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平成22年4月18日 校正すみ

金剛隊伊48潜の戦闘

小灘 利春

敵泊地攻撃に出撃

 

菊水隊に続く第2次玄作戦の「回天特別攻撃隊・金剛隊」に回天搭載潜水艦6隻が参加した。うち5隻はそれぞれの攻撃地点で昭和20年1月11日黎明に一斉突入するため、航海日数に合わせて12月中に次々と大津島の基地を出撃していった。第6艦隊司令部は1月4日、期日の1日繰り下げを各艦に打電、攻撃実施を「12日黎明」に変更した。

6隻目の伊号第48潜水艦は昭和19年9月佐世保海軍工廠で竣工、初陣での回天作戦参加となった。他艦より遅く昭和20年1月9日、回天4基を搭載して大津島基地を出撃、西カロリン諸島の米機動部隊の前進基地「ウルシー泊地」を目指した。攻撃決行期日は1月11日と命令されていた。

艦 長  当山 全信少佐(兵59期、沖縄県)

水雷長  森賀 楯樹大尉(兵69期、愛媛県)

航海長  安藤喜代太大尉(兵70期、山形県)

砲術長  賀川 慶近中尉(兵72期、東京都)

機関長  小泉 豊蔵大尉(機49期)

機関長附 戸田  淳大尉(機52期)だった。

回天搭乗員

吉本健太郎中尉(兵72期、山口県)

豊住 和寿中尉(機53期、熊本県)

塚本 太郎少尉(兵科期予備士官、慶応大学、東京都)

井芹勝見2等兵曹(水雷科、福岡県)の4名である。

吉本中尉、豊住中尉は菊水隊伊36潜で発進できず帰還し、司令官に直接強訴しての再出撃であった。

これまでの各艦の航海日数、また菊水隊、金剛隊各艦の例から見ても、伊48潜は攻撃予定日の前日20日にウルシー環礁の周辺に到着して事前偵察の上、21日の黎明時に回天が発進した、と見るのが回天の泊地攻撃の常識である。沖合から隠密裡に進入する回天にとっては目標水域がだんだんと明るくなってゆく黎明攻撃が合理的であり、また交通筒が付いていない2基の回天に搭乗員を乗艇させるため、敵の近くで浮上しなければならない親潜水艦としても「沖合で、暗夜」が好都合である。

48潜は出撃後一切の連絡を行うことなく消息を絶った。電波を出せば忽ち位置を測定されて任務に支障を来たすから、電報を発信しないのは当然であるが、第6艦隊が1月31日、呉帰投を命じても応答がなかった。

第6艦隊司令部は金剛隊戦闘詳報で「21日予定の如く攻撃を決行せるものと認む」として「油送船1隻および巡洋艦1隻を含む有力艦船4隻を轟沈せるものと認む」と、同艦の搭載回天による戦果を高らかに謳う公式報告を行った。

関係者一同も回天は予定どおり発進したものと信じていた。戦後米国で刊行された各種の戦記が「伊48潜が21の夜に発見されて対潜掃討隊の追跡を受け、23日遂に沈没した」とだけ、一様に記述していることから「当然、回天を発進させたあとの交戦である」との推定は揺るがなかった。

ところが、最近入手できた米側秘密資料は意外なものであった。1月21日夕刻遅くの日本時間1930、第21哨戒爆撃隊の双発飛行艇PBMマーチン・マリナー機が国籍不明の浮上潜水艦を発見した。それも、ウルシー環礁西口から真西18浬の地点を真東へ、18ノットの高速でまっしぐらに湾口を目指し水上航走していたのである。夜光虫で青白く輝く波頭を夜目にも明るく蹴立てていたことであろう。レーダーで探知し、動きを偵察した上で目標に接近、視認した飛行艇は、直ちに攻撃するには近すぎたので旋回し、戻ったときは、潜水艦は潜没していた。機長は直ちに泊地司令官へ警報を送った。

回天発進後の避退であれば、潜水艦は当然ウルシーを離れてゆく筈である。魚雷で攻撃するために出入する敵艦を待ち伏せしているのであれば、充電のための航走を深夜とは言えないこの時刻に、殊更に敵の泊地へ直進、接近する針路を取ることはないであろう。艦首を湾口に向けて高速水上航行をしていたことは回天を発進させる目的で島へ急速接近中であったと見るほかない。即ち回天はこのとき未だ発進していなかったのである。

 

回天が深夜攻撃!

飛行艇が発見した地点からは、伊48潜がこのまま航走を続ければ1時間で湾口に着いてしまう距離である。恐らく発見された時刻1930頃に交通筒のない回天2基に搭乗員を乗艇させて潜没し、あと最大でも3ノットで2時間半ほど潜航進出する計画だったのであろう。更に2名の搭乗員が交通筒を通って乗艇し、2200頃、4基の回天が湾口を目指して発進する筈であったと推定される。

回天は残る距離約10.5浬を12ノットで進出し、2245頃湾口手前に到着して浮上、観測する。海面を航走しながら水路を探して通峡し、環礁内に入って敵艦めがけ突撃することになる。泊地を攻撃する回天にとって最大の難関がこの「狭水道の通航」である。泊地を取り巻く珊瑚礁の間の水路を発見できるだけの明るさが、この時刻にあるのか。これが作戦の成否に重大な意味を持つ。

当日の日没は1741、月が沈むのは2400頃である。月没までに、といっても月齢が半月の前の6.8では、東にあるならばまだしも、背後の沈みかけた月ではあまり役に立たない。雲があればもっと状況が悪くなる。泊地内で艦船を修理する溶接のスパークが見えれば何らかの艦船の存在を示してはくれるが、却って幻惑される。閃光を見ればリーフが間にあっても見えず、回天が座礁することになりかねない。

搭乗員は外洋の波立つ海面を浮上航走しながら特眼鏡で観測するのであるが、夜間訓練を少々経験したとて限界がある。この水道発見が困難な、しかも定石外れの夜間攻撃を、一体誰が選んだのであろうか。

そこで問題になるのは、近年公刊された第6艦隊司令部の戦闘詳報の記事である。

金剛隊作戦から帰着した各艦から内地帰着直後に提出された報告に基づいて作成したそれには、未帰還の伊48潜が「予定どおり1月212200乃至2400の間に 回天4基全部発進 」と記載してある。

電報を一切発信していない伊48潜の上記の行動を第6艦隊が的確に承知していたということは、この時刻の同艦の行動第6艦隊の回天作戦担当参謀の指示によるものであることを意味する。少なくとも第6艦隊司令部と潜水艦長との事前合議の上であることは間違いないのである。

何ゆえに、このような時刻に回天を発進させようとしたのか。9日前の1月12日に伊36潜が同じウルシー泊地へ攻撃をかけているので「今度は趣向を変えてみた」だけというのか。

 

対潜部隊との戦闘

ウルシー環礁は北緯10度、経度は東京と同じ東経約140度に位置している。菊水隊が攻撃した時期には日本標準時(マイナス9時)を米軍は使用したが、金剛隊の折は(マイナス時)を使用していた。以下の米側行動も日本時間に統一して表示する。

停泊中の特別対潜掃討隊の護衛駆逐艦「コンクリン」と「レイビィ」は急遽出動を命ぜられて抜錨、潜水艦発見の現場で2150から協同捜索を開始、「コーベジェ」も220403に合流、3隻で捜索を続けた。

21日と22日、飛行機の協力のもとに3隻が昼も夜も広く捜索を続行した。23日未明の0210ようやくコンクリンとコーベジェが潜水艦をレーダーで捕捉した。

位置はヤップ島の北東15浬。潜水艦が長時間の潜航に耐えたのち遂に浮上、充電航走と移動に移ったのであろう。目標の針路210度、速力18ノットと測定された。

潜水艦は潜没、0236コーベジェがソナーで捉えた。0251コーベジェはヘッジホッグを発射、続けて0402まで計5回ものヘッジホッグ攻撃を行ったが効果なく、目標を見失った。0802同艦は再び良好な感度を(つか)み、6回目の攻撃を行ったが今度も反応がなかった。

代わってコンクリンが踏み込んで0834ヘッジホッグを発射、17秒後4〜5回の爆発音を聞いた。そのあと0836、コンクリンの直下で極めて激しい爆発が起こった。艦全体が水平に、数フィートも海面から持ち上がったほどの猛烈な水中爆発であった。同艦の主機械、汽缶、発電機、舵取装置の全部が停止して、一切の動力を失った。艦内事務室の635キロの金庫が、溶接が切れて、甲板上を8フィートも動いた。

2隻の僚艦は「コンクリンの艦底の下から太陽の光が見えた」という。それで同艦は「米国海軍唯一の空を飛んだ軍艦」と呼ばれた。上空の哨戒機も「海面に浮かび上がったコルク栓のように艦が()ね上がった」と観測している。

48潜の艦長は真上に敵艦がいることを探知して、苦闘の果てにむざむざと沈められるよりはと、乗艇待機していた回天の搭乗員、吉本健太郎中尉もしくは豊住和寿中尉に指示し、戦う最後の手段として悲壮な「攻撃のための自爆」を行ったものと推察されるのである。

我々としては「回天の固縛バンドを解き、自由に攻撃させて貰えればよかった」と考えるのであるが、この金剛隊の時期にも「兵器の秘匿」を最優先した可能性が高かったと思われる。しかし艦内の真実は確かめる由もない。

0845重油や浮遊物が海面に浮上しはじめ、コンクリンは救命艇を降下して大量の浮遊物を拾い集めた。

48潜の沈没地点はヤップ島北端の北方17浬の北緯9度55分、東経13817.5分であった。このとき潜水艦の針路045度、速力3ノット、深度53米と測定されている。ヤップ島周辺は水深3千〜6千米の深海であるが、沈没箇所の至近に水深21米の孤立した浅所「ハンターバンク」がある。

米海軍最大の前進根拠地「ウルシー」環礁に近いヤップ島には日本海軍の第46警備隊が配備されており、クラスでは重巡「足柄」水雷士から転任した池田誠七中尉がいた。米艦側はその砲台を警戒しながら追跡していたので、伊48潜に海岸砲の射程距離内に入り込むまであと僅かの時間があれば生還できたかも知れない。

回天特別攻撃隊は最初の菊水隊で潜水艦3隻中の1隻、伊37潜を失い、搭乗員上別府宣紀大尉(兵70期)村上克巴中尉(機53期)宇都宮秀一少尉(兵科3期予備士官)近藤和彦少尉(同)とともにクラスでは砲術長斎藤徳道中尉が戦死した。第2陣の金剛隊では6集中の1隻、伊48潜が沈み、クラスの吉本健太郎中尉、豊住和寿中尉と砲術長賀川慶近中尉を喪った。その2隻ともが護衛駆逐艦「コンクリン」に沈められたのである。

37潜の場合も同様、僚艦「マッコイ・レイノルズ」がヘッジホッグと爆雷の連続攻撃を行って失敗したあと「コンクリン」が入れ代わって、最初のヘッジホッグ一斉射で命中弾を与えた。「コンクリン」の艦長は射撃装置の表示どおりに発射するのではなく、計器の数値の変化から、海中を針路、速力、深度を変えながら逃避する潜水艦側の心理を推察する能力に長けていたように思われる。その艦長も、回天によって被る筈の米軍の大損害を、自分が2度までも未然に食い止めたとは当時気付いた様子がない。

19年5月、ニューギニア北岸アドミラルティ諸島周辺に展開した日本潜水艦群の6隻を、護衛駆逐艦「イングランド」が1隻でヘッジホッグ攻撃により連続して沈めていった。たった一斉射で仕留められた潜水艦が2隻ある。日本の第6艦隊が潜水艦を一直線上に,等間隔に並べていることを察知して、芋蔓(いもづる)的に捕捉していったのである。新鋭呂号潜水艦7隻のうち意図して配備地点を外した潜水艦など2隻だけが生還でき、近くにいた伊16潜まで「イングランド」に沈められてしまった。

 

戦闘の勝敗を分けたのはレーダー、ソナーなど兵器の優劣ばかりではない。英知の指揮官がいたかどうか、それが戦局を大きく動かしたと言えるであろう。

(なにわ会ニュース96号 平成18年9月掲載)

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