てをし遂げずとも、今の自分に可能な最善、最大の事を為しての生を終えるのであれば満足すべし。命ある限り上手くなり続けたい。 

 

別記

若い一人の人間として、やりたいことは沢山ある。しかし今、我々のいる国が、社会が自分たちに緊急に求めているものに、ともかく自分たちが対処しなければならない。残念であろうとも、生まれ合わせた時代が悪かっただけである。

(小灘利春HPより)

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