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平成22年4月19日 校正すみ

回天特攻・菊水隊の真実

小灘 利春

船は、水が入って浮力がなくなると沈む。敵艦を撃沈するには艦底に大穴を開けるのが一番手っ取り早い。魚雷が攻撃兵器として有効である所以である。制海権、制空権を失ったなかで、敵艦隊の主力、空母・戦艦を撃沈するには、潜水艦の魚雷が必ず命中するように人間が乗って操縦すればよい。任務を達成した瞬間に、搭乗員の生命は絶たれるが、その代わり通常の手段では不可能な大仕事が、たった一人でやれるのである。

 

攻撃の要諦は「先制と集中」である。特に、窮迫した戦局を一挙、大逆転するからには、大量集中の投入でなければ意味がない。昭和19年9月初め、我々72期の潜水学校組が着任して「人間魚雷の搭乗員である」と聞いた時、一同が真っ先に思い描いたのは、敵艦隊が集結した泊地に50本、100本の「眼のある魚雷」が雪崩れ込み、一挙に敵主力艦隊を覆滅する光景であった。若い士官一人で大きな仕事が出来る喜びと共に、前途に破滅しか見えない我が国土・国民を我々の突人によって救うことが出来る期待で勇みたった。

正しく、人間魚雷・回天は前進基地に集結した敵の主力を、出動する前に泊地内において撃滅し、戦局の一挙転換を図る戦略的な奇襲兵器であった。

  しかし、この目的に合わせて93式酸素魚雷を人間が乗って操縦できるように改造し、合理的で無駄のない構造と性能を備えた回天も.急速生産が可能というのに、一向に出来てこなかった。「8月中に100基を至急生産せよ」との命令が出ていたにも拘わらず、月末の生産数は何と、ゼロ! 9月も後半になって、やっと少しずつ兵器が大津島の回天訓練基地に届きはじめる始末であった。

 

その内、米軍の急速な比島侵攻に追われて潜水艦部隊の態勢が混乱し、当初は、回天作戦潜水艦8隻、回天32基の構想であったというが、現実の第一陣、菊水隊は潜水艦僅かに3隻、回天12基に過ぎなかった。折角の人命を代償とする戦略兵器である筈の回天が、なし崩しに次々と浪費されてゆき、その上、同じような戦術的失策をいくつも重ねて、虚しい結果の連続となった。

回天についての記述はこれまで、作戦担当参謀と一部の潜水艦長の戦記が基軸であった。そのため裏付けのない一方的な記述に終わり、回天の戦略的意義とか、戦術面に於ける当否、巧拙などの問題には殆ど触れることがなかった。

このように日本側の資料が偏り、米側も回天について誤認があり、承認した戦果もまた少ない。双方の記述が大きく食い違ったままで併存してきたが、近年ようやく米国側の艦船、部隊の機密資料が公開され、我々が対比検討したところ.重要な事実が次々と判明した。

 

最初の初陣、菊水隊に参加した潜水艦3隻は昭和1911月8日、回天各4基を搭載して、山口県大津島基地を出撃した。伊号第37潜水艦はパラオ本島の北岸コッソル水道に向かい、伊号第36潜水艦と伊号47潜水艦の2隻は米軍機動部隊の前進根拠地、西カロリン諸島のウルシー泊地を目指した。1120日黎明の同時刻を期して、12基の全回天が一斉に突入する計画であった。

37潜はコッソル水道西口で攻撃予定の前日に発見されて対潜掃討隊と交戦沈没し、村上克己中尉(機53期)ら4名の搭乗員も雄図空しく戦死を遂げた。ウルシーでも、発進した回天は伊47潜が搭載した4基全部と、伊36潜の4基のうち1基、計5基であった。

第6艦隊は、「正規空母2隻、ワシントン型戦艦3隻」の大戦果を発表したが、米側は艦隊随伴油送艦1隻の沈没という。実態を日米双方の資料により調査した結果、各回天の状況は概要次の通りであった。

 

1 伊47潜が爆発を望見した回天

1120日未明、環礁内北部泊地には戦艦ワシントン、ノースカロライナほか。その南寄りには大型高速空母エセックス、レキシントン、バンカーヒル、タイコンデロガほか、それに重軽巡洋艦数隻。泊地全体では大小200隻の艦船が停泊中であった。

 

47潜は前日秘かにウルシー環礁に接近して泊地状況の偵察を行った。200030浮上して佐藤章少尉(兵科3期予備士官、九州大学)渡辺幸三少尉(同、慶応大学〕が甲板上の回天に乗艇、発進地点へ潜航進出し、0300仁科関夫中尉(兵71期)、福田斉中尉(機53期)が交通筒を通って乗艇した。艦長は主要航路のムガイ水道を避け、南隣のマガヤン島とローラン島の間の狭い無名水道を通航して泊地に入った後、それぞれ指示された方向の敵艦を攻撃するよう各艇に命令した。

以下、同艦々長折田善次少佐の戦後の著作によれば、040047潜は発進予定地点のマガヤン島南東4浬に到着した。0415 1号艇発進、5分間隔で0430までに回天4基が発進を終え、伊47潜は直ちに急速浮上、第3戦速20ノットの高速で南東へ避退した。

 

艦長の予測どおり発進後約50分の0507オレンジ色の大火柱が上がるのを望見、0511、同一方向に再度閃光と火焔を見た。なおも水上航走中、前方右5度、距離6,000米に敵駆逐艦を発見し急速潜航した、と記述してある。発進後の回天について日本側が見たものは、この火焔だけであるが、第6艦隊司令部はこれを戦果の根拠とした。

この艦長戦記は奇怪しい。伊47潜が回天を発進させた直後に浮上、高速避退し「艦尾方向の暗い視界のなかで爆発の閃光」を艦橋にいた全員が目撃した。そのあとも、正面から接近する敵駆逐艦を距離6,000米でようやく発見するほど、敵艦のほうもまた正面に大型潜水艦が浮上して白波を蹴立てて高速航行していても気付かなかった程、あたりが未だ暗かったのである。船乗りは前方から目を離さない。特に戦闘艦艇は自分の進む方向を常に警戒するのに、敵味方双方ともが判らなかった。この暗さについては各関係者の発言が一致している。問題は「回天の敵艦命中にしては、周囲が暗すぎる」ことである。

泊地攻撃に向かう回天にとって唯一、最大の難関は、環礁の切れ目にある狭水道を発見して、そこを通り抜けることである。この大火柱が、礁湖内にいる敵艦への命中ならば、その前の更に暗い時刻に観測地点に辿りついて浮上し、通航できる水道を見つけ出して.通過したことになる。

 

第6艦隊司令部は伊47潜ほかが内地帰着直後に提出した報告に基づいて菊水隊戦闘詳報を作成した。これには「伊47潜回天4基 03280342発進。発進地点はマガヤン島の15412浬」となっていた。発進時刻と地点、ともに艦長戦記とは相当な食い違いがある。そして「火柱の昇騰を認め、更に大火炎を確認した」のは04160422となっている。艦長戦記の0507よりもずっと早い時刻である。当日は日出0538、月齢は4.1で、3日月ほどのその月も、黎明時はまだ出ていない。

菊水隊の戦果は油送艦ミシシネワ一隻の撃沈であった。これが唯一の命中、爆発であり、時刻は米側の公式記録によると0547である。日出後の、十分に明るくなったこの時刻に発生した爆発は、伊47潜艦長が『回天の戦果』と報告した暗いなかの爆発とは明らかに別な爆発ということになる。

米側各種艦船の航海日誌、戦闘詳報を調べたところ、米海軍のウルシーでの使用時刻は日本側と同一であった。回天作戦を担当した元参謀の著書に「日米の使用時刻に40分の差があった」と再三記述があるが、明白な誤りである。

 

一方、米海軍の海洋観測艦サムナーは南部の泊地に停泊していて、同日「0418に巨大な閃光を伴った大爆発を視認した。プグリュー島の1浬半南の珊瑚礁で起こったものと見られる」と報告している。この爆発こそ第6艦隊文書に記載された、伊47潜が火柱を望見した時刻0416と略一致するのである。

ウルシーで0547のミシシネワ命中より前にあった爆発はサムナーが報告した0418の大爆発以外にはなかった。少なくとも 0507頃は何事もない。即ち、伊47潜艦長の著書には詳細な状況説明があるものの、この時刻には客観的根拠が何もない。

 

さらに、同日正午に近い1132、プグリュー島南外側の同じ様な場所で回天の自爆としか思えない大爆発が起こっている。プグリュー島はウルシー環礁でも南端に近い小島である。その島の更に南側で起こった2件の爆発は、回天が2基もここで自爆したことを意味する。後にこの場所で回天の残骸が発見された。

 

これら2つの爆発が証明するものは、伊47潜が艦長戦記に述べる「ホドライ島の南東4浬」といった、湾口近くまで接近して回天を発進させたのではなく、戦闘詳報に記載のとおり、同艦が同島より遥か南から発進させたという事実である。米側記録によれば当時、湾口付近は4隻の米軍艦艇が哨戒中であった。本当に豪胆な艦長であっても、急速浮上、高速水上航走など到底できる場所ではない。

 

さらに浮かぶ疑問は、実際の発進地点の正確性である。伊47潜艦長および航海長の著書を見ると、浮上して2基の回天に搭乗員を乗艇させたのち潜航して予定発進地点に進出しているが、推測航法により低速で水中を進むだけで、途中で位置を確認した様子がない。潜水艦長が決定したマガヤン島の154度という発進点からは、進路が珊瑚礁の列に近く、略並行に回天が走ることになる。それであれば、発進地点が左へ偏位していないか確認することが航海者として肝要である。進出方向にある筈のホドライ島の紅色航空標識灯を発進開始前に確認していれば「左右の偏位」は少なくとも検知できたのである。回天担当参謀の戦後著作に「標識灯を見た」と記載しているのに、原本に使った潜水艦長戦記、また航海長手記にも「見た」との記述はない。戦闘詳報記載どおりの発進地点「マガヤン島の15412浬」からホドライ島の標識灯を見ていない。見えなかつたであろう。

 

重要な問題として、同艦は北赤道海流の影響を顧慮した様子がない。この海流は時に1ノットの西流になる。一方.潜水艦の水中進出速力はせいぜい2乃至3ノットの低速なので、右横からの海流の流速が1ノット以下としても、長時間の潜航をすれば当然、艦自体がかなり西へ流されてゆく。その偏位を確認しなければ、発進地点が西へ狂っていても判らない。それなのに、航海長は搭乗員に「そのまま直進すれば、水道入り口です。成功を祈ります。頑張って下さい」と電話で決別の言葉をかけた、と著書に記述してある。

 

このような推測航法だけの発進地点から回天が指示された通りの針路、速力と深度で水中進撃すれば・プグリュー島の南側で「回天が相次いで珊瑚礁に衝突、座礁するのは当たり前」である。回天の電動縦舵機(ジャイロコンパス)は鋼球が一分間に2万回転するもので精度、信頼性が高く、作動が狂うことは滅多になかった。搭乗員は重大な使命を帯びている。彼等の任務と生命を虚しく捨てさせたのは杜撰な航法ではなかったか。

 

人間魚雷回天は文字通り潜水艦に搭載される魚雷であり、搭乗員は艦長の命令を受けて発進する。「針路○○度、速力12ノットで○○分間走れ」の指示通りに航走し、浮上した後は搭乗員が周囲を観測して自身の判断で行動する。無事に北進出来た、あと2基の回天は、珊瑚礁を擦りながらも運よく脱出できたか、或いは指示された珊瑚礁の縁すれすれの航路に不安を感じて、発進後まもなく浮上して観測、針路を修止したものか、どちらかであろう。

 

そもそも、第6艦隊戦闘詳報どおりの0330前後に発進し、湾外12マイルの距離を規定の12ノットで一気に航走しても湾口到達は 0430頃になるのに.それより前のしかも真暗闇の0416前後に、泊地内の敵艦まで回天が行き着ける筈がないのである。簡単に暴露する矛盾である。回天搭乗員なら忽ち看破する程度の虚構であるのに、潜水艦長、第6艦隊司令部とも、試算さえしなかったのか「全艇、空母、戦艦に命中」の大戦果を上層機関に正式報告した。承知の上の話であれば、かなり悪質ではないか。

 

47潜が望見し「回天命中」と報告した爆発は.同艦によってリーフに撃ち込まれた回天の自爆である。発進した4基のうち2基までもが、同じようにして、同じ場所で自爆に追い込まれた。無念ながらそのように判断せざるを得ない。

 

2.東口湾外で米国巡洋艦隊を攻撃しようとした回天

ウルシー泊地の東口ムガイ水道は大型艦船が出入する主要水路である。同日早朝、サイパン経由で硫黄島、小笠原諸島を艦砲射撃するため出撃する米第5巡洋艦戦隊の重巡チェスター、ペンサコラ、ソルトレークシティ、第7駆逐隊のカミングス、ファニング、ケース、ダンラップの艦隊が錨地を出てムガイ水道を東へ抜けた。湾口の東水域を分担して警戒中の掃海艇ビジランスが0523小型潜航艇の潜望鏡と航波を近くに発見、通報した。その針路約060度、速力7乃至10ノットと報告している。位置は防潜網入口の東1,800米であった。巡洋艦戦隊は湾口を通過して之字運動を開始したあと、旗艦チェスターが艦首前方に、また右側を警戒航行していた駆逐艦ケースも、南下する潜望鏡を発見した。

2番艦ペンサコラの前方を潜航通過して隊列の南側に浮上した潜航艇は先頭のチェスターを襲撃する態勢を取るかのように.浮上のまま左に大きく旋回して同艦の右正横に来た。「潜航艇が魚雷発射のために占位運動中」と判断したケースは、潜望鏡がチェスターを向いたままであるのを見て体当たりを決意、面舵一杯、右舷機後進全速、左舷機前進一杯で急速転舵し、浮上航走中の潜航艇の左側から0538艦首で乗り切って中央部を切断、続いて旋回しながら爆雷を投下した。

 

まさしく一基の回天が湾口の東海面を東北東に向かって浮上航走しているところを先ず発見された。座礁を免れて、恐らくリーフに沿って北進して来たこの回天は、遂に水道を発見出来ないまま、珊瑚礁北側の島影に行き当たって反転、針路真南で逆行を始めたものと思われる。その航跡から見て伊47潜から発進した回天である可能性が高い。

 

その時刻は丁度、日出の0538であった。天候は半晴で積雲があり、当時の写真を見ると、東の方向は特に雲が累積していた。回天にとっては運悪く、太陽が昇る方向に位置しており、西から見れば海面が明るい。且つ艦隊が進む正面でもあるため、僅かな波を立てて進む小さな潜望鏡でも、米側各艦には容易に発見出来た。

この回天は巡洋艦だけを観測し、警戒艦艇を見ながらも多分、無視したであろう。初攻撃当時の我々の感覚では.泊地内に突然姿を現す新兵器に、敵の艦艇は直ぐに対応できない。追いつける筈もない。構わず悠々と、最高の目標を一方的に選んで突撃すればよい、と確信していた。従って目標以外の敵艦への警戒とか、敵弾回避、爆雷攻撃への対応など、当時は誰も考えず、研究会で話題になったことさえない。攻撃一本。それが裏目に出て、休当たりする筈の回天が逆に体当たりを受けたのである。

回天を命中と同時に自動的に爆発させる慣性信管も、手動電気スイッチも、安全装置は狭水道を通過した後に解除することになっていた。既に解除していたら、駆逐艦は衝撃と同時に轟沈したであろう。

 

航行艦襲撃についての研究、訓練を始めたのは菊水隊が出撃した後である。その前の段階で航行艦を狙った経験は我々にはないが、この搭乗員は相手が航行中であることを認識し、見敵必殺、目の前に現れた大型艦をともかく攻撃しようと身構えたのであろうか。航行艦攻撃が出来る人物であった可能性もある。推測の域を出ないが、いずれにしても0330頃の発進から既に2時間余りも経っている。珊瑚礁に危うく撃ち込まれかけて混乱した上、闇のなかで長時間の狭水道模索を続け、搭乗員がかなり疲れていたことは充分に推察できる。

 

 ミシシネワに命中した回天

大型油送艦ミシシネワが0547突如爆発し、炎上した。ムガイ水道の南北両端のマーシュ島とマガヤン島の中間の奥にある131号錨地で錨泊中であった。艦首方位120度で、丁度湾口を向いていた。

 

就寝中のミシシネワ艦長は跳び起きて、艦の左側に奔騰する火炎を見た。「魚雷が前部の左舷に命中した」と判断、各種報告書には全てそのように記されている。しかし今から3年前、米海軍の潜水チームが初めて同艦を調査したところ、右舷側に大きな破孔が開いていた。回天が同艦の南側から突入したことになる。

命中箇所で起こった大爆発の衝撃が周囲の隔壁を破り、航空ガソリンを積んでいたタンクに引火して、最初に猛烈な火炎を左側へ噴き上げたのであろう。洋上出撃の直前で基準量の積荷を満載していた。ガソリン1,530klと重油15,740klが激しく燃えつづけ、黒煙は高く天に昇った。重油は周囲の海面にも流れ出して燃え、砲側に準備していた砲弾、あと弾薬庫と、爆発が相継いだ後、同艦は転覆し0928沈没した。航洋曳船ほか多数の船艇が救難に出動、消火と乗員救助に努めた。乗員298名のうち、艦と運命を共にしたのは60名であった。

この爆発音は日本の潜水艦側でも海中で感知した。伊36潜はウルシー環礁東方で回天が発進した後、制圧を受けて潜航退避中の0545大爆発音を聴取した。伊47潜も潜航中に爆雷音とは異なる大爆発音と誘爆音を05500600の間に数発聴取したと報告している。また第6艦隊も0558ウルシーの空襲警報を傍受した。

 

回天が指示された「空母、戦艦」ではなく、タンカーを攻撃したのは、平たく長い艦型が似ているため、すぐ後方に数隻いた大型空母群の1隻と、搭乗員がたまたま見誤ったのではないかと想像される。

この回天は、仮に伊47潜からとすれば、無名水道と表示されたザウ水道を指示どおり通過したか、主要航路のムガイ水道を突破したか、経路を立証する記録はないが、0330頃の発進から既に2時間15分前後も経過していることでもあり、これまた予想外の進出航路の混乱と、闇夜の狭水道模索に苦しみ、疲れていたであろう。但し、命中した回天が伊47潜から発進したとは断定できない。

ミシシネワは米国海軍でも最新、かつ、最大型の艦隊随伴型油送艦であって、積荷を満載していた。軽微な損害ではないが、やはり正規空母轟沈のほうが米軍に与える物的、心理的な衝撃は明らかに大きく、その後の戦局に影響を与えたであろう。また、大きな弾火薬庫を持つ戦艦であれば艦底命中、誘爆で回天が一発轟沈を果たすことが出来た。この回天搭乗員が「本望の完全な達成を逸した」という意味で、我々としても残念である。

 

 泊地内で米国巡洋艦を攻撃した回天

タンカーが爆発炎上中の0600、マーシュ島北西の15番錨地に停泊していた軽巡洋艦モービルは防潜網に近い海面に白い水煙を見た。防潜網はベゲフ島とマーシュ島、さらにマガヤン島を結んで展張されており、同艦はその西側2,300米にいた。そのあと潜望鏡が2〜4ノットの速力で真っ直ぐに接近してくるのを発見して、5吋砲と機銃で射撃を開始。40ミリ機銃の集中射撃がよく命中したというが、潜航艇は潜入し、あと水面直下を走る潜水艦が起こすような小さな波が同艦左舷正横に近づき、50米でそれも見えなくなった。司令官は同艦から「魚雷が艦首の下を通り抜けた」との通報を受けて、出動可能な駆逐艦に出航、警戒を命令、護衛駆逐艦群が付近の捜索を開始した。

0608頃、モービルは南隣に停泊中の僚艦ビロックシーとの間の海面に、変わった渦を発見した。護衛駆逐艦ロールが礁湖を横切ってモービルに近づき、両軽巡の間に発生している渦に向けて、0647爆雷を投下、他の2艦も渦の上を航過して浅深度爆雷を投下した。

0653 ロールが2回目の爆雷を投下したあと海面に泳ぐ2人の日本人を発見、波の中に顔が見えたが長くは浮かんでいなかったと言う。現場を捜索した米軍の短艇は枕と日本文字が書かれた木片を拾い上げた。枕とは操縦席の座布団のことであろう。3日後、日本人の1遺体がこの爆雷投下地点の付近で揚収された。

あと駆逐艦群は泊地全部の捜索を続行し、0805から夕刻に至るまで.次々と潜水艦?を探知しては爆雷攻撃を続けた。1105ソワクブ水道の内側を調査中の上陸用舟艇が付近で起こった爆発で損傷した。この小さな水道に敷設した磁気機雷に米軍自身がかかったのである。

「変わった渦」は「直径7〜8米の滑らかな水面が出来、中心部分で海水が旋回運動をしているように見えた」と報告している。この渦は、モービルの真横から全速突撃に入った回天が、前部に受けた40ミリ機銃弾の炸裂で出来た破孔から浸水し前が重くなっていたためか、或いは横舵系統を破壊されたか、そのまま水深42米の海底に真っ逆様に突入したのであろう。しかしプロペラは燃料の続くかぎり全速回転を続け、海水を攪拌して海面まで渦が届いていたもの、と私は推定する。搭乗員が海面に浮かんだのは、爆雷の衝撃でハッチの掛け金が外れて開き、中の空気とともに艇外に流れ出たものと推察される。

集まった各駆逐艦は爆発のあと「海面に浮かんだ2人の日本人を見た」と、一様に報告している。しかし、1か所で1人乗りの回天から2人浮かぶことはない。第一、回天5基の個々の終末場所が分かっているから、もしここに2人とすると人数が余る。

 

0600最初に発見された「白煙」は、回天が防潜網を突破したあと潜入する際に、尾端のプロペラが吹き上げた飛沫であろう。

 

 リーフで自爆した回天

0418海洋観測艦サムナーが見たプグリュー島の南1浬半の珊瑚礁で起こった大爆発とほぼ同じ場所で、7時間以上あとの1132に大爆発が起こった。同じサムナーが「閃光と、高く昇る水柱を視認した」と報告しており、巡洋艦レノも同様報告している。合わせて2基の回天がここで自爆したものに間違いない。ウルシー泊地の司令官カーター准将も「リーフの上で起こった2つの爆発は、他の潜航艇の存在を示しているか、これはおそらく環礁の縁で自爆したものであろう。その一つが発見された」と、戦闘詳報及び戦後の自著に記している。

 

リーフに座礁した回天の搭乗員はどのように判断したか。考えたと思われる要素は、

(1)まず、奇襲の秘匿である。攻撃開始予定時刻の前に自爆してはならない。敵軍に警報を出すことになるからである。また、

(2)兵器の秘匿である。この新兵器を知られることは今後の作戦継続に大きな障害となる。兵器を敵手にわたしてはならない。

この2点は充分、念頭にあったであろう。

 

進出航走中は慣性信管、電気信管とも安全装置を掛けており、解除するのは狭水道通過の後であるから、座礁即爆発ではない。また座礁してすぐに自爆を決断するとも思えない。

47潜は回天発進の際、同艦の推測位置よりも約2浬半、西へずれていたと見られる。その場合、回天は発進後僅か約15分でプグリュー鳥に衝突する。0418より前、おそらく03400400頃に衝突、座礁したであろう。0418に自爆した回天の搭乗員は、座礁時に破孔を生じて艇内に浸水し「満水した後では自爆の操作が出来なくなる」と判断したか、或いは搭乗員が「負傷して、猶予出来ない」などの状況となって、止む無く早い自爆の道を選び、安全装置を解除、電気信管のスイッチを押したと推察される。

次いで1132に爆発した回天は、座礁したのち「生ある限り戦うため、敵が現れたら一緒に爆発しよう」と機会を待っていたであろう。我々はそのようにする。しかし体力的に限度に達し、或いは呼吸困難となって、遂に自決と兵器破壊を兼ね併せて自爆したものと想像される。

搭乗員は拳銃を携行しているが、海中に擱座して艇外へ出ることが出来なかったか、「出て戦えば自爆できない。兵器を敵の眼に曝すことになる」と判断したのであろう。

12月下旬頃に、米艦サムナーの艦長白身がプグリュー島の南側の珊瑚礁を短艇で捜索し、爆発を見た場所で回天一基を発見、検分した。前部の鉄板は大きく裂けて後ろにめくれ、ハッチから後の半分だけの残骸となって、水深60糎の砂浜に少し埋まっていた。これは航走中に砂の上にのし揚げたとは限らず、深度5来で航走中に座礁、航走不能となったのち自爆し、後日の波濤によって砂浜の浅いところまで打ち上げられた可能性もある。回天は尾端に4翅の2重反転プロペラを持つが、その羽根がほとんど欠落していたのは、爆発で跳ね珊瑚礁に叩きつけられた為であろう。この回天が自爆した2基のうちの早いほうか、遅いほうかは分からない。あとの一基は珊瑚礁の深みに落ち込んでいるのではないかと想像される。

 

この調査までは、米軍は一人乗りの人間魚雷による攻撃とは思いが及ばず、開戦時に真珠湾を攻撃した2人乗りの特殊潜航艇と信じていた模様である。ムガイ水道前面で回天に体当たりした駆逐艦ケースも「艇の前端に魚雷発射管が2本、上下に付いているのをハッキリと見た」と報告した。駆逐艦ロールほかが爆雷攻撃を行い「日本人2人が浮かんできた」というのも、この思い込みのためであろう。

また、米軍側は当初ミシシネワの爆発を日本の潜水艦が湾外から発射した魚雷の命中と見ていた。1132の爆発も「潜水艦がこの時刻に魚雷をリーフに射ち込んだ」と解釈した。

 

一方、伊号第36潜水艦のほうは、伊47潜と同一の攻撃計画に従い、200030搭乗員今西太一少尉(兵科三期予備十官、慶応大学)と工藤義彦少尉(同、大分高商)が回天に乗艇した。潜航進出して(0300吉本健太郎中尉(兵72期)と豊住和寿中尉(機53期)が交通筒を通って乗艇、0415発進予定地点のマーシュ島1059.5浬に到着し.発進を開始した。しかし、吉本、豊住の両艇とも交通筒に固着し、機械を発動しても離れず、工藤艇も発進直前、操縦室に大量浸水した。3基までもが発進不能となって、遂に今西艇だけが0454発進してウルシー北部泊地を目指した。

今西艇は12ノットで水中航走すれば湾口到達は0540前後になる。この時刻ならば日出後であり視界は明るく、水道の発見.通航は格段に易しくなっていたであろう。もっとも、発進が遅れたことを強く意識して、規定速力の、訓練にも常用した12ノットを越えて多少増速した可能性が無いとはいえない。

 

菊水隊作戦において計5基の回天が発進した。内2基はリーフに座礁、自爆。1基は湾外で横合いから思わぬ衝突攻撃を受けて沈没した。しかし、あと2基は泊地進入に成功している。

だが、その1基は熾()烈な近距離射撃を受けて、決定的な突撃に転じながらも海底に突入する不運に見舞われ、あとの1基のみが敵艦命中を果たすことが出来た。

暗闇で手探りの水道突破を果たして命中した搭乗員に対しては、悪条件のなかでよく健闘したものと、同じ仲間として深く尊敬する。一方、発進後間もなく、思いもかけないリーフ衝突、座礁に至った搭乗員の無念の形相が目に浮かぶ。潜水艦長が最も重要な手順である発進地点確認を実行してさえいれば、起こることがなかった挫折である。

回天搭乗員たちは自らが担う戦局挽回の大業を達成することが叶わず、空しく自爆して果てた。彼らそれぞれの苦闘を偲ぶ時、拙劣な作戦、用兵に我々は心底からの怒りを抑えることができない。

5基それぞれの終末が略明らかになったが、各戦闘の回天搭乗員の名前は判らない。永久に特定できないであろうし、遺骨もないのが特攻隊員の通例である。1隻の撃沈も「菊水隊の5人が挙げた戦果」、それで良いのではあるまいか。

 

「人間魚雷・回天」は役に立たない兵器では断じてなかった。窮迫した戦局のもと、人命を代償とするに足る戦略的効果のある優れた兵器であった。巨艦群を一撃のもとに葬り.戦局を一挙に挽回する可能性が、他の兵器にあるだろうか。

しかし、古今「万能の兵器」なるものは存在しない。零戦が戦闘機として如何に優秀であっても、戦艦を撃沈するのは無理である。同じ一人乗りの回天ならそれが可能であるが、零戦と回天とでは用途が違うのであるから、ただ優劣を論じても無意味である。同様に特殊潜航艇の甲標的とも、回天は使用の目的、条件が違うので比較はできない。

ただ、戦争に限らず、相手がある勝負事は自分の長所を発揮し、弱点はカバーすることで戦う。回天も、使う側が特性を熟知し、それに応じた用法を採らなければ成功しない。いい加減なやり方では、折角の威力が活きないのである。

 

「眼のある魚雷・回天」はその故に、遠距離から母潜水艦を離れて湾口を探し、進入して狭く屈曲した水道でも通航し、防潜網も乗り越えて、停泊している空母、戦艦の艦底を正確に狙うことが出来る。だが、搭乗員は猫や梟ではない。水道を捜す時の視界は最低限、人間の眼で見える明るさが前提である。それが念頭にない作戦指示、発進命令ではなかったか。

日本の国が始めて特攻兵器として制式採用した回天であるが、最初に投入した菊水隊作戦は期待と発表に反して、事実は殆ど空振りに終わっていた。なぜそうなつたか。原因の究明は将来への反省とすべき具体的な例題となろう。根本的には「回天を知らない人々」が作戦をお膳立てした無責任体制にあると思われるが如何。

 

38.3任務隊の司令官であったフレデリック・C・シャーマン海軍少将(当時)は「その一日中、そして次の夜、我々は何時爆発するか分からない火薬の樽の上に座っているように感じた。休養の期間も楽しむどころではなく、広い洋上にいる方がよほど安全であろうと思った」と述懐している。     しかし、回天の群が予定通りの地点から、まともな時刻に発進していたら、更にまた、多数の回天が初陣のこの時攻撃をかけていたら、その程度の感慨では納まらなかったであろう。最初の一撃。その時こそ、回天にとって唯一、かつ、最大のチャンスであった。

 

以上の菊水隊各回天の戦闘状況は誰でも、また、外国でも、詳しく調査すれば判明することである。結果として第6艦隊司令部とか伊47潜艦長の権威を、或いは損なうものになるかもしれないが「今後のための歴史」の観点から、真実に近づく事を優先すべきものと考える。

  (平成16年9月30日)

 

付記:菊水隊関係の米側艦船の機密資料は、山田穣兄が回天に沈められた米艦ミシシネワの乗員の子息で同艦戦友会の幹事である歴史作家マイク・メヤー氏とメールで連絡をとりあい大量に入手できた。小灘も翻訳作業と分析を手伝って、平成13年に山田兄が「菊水隊ウルシー攻撃に関する一考察」として発表、関係者に配布した。一部の期友も受け取っている。小灘の資料入手には左近允兄の支援に負うところが大きい。

 

山田レポートは、彼自身が身体を傷めたほどの渾身の力作であるが、近代歴史学の手法に従い資料の検証に重きを置くため、読んで理解するのに時間と労力が要ると思われる。今回なるべく多くの人に回天作戦の真実を知って貰いたいと願い、搭乗員の眼で要約した。

(なにわ会ニュース92号 平成17年3月掲載)

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