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平成22年4月19日 校正すみ

回天搭乗員の一枚の集合写真

小灘 利春

最前列左から1人目 河合不死男(第一回天隊)、
      4人目 吉本健太郎(菊水隊伊36潜、金剛隊伊48潜)、
      5人目 小灘 利春(第二回天隊)  
第2列左から1人目 橋口  寛(神州隊伊36潜出撃直前終戦、自決)、
      2人目 川久保輝夫(金剛隊伊47潜)、
      3人目 久住宏(金剛隊伊53潜)、
      5人目 石川誠三(金剛隊伊58潜)、
      6人目 都所静世(金剛隊伊36潜)、
      7人目 豊住和寿(菊水隊伊36潜、金剛隊伊48潜)


(
この写真27人の内訳 兵70期1人 712人 727人 
532人 542人 3期予士2人)

 このほど初めて見る回天隊員の集合写真が出てきた。この写真は雑誌「正論」の本年五月号に「最後の海空戦」の著者でもあるノンフィクション・ライターの片岡紀明氏によって紹介された。目を通した向きが多いと思うが、その記事を離れてこの一枚の写真が含む色々な意味合いについて説明したい。

 士官搭乗員、下士官搭乗員合計27人の多人数が一緒に写っており、第一陣菊水隊の戦死者9人は誰も姿が見えないのに、伊36潜で出撃して発進不能の事態となり帰還した搭乗員の吉本健太郎、豊住和寿の両兄が中に入っている。一方、次の金剛隊で出撃、戦死した搭乗員たち、クラスでは川久保輝夫、久住宏、石川誠三、都所静世の諸兄が入っている。吉本、豊住の二人も金剛隊で再出撃し戦死した。菊水隊の帰還者が大津島に戻ったのは昭和19年の12月3日頃であり、次の金剛隊で最初に同月21日に出撃した伊56潜の搭乗員も写っていることから、撮影された時期はその中間、多分12月半ばである。

 金剛隊の隊員たちのこの写真を見て、何よりも印象的なのは、皆が伸び伸びと明るく微笑んでいることである。これから出撃する金剛隊の面々はもちろん、菊水隊の伊36潜で傷心の帰還をして再び金剛隊で出撃する吉本健太郎、豊住和寿も屈託のない笑顔でいる。中央にいる石川誠三が手にしている日本刀は10月15日以後彼が身辺に置いていた「伝家の脇差」である。彼は重巡洋艦「足柄」にこれを持ち込んでいたが、19年8月中旬に私と一緒に潜水学校学生を命ぜられて退艦するときは所在が分からなくなっていた。そのあと同期の高角砲指揮官小河美津彦がこの刀を探し出して艦内で預かっていた。呉にいた同艦が急遽(きょ)南方に出撃することになり、偶然にも徳山燃料廠に10月15日朝接岸した。大津島の基地から足柄を見つけた石川と私は午後、重油積み込み中の同艦を訪ね、出撃準備に慌しい小河美津彦から木箱に納めた脇差を受け取った。石川誠三は金剛隊の田中宏謨が乗組む伊58潜で出撃し、グアム島アプラ港に突入する際、その脇差を握って回天に乗艇したという。彼が掌を乗せた短めの日本刀の写真を見ると、当時の経緯が懐かしく脳裏に浮かぶ。石川の右にいる都所静世は杉田政一、佐原進が乗組む伊36潜でウルシー環礁に向かった。久住宏は山田穣、梅原芳人が乗組む伊53潜でパラオ諸島コッソル水道を目指した。川久保輝夫は佐藤秀一が乗る伊47潜でニューギニア北岸ホーランディア泊地に突入した。吉本健太郎と豊住和寿は賀川慶近が乗組む伊48潜でウルシー環礁に向かい、艦と同じく還らなかった。河合不死男はあと第一回天隊隊長として沖縄に向かい戦死した。橋口寛は光基地、次いで平生基地に移り、終戦となって自決した。同じく金剛隊の伊56潜でアドミラルティ諸島セアドラー港に向かったが攻撃不能となって帰還し、のち天武隊で戦死した柿崎実は訓練の都合か、写真に入っていない。

 ほかにも当時大津島で一緒にいながら写っていない者に、川崎順二、福島誠二、土井秀夫、中島健太郎がいる。福田斎、村上克巴は前の菊水隊で戦死した。このとき渡辺(三宅)収一はまだ呉工廠にいた。写真のクラス生存者は私一人である。無理に作った笑顔ではないことは、写真を観察すれば誰にでも判る。回天隊を戦後の風潮に乗って「地獄の大津島」などと凄惨、苛烈な部隊のように歪曲、中傷する向きがこれまで相当数いたが、「特攻隊だから」との勘繰りに過ぎないことが誰にも察しがつくであろう。
 
隊の雰囲気は清冽(れつ)で、張り切っていた。急迫した戦局を打開できる最高の兵器を与えられ、真っ暗闇であった日本の国の前途に身を挺して光明をもたらす使命感と希望を、搭乗員たちが共有していたからであろう。私自身「帝国海軍、大なりといえども、回天隊ほど素晴らしい部隊はあるまい」と確信していた。比較できるほど渉り歩いてきた訳ではないが、本心から私が「思いもかけず最良の配置を与えられた幸運を天に感謝していた」のは事実である。この気持ちを理解してくれない人が今の世の中にはいる。回天隊の搭乗員たちが朗らかに笑っている写真がほかにも多く残されている。

 この写真は今まで公開されていない。改まった記念写真ではないので配布されなかったのであろうが、戦後、平成7年に逝去された大津島基地の先任搭乗員帖佐裕氏の遺品の中からこのほど発見された。71期の同氏は回天の搭乗訓練の運営を一手に担当しておられたのに、戦後は関係書類資料を残されず、若干の戦中の写真を含めた人生各時期の写真と歌詞だけが、一枚の封筒に収められていた。「同期の桜」作者の死去なので取材に集まった記者たちにその封筒を持ち去られて以来、行方不明であった。帖佐氏の写真が一枚もないまま夫人は平成11年死去され、直前に私がビデオから複製して送った夫君の写真を胸に、棺に入られたと聞く。今回その封筒を搭乗員たちが協力して探したところ、封筒が夫人ではなく別の親戚の方の許へ戻っていたことが判明し、戦後59年の今年に入ってようやく我々が目にすることが出来た。そのような経緯から当時の雰囲気を証明する貴重な写真が世に出た次第である。

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