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平成22年4月19日 校正すみ

蛟竜隊に属して想い出すままに

吉本 信夫

20余年の昔.当時の記録類は終戦時一切焼却して現在手許にあるものは奉職履歴と期友故畠中和夫君の遺書の写のみである。従って記憶も極めて不確かであるが思い出すまま若干を記してみたい。

私の特潜経歴は終戦直前の半年に満たない短期間である。まず2特戦に着任して約半月程度搭乗員としての訓練を受けた。当時の教官は72期小西愛明君で、2人で訓練艇に搭乗し安芸灘を潜航した。その頃海上部隊がほとんど水中特攻化するに至り、機関科出身の私は整備に配属され、続いて新たに編成された第10特攻戦隊第101突撃隊付を命ぜられた。101突撃隊の最初の戦力は蛟竜3艇と整備員約10名の編成で、司令官大和田少将、関戸先任参謀(101突司令兼務)、山田整備参謀外数名とわれわれ101突整備員共に母艦として配属された輸送潜水艦{艦長国弘大尉)に乗組み、三机、安下庄沖、宿毛等においで訓練に従事した。

なお、3艇の艇長は71期吉本大尉、72期畠中大尉、73期1名(氏名失念)であり、6月頃から配属艇が逐次増加するに至り、10特戦は佐伯へ進出、司令部は航空隊と同居したが、101突撃隊は湾内松浦村の海岸に基地を定め、訓練及整備を行なった。その後終戦に至る間、艇数は100隻を越えるようになり、整備員も約50名に達し本土決戦に備え、実戦魚雷を装填し訓練も激しさを増したが、機械の故障も多く最も多発したものはディーゼル機関であった。          一

松浦海岸には整備工作施設は何も設けられず、従って民間の木造造船所施設を借用したりして整備する有様であった。然し漁村であったため一度も空襲を受ける事なく叉出撃命令も出ないまま遂に終戦を迎えた。終戦後は間もなく全部隊大浦突撃隊に引揚げ蛟竜は総て呉工廠造船ドックに入れ9月15日解隊した。

終戦前約半年の特潜部隊勤務は主として豊後水道の佐伯と四国の深川等漁村に展開しての戦闘訓練で生活上は随分不便もあったはずであるがそのような面での苦しい思い出等は何も残っておらず、充実した日々の思いのみが記憶の底にある。その中でも特に同期は畠中君のみであり、共によく語り合った思い出は尽きない。終戦直後彼が私宛に遺書一通を残し沖合はるか艇上において志を果し得なかった無念を胸に自決したことは痛恨の極みである。彼は平素口数が多い方ではなかったが訓練には極めて熱心で技両は卓越していた上、豪胆且つ細心であった。当時のディーゼル機関は潤滑油の消化も激しく燃料一杯の航続距離が危ぶまれる程であったが彼は釣合タンクにまで潤滑油を搭載し出撃命令を待っていた。彼を出撃させていたならば必ず敵艦を撃沈していたであろう。しかしながら遂に敵に一矢を報いることもなく敗戦に至った時の彼の胸中は察するに余りがある。

8月16日夕刻、撃留中の隣の湾から私の宿舎をおとずれ何気なぐ話をして永久に去った彼、又高知県の郷里に墓参した際ご母堂から歌っていただいた「よさこい節」は私の生涯忘れることのできないことである。

(なにわ会ニュース19号 昭和45年2月掲載)

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